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学校(3)

「……どうして分かったんですか」

 そう返しながら、私は様々の理由から寒気を感じていた。

 つまり、その鋭い洞察力に当てられて蛇に睨まれた蛙のようになり、それとも背後を尾行されていたのでは……と慄きつつ、掴んだ手首はどうする気なのだろう……と震え上がっていたのだ。

 いずれにせよ、ガラッと変貌した廊下の空気感。

 最前までは賑やかさを演出していた生徒たちの話し声が、夜の雑木林に風が吹いて葉が擦れるような不気味の音声に、次第に聞こえて来るのだった。

「私の鼻はそれほど冴えていないから、すぐには分からなかったのだけど」

 すると、先生は私の手首をソっと離して、こう続ける。

「その消臭剤の香りは、確か用務員室に置いていた……特に、検眼枠をした用務員さんが愛用していた匂いだと思うのだけど」

 どうやら、尾行というよりは洞察力の鬼らしかった。

 用務員室で使わせて貰った、バラの消臭スプレー……あの匂いを私の衣服から嗅ぎ分けると同時に、それが彼の愛用品であることまで察していたのである。

「…………」

 ただ、依然としてその発言の意図は分からない。

 通常ならこの場合、……寄り道をしたことがバレてしまった。いくら正当な理由があったとしても、叱られてしまうかも知れないぞ……という具合に委縮するだろうが、今回はそうではない。

 なぜなら、やはり喜楽先生は、放任主義の先生のはずだからだ。

 単に評判だけで知っているのではなく、実例として知っている……例えば、遅刻魔である智が遅刻理由を含めて、一度たりとも喜楽先生から叱られたことが無い……ということを智本人から聞いたことがあった。

 だから、私は叱責のために呼び止められているのではないのだ、とは思っている。

 しかし、ならば他にどのような理由があって、放任主義の彼女が私を呼び止めているのか……と、そこまで考えてみると、全く何も思い浮かばないのが現状だった。

「…………」

 そして、何も浮かばないことが恐ろしい。

 一体この人は、何を思って私の前に立ち憚っているのだろう……という疑念が、彼女特有の美々しい厳粛さによって脚色され、どこまでも恐ろしく感じられてくる。

 そうなると同時に、私の中ではある犯罪心理が芽生え始めていた。

 すなわち、用務員さんと会った件について、白を切ってしまおうか……という発想。

 というのは、どうも今の先生に対しては正直に話す気になれない……それを話してしまうと、何か嫌な結末をもたらすような気がしてならないから……という心理が働いたので、彼女には何等の恨みも無いものの、嘘を吐いて誤魔化してしまえ……と決めたのだが。

「……あ、そうなんですね。つい最近、家で使ってるのを買い替えたんですよ。それが偶然、同じ物だったんですね」

 などと素人の三文芝居を演じたのだが、食い気味に言われた言葉。

「イントネーションと言葉遣いにね、彼の影響を受けた痕跡が見られるのよ」

「……は?」

 私は自分の喉を撫でつつ、素っ頓狂な声を出す。

 先生はまるで構わないといった様子で続けた。

「会ったのよね? 杏子さんは、用務員さんと」

「…………」

 私は絶句しつつ、目を丸くして固唾を呑む。

 ……ここまで来ると、あながち私の警戒心も過剰ではなくなったようだ。

 私が用務員さんとの接触を否定すると、それを執拗に追及してくる態度……自分の聴覚までも根拠に使って頷かせようとする、意地のような執念……まるで普段の先生では有り得ないような彼女の行動に、私は困惑しつつ、そして明確に恐怖していた。

 何が彼女の逆鱗に触れたのか。

 何が彼女の気を動転させ、昨日以前から逸脱した変貌ぶりを遂げさせてしまったのか。

 ……それもまた、今朝から続く一連の怪奇現象の、その一環として見るべきなのだろうか。

「…………」

 その考えに至った時、私は半ば自暴自棄の気分になっていた。

 すなわち、用務員さんとの接触については洗いざらい暴露してしまえ……それで彼女の気が済むのなら僥倖だ、これ以上の悩み事は増やしたくない……となって、この一瞬の安堵のために破れかぶれ式の自白をしたい気分になっていたのだ。

 そして私は、結局のところ気分のままに全てを打ち明けることにした。

 通学路で目撃した縦横無尽のテープ、そこで用務員さんと出会い、落合君の行方不明について知らされたこと……その衝撃に意識を失い、用務員室に運ばれて介抱されると、談笑という形で精神状態の回復に努めて貰ったこと……それらの説明を、彼女の一層増したような厳粛さに圧倒されながら、訥々(とつとつ)として言った。

 ……どうか、これで満足してはくれないだろうか。

 そう願いつつ、恐る恐る顔を上げる。

 すると、彼女は即座に私と視線を合わせ、やや食い気味にこう返したのだった。

「なぜ、保健室には行かなかったのかな」

 ……いよいよ可笑しい。

 言い掛かりとまで形容すべき程度の執拗さに、彼女は成りつつある……私は職員室のドアの位置を確認しつつ、未だ彼女に抱いたことの無い緊張感で返した。

「……喋ったことの無い保健室の先生より、面識の出来た用務員さんと話している方が、気が安らぐと思いました。……保健室より用務員室の方が、個人的にはリラックス出来る環境だとも考えました」

「それなら、保健室で用務員さんに相談すればよかったでしょう」

「母を思い出すので、薬品の臭いは苦手なんです」

「…………」

 ここでようやく、先生は閉口した。

 僅かに口を開いて、視線を気まずそうな具合に逸らす。

 ……咄嗟に出た嘘としては、そして不謹慎ではあるものの、効果はあったようだ。

 実際はというと、確かにお母さんは勉強熱心だったが、薬品に関する知識は無いに等しかった。あれだけストイックな生活を送りながら特に医薬品は必要とせず、私たちに薬物を盛ることも無かった。

 それが事実だったのだが、どうやら今の変貌した先生でさえも、……一葉家の父子家庭事情については迂闊に触れてはいけない……という心理が通常通りに働いているらしかった。

 そして、顎に手を当てつつ、いつの間にか思案顔に変わっている。

 ……今のうちに、この場から立ち去ってしまおうか。

 私はそう思い始めていた……虫の居所が悪いのか分からないが、今の先生には関り過ぎない方がいい……というのは明らかだったので、適当な挨拶と共に退散しようとする。

 しかし、それは失敗に終わった。

 私が「失礼します」と発音しようとした「し」が言い終わらないうちに、

「少し質問を変えるね」

 と制するように言って、了解も待たないままに続けたのである。

 そして、それからの話は、質問を変えると言いつつも、例の用務員さんに関する話題だった。

「杏子さんがそういう理由で用務員さんを頼ったのは分かったし、その理由をそのまま遅刻届に書けばあとは私から公文先生に補足しておくけど、そのために一つ聞いていい?」

「そのために、ですか」

「用務員さんはなんで相談に乗ってくれたの?」

「……親切だったから、じゃないですか?」

 妙な質問だ、と思いつつ、なるべく表情に出さないように答える。

 すると先生は「いいえ」と明確に否定して、厳粛な態度を貫きつつ続けた。

「彼が本当に親切な人だったら、杏子さんを用務員室に引き留めはしなかったはずよ。そうしてしまえば、杏子さんが授業をサボタージュする形で用務員室に居座っていたと、先生たちに疑われてしまうから」

「そんなことは」

「ないのだとしても疑いの余地があるのよ。なぜならその行いは、正式ではないからね」

「正式って…………」

「生徒が体調不良になった場合、この学校では保健室か職員室に連れて行くことが規則なの。保健室の場合なら保険医さんに様子を見てもらって、職員室なら早退届を作成してもらう……というのが決まりになっていて、それ以外の方法は正式ではなく、疑いを持たれるような方法だから先生に叱られてしまう。それをこの学校の用務員である彼が知らないはずはないから、つまり彼の行いは親切心とはむしろ真逆の心理によってされたのであって、杏子さんを慮ったそれでは決して無いということなの」

「…………」

「それを私に言われても、と思うわよね。勿論、動機については本人から直接聞くよ。だけどその前に、杏子さんには「彼と何を話したのか」、その内容を教えて欲しいな」

「……聞いてどうするんですか? そんなの」

「仮に彼の行いが親切心によって行われたのではないのなら、彼が相談にかこつけて杏子さんの個人情報を聞き出そうとした可能性が出てくるのよ。だからその内容を精査するべきだと思ってね」

 ここまで聞くと、私はある新規の発想を頭の中で思い浮かべていた。

 すなわち、喜楽先生は私に対して固執しているのではなく、用務員さんに対して固執している可能性があるな……という予想である。

 要するに、先生が聞きたいのは「一葉杏子が用務員に話した内容」ではなく、「用務員が一葉杏子に聞いた内容」であって、知りたい内容は同一であるものの、その焦点は用務員さんの方に向けられているのでは……という発想。

「…………」

 その場合なら、先生の心境について一定の理解は出来る。

 疑いの目が用務員さんに向いている理由はともかく、要するに先生もまた、この一連の異常事態に警戒心を高めているのではないだろうか……という具合に推測出来るからだ。

 実家が泥棒に入られて姉が幽体離脱している、といったことは無いのだとしても、汐土市や貴志辺高校では事件が起き過ぎている……そのために警戒心が高まり、あらゆるイレギュラーに対して疑って掛かるというのなら、それは私と同じ心理が働いていることになる。

「…………」

 ただ、その理由のために、私に疑いの目が及ぶ……というのは考えられなかった。

 というのは、これは全く理屈ではなく、感情的な事情。

 これほど完膚なきまでに被害の憂き目に遭わされて、それでもなお疑念を抱かれるほど私は素行が悪かったつもりはない。謂れの無い疑いを向けられるような覚えは一切なかった。

 しかも私は、最前の説明で落合君が自分の交際者であることを明かしている。

 それでも私を疑うような人物では、喜楽先生は無かったはずである……既に変貌した後とはいえ、その程度の面影は有っていいはずだ。

 だから私は、先生の疑惑が誰に向けられているのかを確認しようとした。

「私は何も、他人に言って困るようなことは言ってませんよ。なので、それでも気になるなら用務員さんに聞いてください。私から言えることは有りません」

 と言って、視線を合わせる。

 つまり、用務員さんのことを疑っているのなら本人に直接詰め寄ってもらった方がいい……私は正真正銘、彼から怪しげな質問をされた記憶は無いのだから、別段先生に話すことも無く、

聞かれるようなことも無い。

 それでも私に対して詰問をするようなのだったら……と思っていたのだが。

「いいえ、彼が邪な考えで杏子さんと関わったのなら、なおさら彼の口から聞き出すことは出来ないでしょう。だから杏子さん、あなたから聞くしかないの」

 彼女は平気の表情でそう言ったのだった。

 そして私は、先生が言い終わらない内に視線を地面に落として、完璧な俯きをしていた。

 話を聞く意味はない、と思ったからだ。

 私自身が平気だと再三に亘って言っているにも拘らず、それでも執拗に用務員さんとの会話を探ろうとしてくる。

 そうなれば、疑わしいのは私でも用務員さんでもなく、先生の方ではないか。

 その上、自身の怪しさを一つも払拭しないまま私たちを疑って掛かる……その無理矢理さも含めて鑑みると、いよいよ今の彼女から普段の先生の面影を見出すことは不可能に近かった。

 そうなると、私の中で連鎖式の心境変化が起こる。

 すなわち、彼女は普段の先生から豹変している……ということが明白の程度まで確かになると、もはや私は彼女のことを先生として、引いては喜楽先生として接する必要性が無くなる。

 すると、彼女の様々な奇行については……あれは喜楽先生に瓜二つの不審者が貴志辺高校に忍び込んで、犯罪行為をしていたのかも知れないぞ……という具合に、全く見方が変わってくる。

 そうなれば自然、私の彼女に対する感情・振る舞い方も変わってくる。

 すなわち、最前まで私の身を凍らしていた喜楽先生への恐怖感はすっかり氷解しつつ沸騰し、厳重だった警戒心は据え置きのまま、不審者に対する遠慮容赦のない怒りとその熱量が込み上げて来たのだ。

 相手が喜楽先生ならば、今までの信頼関係や信用度を担保に、その執拗なまでの質問責めに耐えることが出来た。

 しかし、相手が不審者なのであれば……傷心の私をイタズラに弄び、謂れの無い疑いを掛けてくる愉快犯の類なのだと知れば。

 もはや私は、言われてばかりの身ではなくなったのだ。

「あの、余計なお世話ですよ」

「…………」

 彼女は僅かに瞼を開く。

 そのまま数秒が経過し、何かを発言しようという気配が見られたのだが、私はそれを完全に無視する形で長々と続ける。

「手荷物検査の時に智がカッターナイフを持っていたことを見ないフリしたのは、中学生の時に通り魔事件の現場に居合わせたことがトラウマで刃物を持っていないと安心できないから。遊が授業中眠っていても注意しないのは、持病の疲労感が原因で長時間起きていられないから。ネオが音楽の授業をサボりがちなのを責めないのは、剣道で喉が鍛えられすぎて声量の調節が不得意になったから。そして、私が遅刻してるのに用務員室に寄ったのは、落合君の件で心を病んでいたからです」

「…………」

「いつもの先生なら、私が用務員室に居た理由はそれだけで良かったはずです。もっと言えば、たかだか三十分程度の寄り道なら理由がなくても黙認していたと思います。だって喜楽先生は、放任主義の先生ですから」

「まあ、そうね」

「なら、あなたは誰ですか?」

 この時、私はオーバーフローじみた紅潮の仕方をしていた。

 頭は沸騰し、呂律は盛んな熱運動によって流暢になって、ただしその内容は発熱した脳によって精査されず、検閲を経ないままの刺々しい言葉が矢継ぎ早に出るのを止められなかった。

「私の知っている喜楽先生は、例え私が用務員さんに個人情報を軽率に喋っていたとしてもそれは自己責任だと切り捨てるはずです。だからこそ、私はそこまで執拗に追及してくるあなたのことをいつもの喜楽先生とは思えません。少なくとも、私から見て喜楽先生の放任主義はそれぐらい過激で極端でした。それとも、先生は私のことを「自己責任では収まらないぐらいの何かをしでかした人間」であるとでも疑っているんですか? それだったら多少は納得がいきます。全ての責任を自己責任に放任する先生が、例外的に自分でも責任を負おうとする場面があるとすれば生徒が看過出来ないほどの凶行に及んだ場合でしょう。つまり、先生は最近起きた一連の事件に私が関与していると勘違いして」…………、と。

 そこまで捲し立てていたことを、私は記憶している。

 この頃には既に周囲の声が聞こえなくなり、視線はただ彼女の顔面にのみ集中しそれ以外は見えず、考える私が喋っているのか喋っている私が考えているのかも分からなくなっていたのだが。

「はいそこまで」

 という、陽気と爽快の合いの子みた声音が聞こえて来るので、私は喋るのを中断した。

 ……というよりは、私の見ていた相手の顔が、突如として私の視線から外れたからだった。

 紺色のツナギを着用し、鼻には黒色の検眼枠を掛けている。

 用務員さんは喜楽先生の背後に立つと、その肩を片手で掴んで横に退かす形で、何等の前触れも無しに出現したのである。

「……用務員さん?」

 怒涛の勢いを失った私はみるみる体温が下がっていくのを感じつつ、呆然としながら呼び掛ける。

 しかし、彼が私の呼び掛けに反応する前に、先生が曇った表情を浮かべつつ言った。

「……妙な現れ方をしないでください。驚きました」

「平気な顔で嘘つくよね。私が手をかける十秒前には足音で気づいてたくせに」

「……廊下は人の往来する場所です。なので、あなたの足音は他の人の足音に紛れて聞こえませんでした」

「なら、足音消して近づく意味なかったな。ちなみに君は、忍び足のやり方って知ってる?」

 そこに突然話を振られたものだから、私はビクリとして用務員さんの顔を見る。

 見ながら、それを私に聞いてどうするのだ……という気がしつつ、最前の反動で半ば放心状態になりながら答える。

「つま先立ちで歩く歩行法、というぐらいしか知らないですけど……それが何か?」

「そうなんだ。また機会があったら詳しく教えるね。機会がなければネットで調べるといいよ、その程度の知識だ」

「……はあ」

 その頃には私は憔悴し切って、自動的に返事をするだけの機械に成り下がっていた。

 そして、ボンヤリとした頭のまま眼前の光景を見ていた。

「用務員さん」

 肩を掴まれた手を剥がしながら、先生は言う。

「特に用が無いならどこかへ行っていただけませんか。いま話をしているところなので」

「私の話でしょ?」

「……ええ、そうですけど」

「私は彼女の相談に乗ったよ。そうするよう促したのは私だ。彼女は何も悪くないし、私は必要以上に彼女から話を聞くこともしなかった。先生が肩肘を張って疑念の限りを尽くすような出来事は、用務員室では一つも起こらなかったよ」

「……そうですか」

「じゃあ、」

 と言いつつ、用務員さんは先生の肩を掴んで自分の方に寄せた。先生は不服そうな表情をしながらも何等の抵抗も見せなかった。

「先生は借りるよ。あとは大人の話だからね。で、君はこの後どうするの?」

「どうする、と言いますと……」

「授業に行くか、家に帰るか。相談を受けといて不甲斐ないけど、さっきの様子からするとあまり精神的に回復してなさそうなんだよね。私は君のことを君から聞いた以上に知らないけど、きっと普段からあんな風に怒ったりしないでしょ?」

「いえ」

 首を振りつつ、俯いたまま答える。

「私は大丈夫です。このまま授業を受けます」

「そっか。じゃあ、気を付けてね」

 用務員さんはあっさり引き下がって、先生の肩を掴んだまま後ろを向いて歩いていった。

 一歩二歩と遠ざかっていく背中を、私は暫く眺めていた。

「…………」

 それが五歩ぐらいした時に、私は二人の背中に向かって呼び掛けた。

「あの、すみません」

 用務員さんは立ち止まって、「何かな?」と振り返る。

 しかし、話があるのは彼ではなかった。

「喜楽先生」

 呼びかけると、彼女は振り返らない。

 それでも構わずに、私は続けた。

「きっと、喜楽先生にも何か考えがあって私を呼び止めたんだと思います」

「…………」

 先生は無言のまま、次の言葉を待つ。

「だから、放課後もう一度話し合って、お互いの誤解はその時に解きましょう。だから今は、話し合おうともせず一方的に感情をぶつけてしまったことだけ謝らせてください」

 私は頭を下げて、「すみませんでした」と謝った。

 ヒールの音が二回響く。

 私が顔を上げると、先生は振り返って「ごめんなさい」と頭を下げ、用務員さんと一緒に廊下の向こうへと歩いていった。

「…………」

 生徒たちの賑やかな話し声が聞こえるような精神状態になり、同時に授業開始一分前のクラシックが廊下に響き渡る。

 職員室からは各先生方が次から次へと出て来て、棒立ちの私を不思議そうに眺めつつ、私から遠ざかる形でそれぞれの目的地へと向かって行く。

「…………」

 気のせいだろうか。

 喜楽先生の「ごめんなさい」という言葉が、さながらプロポーズを断る時のような、拒否のニュアンスを帯びていたように感じたのは。



 三時間目開始のチャイムを聞きながら綺麗な方の女子トイレ(そうでない方は一度使用してから二度と使ったことはない)に入り、私は簡単な閉鎖工作を行う。

 一番奥の個室から持ってきた清掃中と書かれた立て看板を、ドアの前に置くだけの極めて簡単な封鎖。

 簡単ではあるが、ただでさえ授業中にトイレを利用する人が少ないうえに他のトイレならいくらでもあるのだから、敢えてこのトイレが使われることはないだろう。

 そういった算段の元、ドアを閉じて洗面台に向き直り、台の上にカバンを置いた時。

「随分と気が立ってたね、さっきは」

 という声が背後から聞こえて来る。

 ビックリするような気力も持ち合わせておらず、儀礼的に振り向くとやはりそこに立っていたのは薄ら笑いを浮かべる銀だったので、私は洗面台の方に顔を戻した。

「あんなに怒ることかな。先生も先生だったにしろ、あんまりな仕打ちだったと思うけどね」

「先生のあの態度だけが原因じゃないよ。他にも理由は有る」

「他にも、ね」

 反復しながら体を横に傾け、鏡越しに私と目を合わせる。

 そして、全部を見透かしたような薄ら笑みのまま続けた。

「知ってるよ。要するに、詰問されたこと自体は問題じゃなくて、あなたはその内容に不満があったんだよね。「一葉杏子が用務員と話していた会話の内容」ばかりを追求されて、「一葉杏子だけが登校して来た」…………ということについてはまるで無関心だったのが、あなたは気に食わなかったんだ。一葉姉妹の分裂は、ニュース未満の仕様も無い近況に過ぎないんだぞ……という風に、言外に示されている気がしたんだよね」

 そこで一旦区切ると、今度は私の横に並び立って腰を曲げ、低い位置から嘲笑の顔をしつつ言う。

「つまり、八つ当たり的な側面も含めた激昂だった訳だね。どちらにせよ、あんまりな仕打ちには変わりないということだ」

「……それを言いに、わざわざ出てきたの?」

 ウンザリしながら尋ねると、徐に銀は私の背中に隠れて鏡から姿を消しつつ、「振り向いてみて」と言った。

 その意図を考える気力も無く、否定する気も絶無だったために、私は無警戒に一回転する。

 すると、銀の首から上が消失していた。

 断面の部分は……と確認しようとすると、みるみるうちに銀の体は消失していき、十秒もしない内に私の視界から消えていた。

「わざわざ出てきたも何も、私は家を出る前からずっとあなたの傍に居たよ」

 声に反応して振り向くと、銀はいつの間にか洗面台——手洗い場を境界に、カバンの反対側

——に座っていて、私と目が合うとこう続けた。

「ただ、姿は見せないようにしてたけどね。騒ぎになっても面倒だから」

 そう言いつつ右手を掲げ、手首から先を消失させると次の瞬間には元に戻っている。

「そんなことも出来るんだ」

「まあね」

 そう返しつつ手を下げた。

 ……その技術は私が家を出る前に会得していたということだから、随分と前から出来ることを確認していたのだろう……ともすれば起床から間もない内に試していたのかも知れず、だとしたらその臨機応変性能には、不服ながら感服せざるを得なかった。

 などと思っていると、銀は両足を所在無さげにぶらつかせながら言った。

「それで、あなたは何か言っておきたいことはないの? ここを出たら、しばらくは落ち着いて会話できるタイミングもないと思うけど」

「……別にないかな。今はあんまり、話したい気分じゃないし」

「だよね。じゃあ、さっさと始めたら?」

 投げやりな口調を追求する気も起らず、私は軽く溜め息を吐いた後、カバンから筆箱を取り出す。

 その間、銀の方は話し足りない気分だったのだろうか、天井の方を見ながら独り言をする。

「それにしても、ドアのあるトイレがあるんだからお誂え向きだったよね。個室に入ってするっていう方法もあるにはあるけど、窮屈だし不潔だもんね」

「……まあ、かもね」

 適当に返事めいたことをしつつ、筆箱からハサミを取り出す。

 それを右手に持ち、左手には後ろで括った髪を握って、私はそれを切り落とした…………。その髪の束からヘアゴムを取り出しつつ首を軽く振ってみると、毛先が極めて自由な具合に左右すると同時に妙な軽さを覚えた。

「全然躊躇わないんだね。臨機応変なのはどっちかって話だけど」

 銀は洗面台の上から、奇妙な色の虫でも見るような表情で私のことを見ていた。

「躊躇はトイレに入る前から済ませてたからね。何はともあれ、これで私と銀は同一人物じゃなくなったわけだ」

「まあ、」

 銀は洗面台から降りて私の背後に回り、自分の後ろ髪を触りつつ私の後ろ髪をまじまじと見て言った。

「確かにこれは、どう見ても私じゃないね。体を乗っ取ろうとしても、自分の体と同じようにはいかないと思うよ」

 それを聞きながら、鏡に映る二人の人物を私は眺めていた。

 その両者が判別可能であることを十分に確認し終えると、私は満足しつつ足元のゴミ箱に髪の束を捨て、ハサミを筆箱に収納するなどしていたのだが、その間にも銀は独り言をする。

「さっきの話を蒸し返すようだけど、やっぱりあなたも私だよ。「自分の体に幽体離脱した姉を憑依させて、その間自分はゆっくりと休息を取る」……なんてアイデア、当事者でもないのに思い付かないでしょ。しかも、憑依したまま体を返してもらえない……という危険性まで考慮して、自分の見た目を大胆に変更した。自分から遠い存在ほど精神的な作用はし辛いという過去の実験結果まで持ち出して対策を講じているんだから、やっぱりあなたの臨機応変性能も大概だよ。私と同じで」

 私と同じで、というのは余計だ……と思いながら筆箱をカバンに仕舞い、手洗い場の前で腰を曲げつつ肩のあたりを叩いた。一刀両断で切り落としたので、細かい毛が残っていたりはしない。

 ……銀は憑依と言ったが、彼女が今からするのは、あくまでテレパシーの範疇である。

 すなわち、テレパシーによる対象の遠隔操作。

 動きたいと思う気持ちを肉体に連絡して動作させる……といった一連の信号伝達を、外部から割り込んで行ってしまう方法……その行為を私たちは憑依と呼んでいるのだった。

 なお、その方法を確立するための実験は、近所の野良犬と動物園の猿、そしてお互いの体を対象として実施された。

 その結果、操作しやすかったのは[犬→猿→人間]の順番だった。

 倫理観を知らない小学生の実験だったが、この実験結果から私たちは、「より自分に近い存在であるほど憑依が簡単である」という仮説を得た。

 つまり、私は断髪することによって長髪の銀と差別化をし、両者の近似性を敢えて損なわせることによって憑依が掛かりすぎないようにしたのだった。

 憑依して以来、永遠に乗っ取られたままにされてしまう……という事態を危惧して。

「それで、どのぐらい休む?」

 銀は如何にも有害な薄ら笑みのまま、体を横に傾けて鏡越しに尋ねる。

 私は少し考えて、「あとで考える」と言った。

「無気力だね」

「充電期間なだけ」

「まあ、そうと決まれば壁に凭れてよ。あなたから私に体の支配権が移る時に、一瞬だけ意識が飛ぶと思うから」

「了解」

 私は素直に壁に凭れかかって、後ろを振り向こうとした。

「他に何かしないといけないことはある?」

 そう言った頃には行動は始まっていた。

 彼女は両手を広げて私に飛び掛かり、それが至近距離にまで迫ってきて接触するかしないかのところで、私の意識は……フッ……と、どこかへ飛んで行ってしまったのである。

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