学校(2)
用務員室を出た私は、生徒たちの賑やかな話し声を聞きつつ途中で下駄箱に寄って、ローファーからスリッパに履き替えると職員室に向かって階段を上る。
智から聞いたのだったか、どうやら遅刻したら職員室に行き、遅刻届を作って先生に提出しないといけないらしい……ということを思い出したのだ。
階段を上りきって突き当りの廊下を右に進むと、そこに職員室はある。
しかし、私はドアの真向かいにある壁際に立って、ノックするのを躊躇していた。
職員室には、一葉姉妹のことを知っている先生が居る可能性があるからだ。
それは私の担任の公文先生や、銀の担任の喜楽先生なのだが、彼女たちから銀の欠席のことを根掘り葉掘り聞かれはしないだろうか……という気がしてならない。
というのは、私たち双子は、今まで同じタイミングでしか欠席したことがないのである。
一葉姉妹は病気でしか学校を欠席したことが無かったのだが、なぜか私たちは病気に罹るタイミングまで図ったように同時だった。テレパシーでも病原菌まで共有されるはずはなく、一卵性双生児とはいえ同じタイミングで病気になるのは稀なはずなのだが、どうも私たちにはそのような特徴があった。
そのことを、私たちの担任である二人は知っている。
だから先生は、銀だけが欠席して私だけが登校してきたという異常事態に対して説明を求めてくるだろう……と私は踏んでいた。特に公文先生は、次の授業が始まろうがお構いなしに取材を続行しそうなきらいがある。
それ自体は、別に構わない。
ただ、そのことによって悪目立ちしてしまい、またぞろ小学生の時のような扱いを生徒からされはしないだろうか……ということが気掛かりだったのだ。
「…………」
しかし、いつまでもそうしてはいられない。
二時間目の授業は終わり、あと十分もしないうちに三時間目が始まってしまう……そして、いくら逡巡したところで遅刻届を出さないといけないのは決定事項だった。
深く息を吐きつつ、意を決する。
そして、私は向こう側の騒がしさに掻き消されないだろう音量の、やや強めの勢いでドアを三回ノックした。
……しかし、返事はない。
だが、既に私の気分はケセラセラ根性に切り替わっていたので、私はただ勢いのままにドアを横に滑らせた。
そして、上半身だけ室内に入りつつ、どこへともなく呼びかける。
「失礼します。あの、遅刻届ってどこで出せばいいですか?」
そうしながら、上下左右を縦横無尽に見る。
公文先生は居ない…………喜楽先生も居らず、既に次の授業の教室に行っているのだろうか……と思っていると、部屋中の各先生方が無言になって私の方に注目していることに気が付く。
こういう意味でも私は躊躇していた。
職員室では恒例の、ある種の威圧感を帯びた視線の一極集中……それに目を伏せて、いよいよドアを閉めてしまおうか……とまで思っていた時。
「遅刻届?」
ようやく声のした方に目を向けると、一番手前の机に居た男の先生が、椅子を回転させて振り向いてくれていた。
私は幾多の視線から逃れるように彼と相対して、たった一人に向けて尋ねた。
「はい。あの、遅刻は初めてなので」
「遅刻届だったら廊下の机にあるから、そこで書いてくださいね」
その事務的な対応を受けると、私はやや赤面しながらお礼を言って退室した。もしかすればあの視線の一極集中は、鈍臭い生徒に向けられた憐みの視線かも知れないのだぞ……という、ありもしない想像が働いたので…………と。
その妄想を、頭を振って解消しつつ、思考を切り替える。
今はとにかく、休み時間の間に遅刻届を作成しなければ……と思いつつ、ドアから右を向く。
右側には机はあるものの、机上に置かれたのは山積みのノートのみだった。
課題提出のノートだろうか……などと思いつつ、今度は左を見る。
すると、そちらに設置されていたのは黒い棚だった。表面のガラスが白く反射し中はよく見えないが、あの中に遅刻届が入っているのかも知れない。
そう思って、黒い棚に一歩近づいた時。
私は背後から迫って来る規則的な音の断続に、その足を止めていた。
最初はその音を、誰かが職員室のドアをノックする音だろうか……ともすれば、私以外にも遅刻の生徒が居るのかも知れないな……と思いつつ、構わずに二歩目を踏み出したのだが、どうもそうではない。
なぜなら、そのコツコツという音は四回以上鳴り続け、しかもその音量は回数を重ねるごとに増大していったからだ。
その音を聴くうちに、私は中には二つの予想が立てられていた。
すなわち、この音はノックではなく、ヒールが廊下を連打し続ける靴音なのだ……と思うと同時に、このように寸分の狂いも無い、メトロノームじみた歩調を保ち続ける人物と言えば、私には一人しか思い浮かんでいなかったのだが。
「杏子さん」
と呼びかけられた途端、私の予想はそのまま確信へと転じた。
すなわち、アナウンサーじみた極めて正確の発声、明瞭な活舌。
ざわめきの中だろうと聞き間違えるはずが無い……と呼びかけに応じて振り向けば、相手の人物は予想通りだった。
ラバルトベストを身に纏い、きっちりと上までボタンを留めたシャツにネクタイはしない。
ダークブラウンに染めた髪をシニヨンヘアに編み込んだ喜楽先生が、右手を腰に当てて私を見下ろしていたのだった。
「…………」
その姿を見ると同時に、ここで出会ってしまったか……という気分になるが、こうなれば今更どうしようもない。
私は腹を括りつつ、半ば表情を隠すような意味合いで頭を下げながら挨拶をした。
「おはようございます」
「おはよう」
先生はニコリとも愛嬌を振りまかず、やはり正確無比のイントネーションでもって対応する。
……なぜ彼女からは、これほどのプレッシャーを感じるのだろうか。
彼女を花に例えるのならバラ以外は有り得ないのだが、それは外見の美々しい厳粛さという意味でもありつつ、少しでも触れようものなら無数の棘で惨殺せしめよう……という剣呑さが、どうも見え隠れしているような……、そんな気がするからだった。体罰などは一切働かない先生なのだと十分に知りつつ…………と。
そのように思っていると、喜楽先生はそのまま会話を続けてきた。
「遅刻届かな」
「はい、そうです。どこにあるのかなと思って」
「なるほどね」
そう言うと先生は、山積みになったノートの奥側……つまり、私からすると死角の位置からプリントを取り出して、こちらに差し出しつつ言った。
「あそこにあるから、覚えておくといいよ」
「あ……、ありがとうございます」
受け取りつつ、道理で見つからないはずだ……と思いながらそのプリントに目を落とす。レイアウトは病院の問診票に近いのだな、と思っている時。
「それだけ書いたら授業に行きなさいね。じゃあ」
そう言い残すと、先生は例の正確無比な靴音を鳴らしながら私を横切って行った。
そうだ、今は休み時間中で、もう十分も残されていないのだから急がなければいけない……と思いながら、私は近くの椅子ですぐに遅刻届を作ろうと思ったのだが
「…………?」
私は一歩も踏み出さないままに、ある疑問によって立ち止まっていた。
というのは、喜楽先生が銀の欠席について一度も触れていなかったことを、私は一拍遅れて気が付いたからであった。
「…………」
前提として、喜楽先生は「放任主義」の先生である。
生徒に対して過干渉せず、極端な所でいけば生徒が薬物を濫用していることを知っていても注意しない。ただし、そのせいで学業に尋常ではない影響が出て留年の危機に陥ったのだとしても配慮はせず、遠慮容赦なく落第させる……といった具合に、ごく事務的な極めてドライの教育方針で動いているのが彼女だった。
遅刻欠席に関しても特に注意はせず、落第が確定してようやく報告しに来るという具合に、どこまでも責任を生徒に丸投げした、真の意味での「自由」な教育方針、大学式の教育方法。
そのような先生であることを知っているので、私は……公文先生よりは遅刻の理由を追及されないだろう……とは思っていたものの、ここまで一切の無関心を貫かれるとなれば話は別だった。
一葉姉妹の片方だけが出席し、もう片方だけが欠席している。
この事態は、あの喜楽先生をしても無反応ではいられないはずだ……などと、私が当事者の身で主張するのはこそばゆいものの、とにかく私にとっては想定外の出来事だったのだ。
「…………」
そう思いながら、しかし私は内心で首を横に振る。
……いや、それで良いはずだろう。何が問題なのだ…………と。
そもそも一葉姉妹は、目立ちたくて同一人物になっていた訳ではない……むしろその逆で、目立たないために私たちは同一人物ではない銀と杏子を演じてきたのだ。
つまり、喜楽先生が無反応でいてくれるのなら、それは素直に喜ぶべきことのはずだろう。
今まで二人揃って登校し続け、欠席する日も図ったように同時……だったにも拘らず、異例の事態に先生が興味を示さなかろうが、それは望むべき態度なはずなのだ。
「…………」
しかし、なぜだろうか。
自家撞着式の、そして訳の分からない落胆……そこにズブズブと沈み行くような感覚。
それにすっかり囚われてしまい、私はボンヤリと廊下に立ち尽くしてしまっていたのだ。
「杏子さん?」
そう呼ばれて、ようやく私はハっとする。
声のした方を向くと……というよりは、俯いていた顔を上げると、先生はいつの間にか私の前に回っていた。……やはり右手は腰に当てつつ、しかし今度は僅かに前傾して、私の顔色を窺っているようだった。
「上の空だったけど大丈夫? 保健室連れて行こうか」
そう言われると同時に、二つの思考が脳内で起こっていた。
すなわち、彼女は一拍置いてからやはり気になって、欠席の理由を聞きに来たのではないのだな……というのが一つで、もう一つは、また余計な心配を掛けさせてしまった……という自省だった。
そこで私は、何か心配を払拭するような別の話題は無いだろうか……と考えつつ、手に持った遅刻届の存在を思い出した。
そして、おもむろに遅刻届を掲げると、こう質問したのだった。
「いえ、大丈夫です。少し考え事をしてただけで……ところで、遅刻届は誰に渡すんですか?」
「授業の先生に渡すのよ。その先生が昼休みに担任の先生に渡して、そこで一連の手続きは終了だけど」
「へえ、そうなんですね。分かりました」
「他にはもう、何もない?」
先生は無感情の抑揚で、どこか心配のニュアンスを含む言葉を言う。
これだけでは心配を払拭するのに足らなかったか……と思いつつ、もうこれ以上聞くようなことも私には無かった。なぜ銀の欠席について何も追及して来ないのですか、とこちらから尋ねるのも不自然だった。
ならば、もはや仕方ない。
話はこの辺りで切り上げてしまおう……休み時間などで元気な姿を振舞っていれば、心配はされずに済むだろうから……と決めて、顔を上げたのだが。
それと同時に、私は先生のある行動にドキリとしていた。
すなわち、彼女は音も無いままに私の手を取って、至近距離で手首の辺りを検分していた……のである。
「……あの、何か付いていましたか?」
訳も分からず、率直に尋ねる。
すると、先生はスッと顔を上げて、今度は見下ろすような姿勢で言った。
「用務員室とか、途中で寄ったりしたかな」