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波乱の朝

       大学ノート(文通用)の二十六頁目に記された文章



 私たち双子の姉妹は、テレパシーを操る超能力者にして同一存在です。

 ……とは書き出してみたものの、自己紹介文としては些か奇抜過ぎるかもしれませんね。

 ただ、これは決して冗談を書いた文章ではありません。

 半年間に亘って文通する中で、お互いに文通の内容は他人に口外しないだろうな……という所まで信頼関係が構築されたように思ったので、「お互いの過去について語り合おう」というあなたの申し出に応じ、このような切り出しで私たちの経歴について書こうと決心したのです。内容が内容なので、やや畏まった文体にはなってしまうのですが…………。

 とにかく、前置きはこのあたりで終了にして、私たちがテレパシーという超能力に目覚めたその経緯をまず書いていこうと思います。

 と言っても、私たちはこの能力のことをあなた以外には誰にも話したことが無く、いわゆる専門家(が存在するのかは知りませんが)に判断されたこともないので、私たち二人の独断によって勝手にテレパシーだと認識している能力なのだ……ということを最初に断っておきます。そこまで書くなら直接会って披露した方が早いだろうとは思いつつ、その勇気までは出ませんでした。両親にすら打ち明けていない能力なので…………。

 私がテレパシーに目覚めたのは、小学生の頃でした。

 (わけ)あって私の家には部屋を一つ潰した書斎があり、そこには所狭しに本棚が敷き詰められていて、中には双子に関する様々な書類が窮屈に収められているのですが、小学生の頃の私たちはその書類を抜き出しては読み、抜き出しては読むのを日課としていました。

 ただ、何と言っても小学校低学年の読解力であり、書類は読めないことの方が大半でしたが、それでもひたすら読み続けていたのにはある理由がありました。

「テレパシーに関する記述」が、その書類群には多く含まれていたからです。

 というのは、双子は両者間でテレパシーを交信しつつ意思の疎通が図れる……という記録が古い物では紀元前の時代から記されており、他方ではその記録を先行研究として、テレパシーと双子との相関を科学的に証明してみせよう……と息巻いた論文も数多く存在するので、双子に関する資料を閲覧していると時おりテレパシーに関する記述が出てくる、といったことが多々あるのです。

 すると、最初こそ書類に挿入されているイラストや図を見て楽しんでいたのが、そのようなテレパシーに関する記述を視界に入れていく内に、ある発想が湧いて来るようになりました。

 すなわち、「テレパシーを使える双子が居るのだから、私たちもテレパシーが使えるはずだ」……という逆転式の発想が、徐々に芽生え始めて来たのです。

 思い返せば、いかにも子供らしい短絡的な発想でした。

 ですが、とにかく私たちは、そういった幼稚な動機を出発点として、ひたすらにテレパシーの部分の記述を読んでみてはそれを書き写して整理する……という研究をしていました。何かを研究する際にノートに纏めるという作法は、夏休みの自由研究で習得済みでした。

 そういったことを一年ほど継続し、研究資料の範囲を小説にまで広げ始めていた頃、とある長編小説を読んでいる時に突如としてテレパシーを会得する方法が閃きました。

 さっそく私たちは手順に従ってテレパシーを獲得し、まず初めにしたことは、「同時にお互いに対してテレパシーを実行する」……という試みでした。

 厳密に言うと、「自分の人格を相手に上書きする」という、通常のテレパシーとは真逆の性質のテレパシーを互いに実行しようとしたのですが、これにはある算段がありました。

 すなわち、「どちらか片方がテレパシーの会得に失敗していても良い」……どうせ相手に自分の人格を上書きすれば、その上書きした人格ごとテレパシーの能力も引き継がれて、二人ともがテレパシーを使えるようになるのだから……という、倫理を無視した合理的な判断によって、いとも安易にその実験は行われたのです。

 結果、実験が終わった後には、テレパシーを使える同一人物が完成していました。

 人格を相互的に上書きし、元から一卵性双生児で瓜二つの外見をしていたので、心身ともに一致した同一人物が完成し、しかも両者ともテレパシーを使える……という、まさに奇想天外の人物が完成してしまったという運びになります。

 長くなったので書き終えますが、これが私たちの本当の自己紹介でした。

 お返事待っています。



       *



「…………」

 私は大学ノートを閉じ、机の上に戻す。

 改めて読み直してみると随分な怪文書だな……とは思いつつも、しかし他の書き方はといえば特に思い付かない。テレパシーが使えること、そして一葉(いちよう)姉妹が同一人物であることを彼に告白してから一年ほどが経過したが、一年経った程度で文章力は劇的に向上しないからだ。

「……うん」

 まだ薄暗い早朝から辛気臭い溜め息をすると、私は自分の部屋から出る。

 この時点で、既に制服の黒セーターには着替えていた。

 差し当たって次にこなすべき日課は朝食作りなのだが、これは姉妹で一日ごとに交替するのではなく、毎日二人でキッチンに並び立つのが決まりだった。

 私たち一葉(いちよう)姉妹は、基本的に当番ということをしない。

 家事に炊事、洗濯に掃除といった仕事は全て、交替制ではなく二人で同時に行ってきた……というのは、私たちはテレパシーで互いの人格や記憶を共有・均一化するということを日課としていて、これによって一葉(いちよう)姉妹は常に同一人物であり続けているのだが、その同一人物があえて当番などをする道理は無いのである……同一人物とはあくまで「一人の人間」であって、一人しか居ないのに当番も何もないだろう……という考え方だった。

 ゆえに私たちが朝食を作る時は、片方が油揚げを切っている間にもう片方は卵を焼き、もう片方がご飯を茶碗によそっている時に片方は味噌汁をかき混ぜるといった具合に、同時進行式に調理をしてきたのだった。

 そして、十年間にも及んで繰り返されたその日課は、恐らく今日をもってアッサリ終了するのだろうな……とも思っていた。

「おはよう」

 廊下に出た私は、すぐ隣の部屋のドアに向かって控えめに呼び掛ける。濃い色をした木目柄のドアには[銀の部屋]というネームプレートが掛けられていた。

 テレパシーを習得するまでは、私たちは一つの子供部屋で一緒に暮らしていた。

 しかし、私たちがテレパシーによって同一人物になった小学二年生の頃、母親は突如として自身の部屋を潰して子供部屋を二つにし、それぞれのドアに[銀の部屋]と[杏子(あんず)の部屋]というネームプレートを吊るして強制的に部屋分けをしたのだった。

 というのは、当時の私たちと母親は「一葉姉妹の今後」について毎日のように激論していた……私たちは「同一人物として生きたい」と主張し、母親はそれを正面から否定するといった構図だったのだが、

「同一人物なんて有り得ない。そんな気味の悪い人間は絶対に社会から淘汰される」

 といった罵声混じりの主張まで次第にされるようになり、その頃に実施された双子隔絶計画の一つが、部屋分けによる一葉姉妹の強制的な区別だったのである。

 なお、当時の私たちの部屋のドアには、廊下側にしか鍵穴が開いていなかった。

 言うなれば、監獄式の監禁用ドア……外側からの解錠によってのみ外出を許されるという、過激を極めた強制的の区別によってお母さんは一葉姉妹を管理し、区別しようとしたのだ。

 結局、その強烈なやり方がお父さんの反感を買い、お母さんは家を出されてしまったのだが、彼女が去ってから私たちは思い知った。

 お母さんの主張した通り、社会は異常者に対して遠慮容赦というものがまるで無かったのだ……すなわち、小学生も高学年になり、周りの子供たちがイジメにはまり出すと、その矛先は私たちに向けられたのである。

 例えば、「間違い探し」と言われて顔に落書きをされる。

 その一方では「気色悪い」と言われ、仲間外れにされることは一度や二度では無かった……危うく私たちは、社会から完全に淘汰されかけたのだった。

 しかし、そのような憂き目に遭ってもなお、私たちは同一人物としての人生を諦めなかった。

 例えば、テレパシーでイジメの加害者の心を読んで、相手は何をされたら喜んで嫌がるのか……といったことを調査し、その調査結果をノートに纏めてはイジメられない方法を日夜研究していた。あくまで自分たちは同一人物であり続け、それを周囲に許容させることに尽力していた。

 結局、とある勇敢な女子生徒の介入によって、そのノートの内容はどれも実行されないままにイジメが終了したのだったが、私たちは母親が居なくなった後も二つの子供部屋で別々に過ごしていた。

 というのは、ベッド等の家具類を元の部屋に戻すのが大変だったからという現実的な理由もありつつ、ある種の決意としても部屋分けを続行していた……自分たちが今日まで同一人物であり続けられたのは、実の母親との決別の上に成り立っているのだぞ……ということを意識し続けるため、戒めの気持ちと決意の気持ちの半々を持ちながら部屋で過ごしていたのだった。

 だが、その戒めと決意の両方も、今日をもって解消しそうになっていたのである。

「…………」

 おはようと挨拶をしたドアの向こうから銀の返事はなく、寝返りを打つ音や足音もない。

「朝だよ、銀」

 と言って控えめにノックするも、やはり物音は何も聞こえて来ない。

 ……本来ならこのように、ノックすることも名前を呼び掛けることもしなかった。

 すなわち、以前までの私は同一人物であり、起床時間から支度を終えて部屋を出る時間まで完全に一致していたので、どちらかがもう片方を起こしに行くということはしなかった。前日に夜更かしをして寝坊しながら部屋を出るタイミングまで、私たちは完全に一致していたのだ。

 そして私たちは部屋から出ると、そのドアに掛けられたネームプレートの人物として一日を過ごすことにしているのだが、あくまでその「銀」や「杏子」といった記号は社会生活のために使われるのであって、私たちがお互いを名前で呼び合うことは滅多にしなかった。そもそも私たちは思考することが一致しているので、会話をする意味も機会も殆どなかった。

 ゆえに、私がこのようなノックと呼びかけをしているのは、異例中の異例の事態なのだった。

「…………」

 私はノックした手をダランと下げ、静まり返った廊下で軽い溜め息をする。

 彼女が部屋から出て来ない理由には、およそ見当が付いていた。

 私たちは昨日の夕方、例の衝突が起きてから同一人物ではなくなったのだった。

「言っておくけどその恋愛は絶対に失敗するからね。だって私たちは、同一人物なんだから」

 昨晩、無言のまま一緒に下校した彼女は玄関に入るなり、その冷罵を私に浴びせた。

 そして、それから現在に至るまで私たちは会話をしておらず、テレパシーによる同一人物化もしていない。

 すなわち、彼女は例の憐れみつつ蔑むような視線で私を睨み付けてからというもの、まるで私と目を合わしてくれなくなり、そのために部屋からも出て来ないのだ……と思っている時。

 突如、ジリリリリン……という目覚まし時計式のアラーム音が廊下に響き渡り、スカートのポケットの辺りが小刻みに振動するのを感じる。

 私は突然のアラームとバイブレーションにビクつきつつ、慌てて取り溢しそうになりながらスマホを取り出して、やっと目覚ましを中止にした。

 ……そういえば、今日は目覚ましよりも早く目覚めたのだった。

 それにも拘わらずアラームを消し忘れ、このように起きながらにして目覚めたような気分になったのだな……と思いつつホッとしていると、ふと一つの疑問が湧いて来た。

 ……なぜ私の目覚ましを消しただけで、廊下は静寂に戻ったのだ。

 すなわち、私と同じ時間に目覚めるべき人物が銀の部屋の中には居るはずなのだが、廊下からは小鳥のチュンチュンと鳴く声のみが聞こえるだけで、衣擦れの音や唸るような声は一つも聞こえないし、当然アラームの音もしないのだった……部屋のドアに耳を押し当ててみても、やはり物音一つしない静寂だった。

 ……アラームを設定し忘れた、ということではないだろう。

 私たちのスマホのアラームは平日の六時半に常に鳴るよう設定されていて、鳴らないようにするためにはその都度の設定が必要となっている。

 ということは、どうも彼女の寝坊(と考えて良いだろう。私たちはアラーム無しに朝起きることは出来ないので)は就寝する前から計画されており、つまり意図的なものらしかったのだ。

「…………」

 しかし、そのように確信しつつも、私は丸いドアノブに手を掛けたまま中には入らなかった。

 すなわち、本人に起きるつもりが無いのなら放っておこう。彼女の寝起きの悪さを知らない私ではないのだから…………と思い、眠らせたままにしておいたのだった。

 それと同時に、彼女の熟睡によって本日の家事は私が一人ですることに決まったので、私は眠い頭を軽く振りつつ、さっさと切り替えて早足気味に階段を下りる。

 ドアを開けてリビングに入ると、まずは洗面所に行って洗濯機を回し、次に台所の換気扇と照明をオンにしつつ、キッチンの前に立って調理を開始する。

 差し当たっての時間短縮として、弁当は作らずに購買で済ませることにした。また、味噌汁を作るつもりで水を汲んだ鍋を火に掛けながら、これもインスタントにしてしまおうか……と決めてキッチンの引き出しからインスタント味噌汁の元を取り出しつつ、ふとカウンター越しにリビングの壁掛け時計を見る。時刻は六時三十五分で、お父さんが降りて来るまであと五分を切っているな……と思いつつ、別の引き出しからはフライパンを取り出してサラダ油を熱し、そこに卵を三つ割ってコップの水を注ぐと蓋をして蒸し焼きにした。

「…………?」

 その過程で何らかの違和感を覚えたが、今は放置して作業を続行する。

 とにかく、卵が焼けるのを待つ間に茶碗を出して白米をよそい、汁椀に味噌汁の元を開けて沸騰した鍋のお湯を注ぎつつ、それを三つ分終えると冷蔵庫からウインナーを取り出し、卵を焼いているフライパンの蓋を取ると一緒に焼いてしまって、全てに十分な火が通ったのを確認したら平皿に盛り付ける。

 こうして出来上がった朝食の数々をプレートに乗せ、二回に分けてリビングに運び終えると、私はテーブルに醤油を置きつつ手を突いて長い溜め息をしたのだった。

 ……なんとか、普段通りの時間に間に合った。

 途中からは時計を確認する余裕も無かったが、しかしギリギリなのは確かだった……というのは、私が溜め息を吐き終わらない内にドアの向こうから足音がして来たのである。

 すなわち、ズン……ズン……という緩慢かつ重たい足音が、階上から徐々に下がって来る。

 それが一階の廊下に降り立ったものと見えて、足音が軽くなったかと思うとドアがゆっくりと開かれつつ、向こうから寝起きの掠れた声で呼びかけられたのだった。

「おはよう」

 ワイシャツ姿で片手に寝間着を掛けたお父さんが、眠たそうに目を細めて立っている。

 その姿を捉えながら……やはりギリギリだったのだな。普段ならお父さんがリビングに入る頃には着席して手を合わせていたところだ……などと思いつつ、笑顔で挨拶を返そうとする。

 しかし、お父さんはドアノブを握ったまま短く首を振って室内を見回すと、私が挨拶する前に続けて言ったのだった。

「……今日は一緒じゃないのか」

 お父さんの口から「銀」や「杏子」という名前が出ることは殆どない。

 厳密に言うと、友人や知人、親戚や先生からも名前で呼ばれることはまずない……基本的には苗字で二人纏めて呼ばれることが大半であり、お父さんの場合は主語を省略して話すことが多く、従って今回も「銀は居ないのか」とは聞かずにやや遠回りの表現になったのだ。

 無論、一葉姉妹は実の父親でさえ区別が付かないからである。

 昨日から同一人物化はしていないのだが、今のところ私は「一葉姉妹の片割れ」という認識のままなのだな……と落胆しつつ、適当な理由を添えて返事をする。

「うん。調子悪いんじゃないかな、最近寒いし」

「お前は大丈夫なのか。制服に着替えているが、学校は休まないでいいのか」

「私は平気だよ。どこも悪くないし」

 箸立てから取った箸を三人分、それぞれのプレートの前に置きつつ言う。

「無理しなくてもいいんだぞ。テーブルに手を突いて溜め息までしていただろう」

「あれは体調が悪かったからじゃなくて、ただ疲れてただけだよ。家事一人でやったからね。だから今は私じゃなくて、銀の心配をしてあげてよ」

「……そうか。なら、あとで看てくるよ」

 微妙な沈黙の後に言うと、お父さんは小脇に抱えていた寝間着を洗濯機に放り込んで、そのまま食前の薬を飲むために台所へ向かった。

 その間、私は自分の席に座って手を合わせ、白米の上で目玉焼きの黄身を潰しつつ醤油を垂らすであるとか、それをモグモグと咀嚼しつつ味噌汁を啜って体の芯から温まるなどしていたのだったが、中々お父さんが戻って来ないことに気が付いたのでキッチンの方に振り向く。

 すると、お父さんはカウンターの向こうで首を傾げつつ、睡眠導入剤の袋を覗き込んだり引っ繰り返したりしていのだった。

 ……まさか、今から二度寝しようという(わけ)でもあるまい。

 大方寝ぼけているのだろうな、と思いつつ、私は嚥下して言った。

「それは寝る前のやつでしょ。食前のはそっちじゃないよ」

「いや、食前の薬はもう飲んだ。ただ、今日から出張があるから睡眠導入剤を持って行こうと思って見たら二錠しか無いんだよ」

 そう言いながら、お父さんはシートに入っているカプセル錠を摘まんで見せる。空色と白のツートンカラーをした錠剤が、七×二のシートに二錠だけ入っていた。

「一日何錠だっけ?」

「二錠だから、まあ今日の分は足りるが……薬局の予約を入れないといけないな。医者(せんせい)にどう説明したものか」

「私か銀が頭痛薬と間違って飲んだのかな。だとしたらごめん」

「いや、多分お父さんがどこかに落としたんだろう。一錠や二錠ではなくワンシートごと無くなっているからな。まあ、見つけたら教えてくれ」

「なら、一応気にはしておくけど……」

 そう返しつつ、ワンシートごとうっかりで無くすようなことがあるだろうか……と内心で思っていたが、考えても詮無いことなので食事を再開する。お父さんも私の対面に座り、粛々と手を合わせるとようやく食べ始めたのだった。

「……あ、そうだ」

 そこで私は最前の話を思い出しつつ、口元を手で抑えながら言う。

「銀のことだけど、様子は私が看るよ。中で着替えてるかもしれないし」

 とは言ったものの、これはあくまで建前である……すなわち、寝起きの悪い彼女のことなので、起き抜けでボンヤリしたまま昨晩のことなど口走らないだろうか……と思ったのだが。

「それもそうだな」

 とお父さんは頷き、こう続けたのだった。

「じゃあ、杏子に任せるよ。双子が一番、双子のことを分かっているはずだからな」

「……うん、任せといて」

「頼んだよ」

 そう言うとお父さんは、箸を置いてリモコンに持ち替え、テレビを点けた。

 ここで、普段なら即座にチャンネルを変えるはずだった。……すなわち、決まったテレビ局の放送する、決まったニュース番組(私からすればニュースなどどれも同じようにしか思えないのだが、お父さんからすれば何か違いがあるのだろう)にチャンネルを変えるはずなのだが、今日は握ったリモコンをそれ以上操作しなかったのだ。

 それほどまでに衝撃的な内容だったのだろうか……と思いつつ、私もニュースの内容に目を向けて見ると、その内容は刃傷沙汰についてだった。

 ……今日未明、奈良県汐土(しおど)市内で発生した痛ましい刃傷事件。

 被害者は首から腰に掛けて数箇所刺されるも命に別条はなく、犯人は現在も逃走中らしい……と、そこまで確認するとお父さんはテレビの方を向いたまま言った。

「汐土市は、お前たちの学校があるところだったよな」

「うん、そうだけど。それがどうかした?」

「今日は車で送ってやるとしよう。何が起こるか分からないからな」

 そういうことか……と納得しつつ、私は食事に戻りながら言う。

「いや、別にいいかな。汐土は汐土でも、全然知らない場所みたいだし」

「既に犯人は犯行現場から移動しているだろう。お父さんの仕事を気にして遠慮しているなら、お金は渡しておくからタクシーでも呼ぶといい」

「そこまでしなくていいよ。大袈裟だって」

 と言いつつ、そういえば私は今日の分の弁当を作れていないので、お父さんには自分で昼食を用意して貰いたい……という旨を伝えると同時に、私の今日の昼食代を請求した。タクシー代ではないにしろ、その分の代金は頂いておきたかったので……と。

「なら、一万円渡しておくから好きに使うといい。何かと入り用だろうからな」

 お父さんはウインナーをパキリと(かじ)りつつ、何食わぬ顔で言った。

 提示された金額は、タクシー代にでも回さなければ到底使い切れないような大金だった。

「…………」

 キリがないので、私は「有難く頂戴します」と言いつつ、箸を親指の付け根で挟み込みながら両手を合わせた。帰り道で気になった本があれば買おう、などと思っていた。



 お父さんが家を出て、車の音が聞こえなくなったと同時に洗濯機から脱水終了のメロディが鳴ったので、私は洗面所に行って洗濯物をカゴに取り込む。

 そのカゴを持ち上げると、今度は階段を上り銀の部屋を横切りつつベランダに向かうのだが、そのためにはある不気味な書斎を通らなければならなかった。

 というのは、壁一面では飽き足らず、人一人が通れるジグザグの通路だけ残して部屋全体に本棚が敷き詰められた壮観の一室。

 何と言っても特徴的なのは、その本棚には端から端まで全て、双子に関する書類だけが執念の如く埋め尽くされているという点である。……書類の形式はというと実に多種多様で、評論や医学書などの本類から、ファイリングされた切り抜きに手書きの紙束、調べた限りでは存在しない言語(か、それ以外の何か)で彫られた木の板……といった書類の数々が、白くて薄い埃を被りながら並べられている。図書室と称するにはあまりに蔵書が偏っており、狂気じみた執着が部屋の節々から染み出しているその有り様…………。

 この部屋はもともと、お母さんが頻りに出入りしていた書斎であった。

 すなわち、末期の頃は狭い通路に布団を敷いて昼夜問わず双子の研究をしていた、寝室兼研究室なのだ……現在は専ら、奥のベランダのみが活用されている「何でもない部屋」なのだが。

 なお、ここで研究をしていたのは私たちも同じである。

 テレパシーに憧れ、自分たちも能力者になろうと一念発起した始まりの部屋……思い返せば、お母さんは私たち双子を区別するべく様々な書類を収集してきたのだろうが、それはむしろ真逆の結果に陥ってしまったのだな……とボンヤリ思いつつ、私は洗濯物カゴを前に抱えながらジグザグの通路を早足で進んで行く。

 というのは、私はこの部屋にあまり長居したくないのである。

 すなわち、私たちはテレパシーを習得して以来、既に目的を果たしてしまったこれら書類群を読むことは殆ど無くなったのだが、ふと抜き出して読んでみるとその全ページがベッタリと墨塗りにされていたのだ。

 ……私たちやお父さんがしていない以上、墨塗りにしたのはお母さん自身である。

 しかし、その動機までは現在に至るまで不明のままであり、今後本人と機会があって再会することがあっても自分からは聞かないだろうから、この恐ろしさは永久にそのままなのだな ……とも思っていた。動機が如何なるものであろうと、きっと身震いするような内容には違いないのだから…………と。

 それら書類群の放つ静かな圧力を四方八方から感じつつ、ようやく書斎の最奥まで到達した。

 利便性の面からしても、この書類もいつか片付けるべきだな……など思いながら、私は窓を開けてベランダに入り、洗濯物を物干し竿に引っ掛け終えるとすぐベランダを出ようとした。

「…………?」

 ただ、窓枠に立って部屋を外から見た時に、私の引き返す足はピタリと止まった。

 というのは、ベランダのスレスレに置かれた本棚に並ぶ、背の焼けた書類の数々。

 そして、そのことが明らかにするカーテンの不在……カーテンレールだけが数個のフックをぶら下げている、殺伐とした内装。

 ……この部屋のカーテンは或る日、可燃ゴミのゴミ袋に無理矢理に詰め込まれていた。

 今の頭で考えてみると、あの奇行は昼夜兼行で研究をし続けるというお母さんの、言外の決意表明だったのかも知れないな……という考えが浮かびながら本棚を見ていると、不意に私の視界に飛び込んで来た物があったのだ。

 すなわち、本棚の胸の高さあたりに置かれていた、見覚えのない置時計。

 赤光沢でベルの二つ付いた、いかにも古典的といった具合のそれが、所狭しに敷き詰められた書類の間に正面向きで捻じ込まれていたのである。

 ……こんなもの、前から在っただろうか。

 といった風に首を傾げつつ、スカートのポケットからスマホを取り出して見ると、両者の示す時刻はいずれも七時十五分だった。

 ……置時計の時刻が間違っているか、そもそも針が停止したのなら、この時計は以前からここに置かれていたのかも知れない。

 そうでないということは、この時計は最近ここに置かれたのだろうか……見覚えが無いことからすると、昨日から今日の間に置かれたのかも知れない。……しかし、使わない部屋に誰が何の目的で置くのだ。壁時計ならまだしも置時計をこんな部屋の隅に…………と。

 そのように考えている内に、置時計の針がカコンと十六分を指した。

 ……今は棒立ちしている場合ではない。

 自我を取り戻した私はスマホをポケットに戻しつつ、窓を閉めて来た道を早足で引き返す。

 しかし、書斎を出て廊下を歩き、銀の部屋の前を横切ろうとしたところで再び足を止めた。

「…………」

 さっき時計を見てから一分が経過したのだとしても、現在は七時十七分。

 すなわち、七時二十分に家を出るとして残り三分間の余裕があるのだが、その三分で銀と話せないだろうか……と思い、横切ろうとしていた体を転回してドアに向き合ったのだったが、それと同時に最後に銀とした会話が、彼女の冷え切った表情と共に鮮明に思い返された。

「私は反対だよ。だって、あなたは落合君のこと好きでもなんでもないんだから。そんな相手から告白されて付き合う意味なんて無いでしょ。……いや、あなたの魂胆なら言われなくても知ってるよ。要するに、あなたはそろそろ同一人物を止めたいんだよね。それで、恋人だったら自分たちを同一人物としてではなく、別々の人間として見てくれるだろうから付き合いたいって考えたんでしょ。ドキュメンタリーとかで見たよね。そっくりな双子が入れ替わっても、恋人だけは気づいてハッピーエンドになる展開。そんなロマンスに落合君を巻き込まないであげたらと思うよ。そんな気持ちで付き合うつもりなら、言っておくけどその恋愛は絶対に失敗するからね。だって私たちは、同一人物なんだから」

 ……という、畳み掛けるように繰り出された徹頭徹尾の否定。

 結局それから彼女とは話していないので、実はマトモな議論は一度も出来ていなかったのだ。

 すなわち、「落合君の告白を受け入れたい」という私の主張と、「それは認め難い」という銀の主張がそれぞれ一方的な形で行われ、両者の結論は出せていないままなのである。

 ……決着をしなければならない。

 私は改めてそう思った。このまま私が落合君と交際し始めても、銀はあらゆる方法で妨害しに掛かるだろうから、彼女の納得がいく結論をどうしても出す必要があるのだった。

「…………」

 目を瞑り、深い一呼吸をしつつ胸を撫で下ろして目を開く。

 計画は何も無く、反応の予測や返す言葉の用意もない無計画のまま、ドアを二回ノックした。

「…………」

 しかし、ドアの向こうから返事が聞こえて来ることはなかった。

 ……やはり、そう簡単に事は運ばないらしい。

 そうと決まれば私は趣向を変え、勢いのままに中に押し入ろうとした。事情があったとしても知ったことではない……という気持ちで、ドアを開けようとした。

 しかし、その時に不可解な出来事が起こった。

 すなわち、まずはドアノブを回して手前に引く。

 続けて、今度はドアノブを握ったまま奥に押してみる。

 更に次はドアノブを逆に回し、引いては押してを両方試す……と、あらゆる方法を試してみたにも拘わらず、ドアが全く開かなかったのである。

「……もう朝だけど」

 戸惑いつつ、ドアノブを握り締めたままドア越しに呼び掛ける。

 しかし、廊下には私自身が発した言葉だけが空しく反響し、中からの返事は無かったので、私は(わけ)が分からないままに階段を下りつつアレコレと考える。

 状況として、まず部屋には鍵が掛かっていた。

 鍵穴は廊下側で、部屋側にはツマミがあり、従って中から施錠するのに鍵は要らない…………ただ、鍵が外側にあれば結局外から解錠されてしまうため、本当に閉じ籠るつもりなら鍵を持った状態で中に居なければならない。

 そして、私が確認しようとしていることは単なるダメ元だった。

 すなわち、何かの勘違いやケアレスミスで、その鍵が玄関の鍵掛けに掛かってはいないだろうか……と幼稚な発想をして、私は階段を下りて玄関に立ったのだった。

 そして、玄関の鍵掛けには銀の部屋鍵が無防備にぶら下がっていたのである。

「…………」

 銀杏のストラップで一括りにされた、部屋鍵と玄関の鍵をカチャリと手に取る。

 それがぶら下がっていた隣には私の部屋の鍵があり、どうやら間違えて持って上がったという訳でもないらしい……靴も私と銀の二足分あって、外出している様子でもない。

 ……ということは、やはり銀の勘違いやケアレスミスだったのだろうか。

 などと思いつつ、首を傾げたまま鍵を持って階段に足を掛ける。

 しかし私は、一段目に片足を掛けたままピタリと立ち止まった。

 ……そういえば、さっき台所で感じた違和感はなんだったのだろう。

 今考えるようなことでもないかも知れないが、コンロの火の消し忘れなど、看過出来ない失敗をしている可能性が浮上してしまったので、仕方なくリビングに通じるドアを開ける。

 七時二十二分を半分ほど過ぎようとしている壁掛け時計を横目に台所に到着すると(恐らく遅刻することになりそうだと思いながら)、果たしてコンロは消火されていた。

 つまり、これが違和感の正体ではない。

 そう思いながら、シンクの水が止められていることも確認する……そういえば、フライパンを取り出すときに収納を開けて、その時に違和感を覚えたのだ……と思い出し、私はコンロの下に備えつけてある引き出しを開けて、今度は中の調理器具を検めることにした。

 ……特に変化は無いだろうか。そういえば味噌を溶かすつもりで取り出した鍋を、軽く拭いて戻してある程度の変化はあるが…………、いや。

 そこまで考えて、私はある決定的な異常に気が付いた。

 ……包丁が、一本もない。

 すなわち、金属製とセラミックの両方とも、引き出しの中から無くなっているのだ……今日は味噌汁がインスタントだったので、ネギや豆腐を切るのには使わなかった……にも拘わらず。

「…………」

 流しを確認するも、置かれているのは食器とフライパンばかりで、包丁は見当たらない。

 続けて、さっき開いた隣の引き出しを開き、その隣、その下、更にその隣の引き出し……と調べ終えると、今度は背後に置かれている食器棚を端から端まで空き巣の如く開いていく。

 しかし、そのいずれにも包丁は収納されていなかった。

 この時、私は台所の中央で絶句しつつ、朝食の時に視聴したニュースのことを想起していた。

 すなわち、[今日未明、汐土市内で事件が発生。被害者は首から腰に掛けて数箇所刺されるも命に別条はなし。犯人は現在も逃走中]……という報道。

 そして、時期を同じくして、同居人が部屋から出て来ないという…………と。

 そこまで考えて、私は首を横に振る。

 ……単なる偶然に違いない。結び付けて考えるには軽率だ、動転している。

 つまり、今日の未明、銀は大量の刃物を携えて家を出て、何かとんでもないことをしでかした後に帰宅して引き籠っているなどと…………。

「……そんなはずがない」

 と呟きつつ、三度首を振る……重ね重ね有り得ない妄想だ。あまりの動転に短絡的な思考になってしまっているのだな……ということを自覚しつつ、私は少しでも安心したいがために、実は刃物がどこかに集積していないだろうかと期待して再度念入りに調べ直すことにした。調理器具から食器、調味料と鶏肉と人参、果ては割り箸、ガスコンロ、セロハンテープ等々……といった何から何まで、台所のあらゆる収納から取り出しては床やシンクの上に出してみた。

 しかし、冷蔵庫にポット、食洗器に電子レンジ、遂にはマットを引き剥がして床下収納まで調べて見たが、そのいずれにも包丁は存在していなかった。

 しかも、探していく内に別の事実すら発見された。

 というのは、包丁だけではなく、他の刃物も無くなっていたのだ…………紙を切るハサミや台所ハサミ、テーブルナイフやカッターナイフ…………あらゆる刃物が示し合わせたかの如く、魔法のように台所から無くなってしまっていたのだ。

 ……いよいよ、見過ごす余地も無いほどに可笑しい。

 引っ繰り返した台所の中身を両足で踏みつつ、私は呆然と立ち尽くす。

 そして、その惨憺たる光景に触発されたのだろうか、私の脳内に或る恐ろしい発想が湧いた。

 すなわち、大量の刃物を持ち出した人間が、銀ではないのだとしたら………………。

 私は居ても立ってもいられず台所から去ると、胸に手を当てながら階段を恐る恐る上る。

 そして銀の部屋を通り過ぎ、その次にある部屋の前に立つ。

 お父さんが昨晩を寝て過ごした……すなわち、安全性がある程度担保されている、お父さんの部屋にガチャリと入る。

「…………」

 針地獄の如く、四方の壁一面に吸音楔(くさび)があしらわれた部屋。

 周囲の音が聴こえ辛く、相対的に自分のバクバクとする心音が鮮明になっている。

 その鼓動を煩わしく感じつつ、私は最速で部屋全体を調べて回った。

 まず、本棚の上の時計コレクションは余すことなく揃っていて、一個の欠けもない。

 次に、通帳を仕舞われている机の引き出しは施錠されており、無理にこじ開けようとした痕跡も見当たらない。部屋の片隅にある金庫も厳重に閉まっており、もし盗みに入られた後なら開けたままになっているはずなのでその心配も無さそうだった。

 そして最後に車だが、これはお父さんが乗って行ったのをエンジン音で既に確認していた。

 ……なんということだろうか。

 部屋の中央に立った私は、絶望のために一層速くなった……ドンドンドンドンドン……という心臓の鼓動を聞きつつ、目を見開いて硬直する。

 というのは、今の一連の調査によって、この家に忍び込んだ不審者は泥棒目的ではなかったことが分かってしまったのだ。……家中から刃物が全て無くなっていて、ついでに睡眠導入剤も失われているという状況にも拘わらず、しかし金目の物にはまるで手が付けられていないとなれば、もはや相手を泥棒として想定することはかなり難しくなってきたのである。

 ……すると、どうだろうか。

 刃物と睡眠導入剤、いずれも扱い方によっては危険物に変貌する代物(しろもの)

 それを外部の人間が現地調達し、それを用いて何か犯行したのだとしたら……その相手とは、その負傷の程度とは…………。

「…………」

 口内が急速に渇いていくのを感じつつ、いつの間にか私は銀の部屋の前に立っていた。

 ……この部屋以外の状況は、今朝起きてから全て確認している。

 すなわち、リビングに洗面所、風呂場にトイレ、自分の部屋とお父さんの寝室、書斎とベランダ……といった全ての空間を網羅し、そのいずれにも家族以外の人間は居なかった。

 ……この時点で、二つの可能性が予測される。

 一つは、刃物を持ちだしたのは銀であり、それを何かしらの目的で使用した……最も妥当なところでいけば、汐土市で刃傷沙汰を起こし、その後で部屋の中に閉じ籠ったという可能性。

 そして二つ目の可能性は……考えるのも恐ろしい、最悪の事態だった。

 すなわち、刃物を持ち出したのは銀ではなく外部からの侵入者であり、ともすればその人物は現在も銀の部屋の中に居るのかも知れないぞ…………という可能性だった。

 ……その人物の目的までは、とても考えようとは思えない。

 ただ、いずれにせよドアの向こうでは、目も当てられないような悲惨さが展開しているのだろうな……という想像が、嫌でも私の頭に浮かんで来るのだった。

 そしてこの時、私の脳内では二つの計画が考え出されていた。

 つまり、「銀を危険人物と見做して改心させるべく中に踏み入らないといけない」、もしくは「銀が危険な目に遭っていると見做して助けに入るべきだ」……という二つの使命感が同時に湧いて来て、それらが私にドアノブを握らせていたのである。

 ……無論、平気な気分では全くなかった。

 心臓は破裂しかねない勢いでバクバクと活躍し、頭は湯気が出るほど発熱しているのに顔面は死人のように冷たくなる。汗なのか冷や汗なのか分からないものが背中を伝い、荒く呼吸する度に渇いた喉に切ったような痛みが走っていた。

 ただ、それでも別の選択肢を取るというのはなかった。

 すなわち、私は昆虫のような度胸しか持ち合わせていないので、二つの妥当な可能性を無視してでも「銀は部屋の向こうで無事である」……という希望的観測を信じ切るしかなく、ドアの向こうを至極安全として単身乗り込まなければならないのである。

 父親や警察に連絡するまでもないような、自分一人で事足りる事案だと思い込みつつ。

「…………」

 まず、ドアノブは握ったままもう片方の手でスマホを取り出し、銀のスマホの電話番号に非通知で掛けた。SNSは昨晩の一件以降ブロックされているかも知れず、私の電話番号も着信拒否されているかも知れないと思い、そのような方法になった。

 その直後、ドアの向こうから……プルルルル……という無骨な着信音とバイブレーションの振動音が、断続的に向こう側で鳴り響いているのを確認する

 しかし、着信を切る様子が無ければ応答する気配も無く、着信音だけが聞こえて来る以外には他に何の音もしていなかった。

 ……電話に反応しないのか、それとも反応出来ないのか。

 あるいは、着信音に警戒して「何者か」が臨戦態勢に入っているのか……といった連想式の嫌な予感の数々が、いよいよ無視できない程度までせり上がってくる。

「…………」

 私はドアノブを固く握り締めたままスマホをスカートのポケットに仕舞い、代わりに部屋鍵のキーホルダーを取り出しつつ、目を瞑って呼吸を止める。

 一秒、二秒、三秒…………としていくと、脳内からは煩雑な思考がたちまち消え去って、代わりに「息苦しい」という感想のみが支配するようになっていった。

 呼吸を止めることにより思考まで止めてしまう、ごく原始的な恐怖の緩和方法。

 それが限界の領域にまで達しつつあった頃に、私は目を開いた。

 そして、耳鳴りのようなものを感じながら酸欠に意識をボンヤリとさせつつ、そのことによって相対的に鮮明となった使命感に駆られたまま、いよいよ解錠してドアを引き開けた。

 ……しかし、部屋の中の状況は、私の予想とは全く反したものだった。

 凄愴を極める赤々とした現場……ではなく、見渡すばかりの肩透かし的光景。

 すなわち、椅子の背もたれを抱えるように逆向きに座り、こちらを瞳だけで見上げる制服姿の銀の姿……ご丁寧に髪まで括っており、軽薄な笑みを張り付けて見上げていたのだった。

 その姿を視界の中央に捉えるとともに、私はまず安堵した。

 緊張が解け、ドッと噴き出して来た疲労感に倒れそうになるのを辛うじて踏み止まっているような精神状態になっていたのだが、その私を更に追い詰める不調が一拍置いてやって来た。

 すなわち、「理解不能の頭痛」である。

 それが突如として現れると、私の頭をズキズキと苛み始めたのだった……激痛ではないものの、思わず頭を抑えて片目を瞑ってしまう程度の痛みではあった。

 しかし、眼前の状況に比べれば些細な問題だったので、今は無視しておくことにする。

 私は安堵に弛んでいた表情をキッと張り詰め、銀を睨みつけて言った。

「無事ならなんで返事してくれなかったの、何回も呼び掛けたのに」

 彼女が生存しており、かつ刃物を握っていないとなれば、次に私の胸に込み上げてくるのは決して些細ではない怒りの感情である……制服からして随分前に起きていたのだろうに、なぜ一切の返事もせず狸寝入りを決め込んでいたのだ、余計な心配をかけさせてまで……という気持ちが、安堵感の反動で一気に込み上げて来たのである。

 しかし、静かに叱責するような私の語気には全く動じる気配もなく、なおも軽薄な笑みをニヤニヤと浮かべたまま彼女は言ったのだった。

「逆に、よく何回も呼び掛けたよね。途中で少しは思わなかった? もし中に居るのが危険人物なんだとしたら、下手に刺激を与えるのは禁物だって」

 態度が悪ければ質問も返さないという不遜さに、より一層苛立たされてしまう。

 いよいよ怒りでは収まらないような気分になりつつ、しかし彼女の返事によって私は本来の趣旨を思い出していた。

 すなわち、家中から無くなった刃物類と睡眠導入剤……もしくは、今日未明に汐土市で起きた刃傷沙汰…………その犯人が銀なのではという疑念を持っていたことを思い出しつつ。本人が無事だったのならば直接聞いてしまおうと思ったのだった。

 しかし、彼女は私が聞くのを先回りする形で……すなわち、テレパシーによって私の思考を先読みすることで、私が質問する前に答えてしまった。

「事件の事なら何も知らないよ。私は無関係だ。見ての通りの善良な市民だからね、私は」

 肩を竦めつつ、呆れたように目を閉じて言う。

 その態度が私の神経を逆撫でたので、半ば難癖をつけるような形で口を尖らせて反論した。

「口先だけで言われても信じられないけど。何か証拠の一つでも出してみれば」

「なら、お(あつら)え向きのが丁度あるよ。ほら、アレを見て」

 すると、銀は待ち兼ねていたと言わんばかり目を開き、ベッドの方を顎で指しつつ言った。

 ……すっかり私は、心配が損になった気分になっていた。

 何がその視線の先にあるのか知らないが、それだけ確認したらさっさと学校に行ってしまおう……対話するつもりで部屋に入り、まともに対話もしないままだったが、既にその気分は何処かへ失せてしまっていた。

 だが、そういった鬱屈とした感情までも、次の瞬間に絶無まで霧散することになる。

 目の端が切れてしまいそうな程、瞼をカッと開く。

 ……なぜ今まで気が付かなかったのだろう、これまでの推理を全くの無意味にするような、奇怪千万の存在。

 部屋の隅に置かれたベッドの上には、髪を括らずにパジャマ姿で眠る、銀の姿があったのだ。

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[良い点] 文章が読みやすい。スラスラと読めるので良いと思った。次回が気になるように繋げたのは良いと思った。 [気になる点] ただ状況を長々と説明していると読む側がダレて来るかもしれません。もう少し要…
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