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廃墟(1)

 目覚めた私が真っ先にしたのは、自分の腹部を服の上からまさぐることだった。

 冷や汗をかき、心臓を破裂する勢いでバクバクさせながらバネ仕掛けのように体を起こすと、鳩尾(みぞおち)から下腹部に掛けて右手を滑らした。

 ……どうやら血が滴っていなければ、セーターに穴が開いていることもない。

 つまり、さっきまで私が見ていたのは夢だったということだ。

 負傷も致死性も全て虚構の、現実の私とはまるで関係のないただの映像の連続…………。

 腹部にあてがっていた手を持ち上げ、私は胸を撫で下ろした。

 だが、一安心をしたところで私は気付く。

 私の目覚めたこの空間は、全く安心するのに相応しくなく、非現実的なものだったのである。

 体を起こした私がまず正面に見たのは、黄ばんで(すす)けたコンクリートの壁。所々が崩れて中身の鉄筋が剥き出しており、そうでない部分にもヒビが入っている。

 壁から右に視線を動かすと、そこには大きな穴が開いていて、穴からは清々しいくらいに場違いの眩しさを放つ晴天が光っており、私は目を細めつつ反対の方に目を向けた。

 すると、そちらにはドアがあった。

 全面が錆びに侵食されている、赤茶色のドア…………ということは、晴天が覗いていたあの大穴の原型はベランダなのかもしれない。ベランダとは、大体部屋の奥にある物だから。

 ここで私はやっと立ち上がり、さっきまで自分が横になっていた床の全貌を見た。

 ボルトやドライバー、ハンマーやチェーンソーなどの工具類と、粉々にされた何かの残骸が乗っかっている床はやはり黄ばんで煤けており、端の方は部分的に穴が開いていて、剥き出しになった鉄筋の向こう側からは下の階の部屋が覗いていた。

 ということは、と思って、私は天井を見上げる。

 やはりと言うべきか、こちらは想像していたよりも酷く、上の階の床とほぼ一体化しているようだった。鉄筋すらも取り払われ、あと少し崩壊が進んでいればその空間を部屋と認識できていたかも危うい壊れ具合である。

 ……なんなんだ、次から次に。

 私は状況に呆れつつ、しかしどうしようもないので、とりあえず考察をしてみる。

 まず現実的に上がってくる予想は、ここも夢の世界できないのかという推測だ。

 夢の中で見る夢…………それか、夢の次に見る夢。

 少なからず、これを現実として認識するのはなかった。なぜなら、私はこんな場所で眠ろうとした記憶なんて一つもないからだ。目覚めた場所が眠った場所と一致していないなど、普通にはあり得ない。

 手の甲で埃のついた背中を払いつつ、更に考える。

 考えることが出来るのなら、この夢もまた明晰夢なのだろうか。

 意思を持って、自由に動くことの出来る夢…………。

 そういう風に思考していたのだが、しかしこの考察はロクに纏まりもしないまま、かつ乱暴に終了させられることになる。

「ばぁ」

 気の抜けた掛け声を出しつつ、荒廃したビルディングの床から生え出でる両の手。

 その突拍子もない恐ろしさに私は驚愕し、短く悲鳴を上げながら仰け反って、勢いそのままに尻餅をついた。

 ……気が可笑しくなりそうだ。

 銃で撃ち抜かれる夢の次には妖怪変化に翻弄される夢とでも言うのだろうか…………あまりに悪夢すぎる。どんな仕打ちだろうと世界を恨んでいるとき。

「いいや、これは夢なんかじゃないよ」

 しかし、階下から曇った声でこちらに響くその声には聞き覚えがあったのだ。

 それだけでなく、地面に手を突き這い出るように現れ出でたその全貌。

 すなわち、突き出した両の手を覆う黒のセーターに、後ろで括った髪型。

 シャツの襟首には赤のリボン、セーターの下には紺色のスカート、黒のタイツ。

 ローファーが汚れた床を踏み、彼女は腕を抱えてへたり込んだ私を見下ろした。

 その無表情は、私の顔によく似ていたのである。

「この期に及んでもまだ「私の顔によく似ていた」、だって。頭回ってないね、仕方ないけど」

 途方に暮れる私を慮ってか、彼女は所々で間を空けながら子供に言い聞かせるように説明した。

「夢の中では頬を抓っても階段で転んでも、あげく銃で撃たれても痛くなかったんだ。それが夢ということ。けど、今のあなたはどう? どこも痛くない? 痛かったとすれば、その痛みが現実である証拠だよ」

 その説明に、私の反論の余地はなかった。

 視覚の機能する夢の中においても発動しない痛覚、夢の中において何が起こったところで、それは危険信号を発するべき危機的状態ではないから。

 肉体への刺激が夢の中で痛みに置き換わることはあっても、夢の中だけでオリジナルの痛みが起こることはない。そのはずだ。

 ……しかし。

 私は腰をさすりつつ、ゆっくりと立ち上がる。

 彼女の説明は理論的に何等の問題もなかったものの、二つの問題を起こしていた。

 一つは、私が実際に、床にぶつけた箇所を痛がっていたことである。

 それはすなわち、この黄ばんで煤けていて、鉄筋が剥き出しで工具は出しっ放しで、穴だらけで崩れ放題の部屋、その中に訳も分からないまま私が居るという状況。

 これら全て、完膚なきまでに現実だということになってしまう事実だ。

 口先だけの理屈ならまだしも、荒療治式の方法で体に分からされたからこそ一切の否定が出来ない。

 そして二つ目の問題は、その事実をより凶悪なものとして私に伝えるための、ある種のギミックとして機能するものである。

 すなわち、その説明に反論の余地がなく、かつ単純明快であったことだ。

 これの何が問題かというと、私は心の準備が出来ていなかった。

 ずっとこの空間が夢だと信じて、だからこそ、この突飛な空間転送も犯罪臭の漂う室内も許容が出来ていたのに、それを一気に現実だと再認識させられたのである。

 牛肉のカレーだと思って食べていた物の皿から掬われる、明らかに人間のそれをした歯、血肉。

 サウナ室で温められた体を瞬時に凍てつかせるような、夥しく降り注ぐ冷水のスプリンクラー。

 その気味悪さ、冷え込んだ体感温度。

 ……ああ。

 夢じゃなかったのだな。

 私はみるみるうちに絶望した。

 立ち眩みによろけつつ、額に手を当てる。

 何がどうなっている。

 誰が何の目的で、どこのどういう施設に私を運んだ。

 いつ私は拉致されて、いつからここに監禁されている。

 分からない。

 いくら考えようが、知らないことは知り得ない。

 そして、何も分からない代わりに、考えるごとに頭痛が湧きだしてくる。

 今朝から慢性的に続いていた頭痛…………夢の中では忘れていた痛みが、徐々に滲み出してきたのだ。

 何重にも現実的だった。

 絶望的なまでに。

「いや、絶望的なんかでは全くないよ」

 しかし、銀(ここが現実世界で私が杏子である以上彼女が銀であることは自明だ)は物憂げな表情をしつつも、私よりは瞳に生気を宿しつつこう言った。

「絶望的というのは為す術がないということ。為す術がないというのは、打つ手を打ち尽くした後に出てくる台詞だ。でも、まだあなたは何もしていない。ただ夢から覚めて、未知の現実を前に何も試さないまま屈服しているだけ。ここで絶望に甘んじるのは、はっきり言って自殺行為と何ら変わらないんだよ」

「…………」

「まずは出来ることをしよう。逃げる方法はどこかにあるはずだ。何もかも手遅れになる前に、いま出来ることを精一杯してみないと」

 そう言い終えると、彼女はくるりと転回して玄関の方へと歩いていった。

 ……そうだ。

 私は銀の激励にいくらか不安感を軽減されて、顔を上げる。

 彼女の言う通り、私はまだ何も確かめてなどいないのだ。

 建造物の表面的な特徴をさらうだけで脱出の糸口は探そうともしなかったし、ただ絶望に突っ立っているだけだった。

 そのまま時を過ごしていても永久に部屋から出られるはずがないのに、起き抜けの殴るような危機的状況に圧倒されて冷静さを欠いていた。

 まだ絶望的ではない。

 諦めるには早すぎる。

 彼女の激励に加えて、自分で自分を焚きつけつつ、私はやっと脱走計画の作成・遂行に踏み込もうとした。

 はずなの、だが。

 私が次に言った言葉は、全く今回の脱走とは無関係であり、緊急性を伴う話題ではなかった。

「……なんで私の夢の内容を知ってるの?」

 心に余裕が出来たから、である。

 絶望の精神状態から立ち返って、そこで初めて気付くことの出来る当然の疑問。それでいて、余裕が出来たことで生まれる慢心、余計な質問をしてもいいという倒錯。

 絶望に駆られ、余裕のない精神状態であればこんな疑問はわざわざ口に出さなかったし、そもそも疑問にさえ思わなかっただろう。とにかく、そういうことだった。

 疑問の詳細はこうだ。

 まず、夢の内容を知った経緯として、銀が今しがたテレパシーで読み取ったというのは辻褄が合わない。

 なぜなら、その割には夢の内容を知りすぎているからだ。

 彼女の口振りは、さながら私が眠っている横で夢の一部始終を盗み見していたとでも言わんばかりだ。

 これほど事態は逼迫していて、そのことは彼女も十分に理解しているはずなのに。

 なぜ起こさずにいたのか。

 その間、彼女は何に忙しかったのか。

 疑うことがお門違いで、場違いで、何重にも間違いであることは分かっている。

 ただ、危機的な状況が私にそうさせたのだった。

「間主観的夢、は知ってるよね」

 ややあって、振り返りつつ彼女は言った。

 急に何の話だ、と私は身構えたが、その夢については端から共通の知識だった。

 ある特定の二人が同時に同じ夢を共有するという、最も事例の多くポピュラーなテレパシー。

 そのメカニズムは「睡眠時の精神が無防備な状態において精神は漏洩しやすく傍受されやすい」という普遍的な精神の性質に基づき、二人の精神が混ざり合うことで同じ夢を見るという構造である。

 テレパシーを使えるようになってからは毎日のように見ていた間主観的夢だったが、制御できるようになってからはパタリと見ないようになった。

 問題なのは、その話がなぜ今出てくるのかということだが、彼女はこう続けたのである。

「なぜも何も、あなたが見ていた夢は私との間主観的夢だったということだよ」

 銀が言うにはこういうことだった。

 つまり、銀は私に憑依することで精神的にかなり密接な状態のまま意識を失い、そのまま両者ともが夢を見始めたものだから制御が効かず、互いの精神がシンクロして二人の記憶を総合した夢を見たのだという。

 そして私は、その夢を介して銀の記憶を共有した。

 夢の主体は銀で、彼女が夢の中でモノローグしていたのを私が自分のことのように認識し学習した。つまりはそういうことらしい。

 理屈は分かった。

 今までには体験しなかったことだが、そういうことも理論的には有り得るのだろう。というより、有り得ないと反論するだけの理屈も証拠も無かったので、私は納得した。

 しかし、彼女が補足的に付け足した一言の方は、いまひとつ理解に苦しむ内容だった。

「ちなみに今は曖昧なその記憶も、しばらくすれば詳細なところまで思い出せるようになると思うよ」

 銀はそう続けたのである。

 夢とは、本来なら時間が経つほどに忘れていくものだ。

 目覚めた瞬間から既に半分ぐらいは忘れていて、メモでもしないと一分後にはほとんど忘れている。それをむしろ思い出すというのはどういう理屈なのだ。

「人は夢を忘れるんじゃない。夢「だから」忘れるんだよ」

 霊体の身で疲れはしないだろうが、癖によって壁に凭れかかりつつ銀は語る。

「夢とは現実で知覚した自分に関する記憶をもとに形成されるにも拘わらず、実際に見る夢といえば非現実的で自分とは無関係のものばかりだよね。そんなものを記憶し続けていたら何が現実で何が自分と関係するのかさっぱり分からなくなってしまうから、人の脳は夢の記憶を忘れるべき情報として忘却するように出来ている。けど、あなたが見たのは夢であって夢でなく、自分の記憶ではないものの自分とは関係のある記憶だ。つまり、その夢の記憶はむしろ忘れるべきでないものだから、そうだと気が付いた頃には次第に会話の内容から何まで、実体験かの如くすっかり思い出してしまうだろうってことだよ」

 夢などではない。

 非現実的ではなく現実的で、無関係どころか有関係でしかなく、忘れるなんてとんでもない。

 私の体が体験した、実際に起こった出来事、その数々…………。

 そう見方を変えてみると、どうだろうか。

 奇怪千万、私は目を開きつつ、直立したままある種の夢を見たのだ。

 死刑囚と話したこと、遊が戦闘していた一挙手一投足、智がどう弁明して、体育館のギミックが作動し腹部に衝撃を受けたこと。

 それらが一挙に、あるいは連続して、または同時に五感を駆け巡ったのである。

 走馬灯、とでも言うのだろうか。

 瞬間的な記憶の想起、一秒にも満たない数分間の幻覚、幻聴作用、情報の洪水。

 現実に体験していて、しかし記憶にはない過去を補完するべく、今この瞬間に体感する。

 過去と現在を一挙に体験する五感、その情報量の凄まじさ。

 やがてその波が収まると、私の目は現在の荒廃した部屋を捉えるのみの眼球となっていて、反動のとんでもない気怠さと共に体が地面に沈みこむような感覚をした。

 あれだけ大量の情報を詰め込まされたのだから、その疲労感たるや計り知れない。徹夜で読書をした後の、脳が思考を拒む感覚によく似ている、とぼんやりしつつ思った。

 場違いの牧歌さ。

 昼下がりのうたた寝のような気分…………嵐の後の静けさ。

 考えないといけないのに。

 今から幾らでも考えるべきことはあって、こんなぼんやりとした思考ではいけない。何とか思考力を戻さないと…………そう気張り始めた私に、銀が投げかけた言葉。

「それでいい」

 と言って、こう続けるのである。

「急な情報の詰め込みで思考力は落ちたかも知れないけど、逆にそれでいい。今はここから脱出することだけを考えればいいんだから。他のことは考えるだけ無駄なんだよ。そんなに気張る必要はない」

 自分の頭を指で突きつつ、「私も一緒に考えるから、早くここから出る方法を探そう。それが何よりも優先だ」と言って再び玄関の方へと向かうのである。

 三度に渡る、言い聞かせるような呼びかけ、説明。

 緩んだ思考力のまま、私は項垂れて溜め息をついた。

 ……いよいよ、この非現実的な状況に立ち向かわないといけない時なのだな。

 ゆるりと頭を振り、しかし、いよいよ立ち竦んだままではいられない。

 私はふらつきつつ、緊張感もロクに感じ取られない頭のまま、逆にそれが好都合であると解釈して銀の後をついていった。

 脱走に向けての第一歩、それをいよいよ開始する。

「………………」

 だが、どうだろうか。

 二、三歩も歩いていると、脳に溜まっていた血流は足の方へと流れて行って、パンクしそうだった頭はかえって明瞭になる。

 その明瞭になった頭で行われる思考というのが、さっきとは全然違ったのだ。

 私の知識量は、追体験を経て劇的に増加した。

 その増加した知識量、すなわち銀の記憶に由来する疑問の数々が、時間差で噴出してきたのである。

 私の腹部に衝撃を加えた者、ぶつかった物体。智がした怪しい言動の意図、死刑囚の目論見、なぜ拘置所の外を平然と活動しているのか。枚挙に暇のない疑問の数々が、浮かんでは消えず、浮かんでは消えずと私の脳を圧迫する。

 その尽くを、私は考えても仕様のないことだと切り捨て無心になろうとする。

 今わたしが考えるべきなのは脱走の方法だけであり、他のことは後のことなのだからと、頭を振りつつ雑念を払おうとする。

 しかし、それでも最後まで消えなかった、酷く粘着力の高い疑問。雑念として処理できなかったこと。

 それが私の思考を雁字搦めにして、全く理性的でないことに、またも棒立ちの有様に立ち返ってしまったのだが。

「みんなは無事か、だよね」

 銀は立ち止まって、今度は振り返らずに言った。

 そうするのが手っ取り早いだろうと言わんばかり、私の不安を先回りする形で、流れるように言ったのである。

「銃声が鳴って、自分は死んでいない。何か腹部に強い衝撃は受けたけど、あれが銃弾によるものでないことは無傷なことから明らかだ。そうなると、銃口は誰に向いていて、どこに着弾したのかという話になる」

「…………」

「もちろん、銃弾が誰にも当たっていなかったんだとしても安心はできない。遊と死刑囚の戦闘はその後どういう形で決着したのかも気になるし、相手側の増援の可能性、銃声に気付いて駆けつけたネオに危険が及ぶ可能性だってある。私たちは、みんなの無事が分からないままに拉致されてしまった。スマホも手元にはないし、みんなの無事を確認する方法は今のところない」

 そういうことだった。

 自分の安否だけが分かっていることによる、他の皆の危険性。

 ……いくら心配したところで、何にもならないのは分かっているつもりだ。

 ただ、だからこその不安なのだ。

 自分の知らない所で友達の運命が決定されつつあるような、それこそ何もかも手遅れになってしまっているような…………そして、不安感に苛まれた脳から発せられる、異常な行動信号。

 そのための棒立ち、脱走行為の中止だったのである。

 唖然、焦燥の混じり合う破茶滅茶の心理状態。

 しかし。

 またしても私の心を動かしたのは、彼女のどこまでも積極的な説得であった。

「でも皆が無事だったとして、この建物の中に捕まえられている可能性もあるんだよ」

「……この建物の、中に?」

 私は顔を上げる。

 そして、向き直る形で振り返った銀の、静かな信念に満ち満ちた顔、決意めいた表情。

 彼女は頷きつつ、こう続けた。

「根拠は何もない。情報が何もない以上、あらゆる想定は全部が妄想になってしまうから。だから、建物の中にいるかもというのは分かりやすい例で、要するに私が言いたいのは、みんなの無事を守るためにも私たちは脱走しなければならないという、それなんだよ」

 そうするしかないんだ、と彼女は駄目押しのように言う。

 だが、そこまで押されずとも、既に彼女の信念と決意は私に伝播していた。

 助けなければならない。

 特に、遊には助けられたままだし、彼女のことは何が何でも救わないといけない義務がある。

 私を助けたばかりに…………などということが、あってはならないのだ。

 しかも、それだけじゃない。

 無事が知れないのは、行方が知れていない人物は、もう一人いる。

「落合君も、もしかしたら」

 昨日の深夜から行方不明の落合君。

 つい先日に付き合ったばかりの彼氏。

 そう考えてみると、色々と辻褄の合うこともあるのだ。

 例えば、貴志辺高校の生徒だけを狙って拉致するという、まだ見ぬ犯人の犯人像。

 私は誰かから拉致されるようなことをした覚えは全くないが、その動機なら道理ではある。私が拉致されたのではなく、貴志辺の生徒であれば誰でもよかったのだという犯行動機。

「そういう可能性もあるかもしれない」

 銀は神妙な表情になりつつ、言う。

 そうなれば、俄然と奮い立ってくる。

 期せずして私は、落合君を誘拐した犯人の巣窟へと侵入を成功したかもしれないのだから。

 動機は潤沢。

 やる気の方も申し分なく、活力に満ち満ちていた。

「分かった。ここから出よう」

 私はそう言って頷く。

 それに呼応する如く、銀も頷いて、三度玄関の方へと連れ立って行った。

 ……しかし、改めて思う。

 もし私が一人で目覚めたのなら、こうは簡単に事が運ばなかっただろう。

 殺風景然とした室内に圧倒され、状況に絶望し、ただただ為されるがままにされる時を待っていたに違いない。私の精神強度は本来、このような空間に放り出されて正気でいられるような程度ではないのだから。

 それだけではない。

 体育館で私が失神した後、私の体を引き継いで逃がしてくれたのは銀だった。結果的に誘拐されてしまったとはいえ、彼女には助けられてばかりである。

 ……これほどまでに、つい先日まで私だった人物が頼もしいものだろうか。

 もちろん、彼女の積極性や行動力の向上は霊体のためでもあるだろう。何をしたところで死なない(恐らくは)身分というのは、それだけ危険を無視して動けるということなのだから。

 だが、それを差し引いても、私には彼女が見本のように思われてくるのである。

 かくあるべき、若しくは、このぐらい大胆でも構わないといった具合に。

 それはともかく、今更だがお礼を言っていなかった。

 いの一番に言うべきことを、環境と諸々に振り回されて言えずにいたことに気が付いた。

 そのつもりだったのだ、本当に。

「…………?」

 私は、ベランダの方に振り向いていた。

 感謝を述べるべき相手に背を向け、開くべき口を噤んだまま目を丸くさせていた。

 私が最初、【それ】の何を感じ取ったのかは分からない。

 風を切る音、あるいは風の流れの変化、ただならぬ気配の知覚かもしれず、虫の知らせかもしれない。

 とにかく、私はほぼ直感的のまま振り返ったのだ。

 すると、眼前に繰り広げられた光景の、その凄まじさたるや。

「居た!」

 彼女は私たちに向かって、そう叫んだ。

 ベランダに広がる大穴、そこに黒いロングスカートを靡かせながら、頭を下に垂直落下しつつ現れる彼女の快活至極の笑み。

 飛び降り自殺。

 幻覚作用の名残。

 種々の考察などする間もないうちに、彼女は続けて叫ぶ。

「【泥鰌流(どじょうりゅう)】、【独楽送(こまおくり)】!」

 そう叫んだ瞬間、彼女は枯葉が落ちるように軽やかに、しかし速度は埒外に保ちつつ軌道を縦から横へと捻じ曲げ、私の頭上を通過する。

 部屋に飛び込んできた彼女はいつの間にか頭が上になっていて、足から着地すると同時に、バレエリーナのように公転と自転を一挙にする。

 最初は残像しか見えなかったスピードは徐々に落ちて、目で追える速度になると彼女は回転しつつ私に近付き、ぶつかる寸前で急停止すると、両手足を広げてポーズをした。フィギュアスケートがフィニッシュで決めるような、威風堂々とした佇まいに圧倒される。

 そして、彼女は怯んで屈んだ私に合わせるように体を折り曲げると、顔を上げて得意げに笑ったのだ。

「長らくお待たせ致しました! お迎えにあがりました!」

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