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半年ほど前のこと

挿絵(By みてみん)

 一時間目の授業が終わった休み時間、二年A組の教室。

 窓は開け放たれ、春のうららかな空気が部屋中を満たし、男子も女子もそれぞれのグループで集まって賑やかにしている中、遊は机に突っ伏しつつ両手は前に投げ出して、間延びした声で言う。

「今日も体育休もうかなぁ。体だるいし」

「…………」

 私は彼女の前の席で、背もたれを肘掛けにする形で座っていた。

 そうしていながら、彼女の言葉に閉口しつつその小さい背中を眺めていたのだ。

 というのは、彼女は体育を休むことが常態化していたのである。

 頻度としては五回に四回ぐらい、隅の方で眠たそうに見学していて、他の授業に関しても必ずといっていいほど居眠りするし、また休み時間で喋っている時や、酷い時は弁当を食べながら舟を漕いでいたこともあった。

 どころか、眠そうでないときも言動が緩慢であったり注意力が散漫していたものだから、私は出会ってから一度も彼女が万全そうであるところを見たことがないのである。

 常に不調で在り続け、寝ても覚めても草臥れているような彼女。

 そして、私はその理由を知らなかった。

 見知った時から気にはなっていたが、何か聞いてはならないことのように感じられて聞けずにいたのだ。本人の口から言われたときにでも覚えておこうと思ったが、それも無いままに一年が過ぎようとしていたのである。

 もしその原因が何かしらの病気であれば、聞くのは野暮でしかない。

 かと言って病気でなかったとしても、それはそれで何か失礼な気がしていた。だから聞けずにいたのだ。

 しかし、である。

 もう、出会ってから一年経ったのだ。

 いい加減、そういったことも聞いておくべきではないかと私は思い始めていた…………修学旅行も間近に控えているのだし、班で行動する時などのためにも彼女の特質についてはむしろ知っておくべきであるように思われてきたのだ。

「あ、そういえば一葉ちゃんには言ってなかったっけ。まぁ、別に隠してたわけじゃないんだけどさ」

 私が聞くと、彼女は顔を起こしつつ言い、しかし疲れたのかすぐに顎を机に載せつつ、クラゲのような骨のないジェスチャーを交えながら以下のように説明した。

 主治医こと闇雲(やみくも)先生曰く、「病名は不明」。

 常に倦怠感を感じ、常に眠気を感じて、薬も効かない病…………高校を入学した直後に発症したらしいが、何の突拍子もなくそういう体質になったらしい。

 そして、これは普段の彼女から観察し得ない症状なのだったが、彼女は時たまに失神することがあるのだという。

 学校にいる時間以外は朝だろうが夜だろうが不定期に気絶して、そして目覚めると普段以上に異様に疲れているという症状…………これら二つの症状が発症し出したのは同時期らしく、闇雲先生によるとその気絶に伴う疲労感を持ち越したまま次の気絶をすることによって倦怠感と眠気を常在させているのだと言うが、これらを総合してもやはり原因の見当は付かず、対症療法的な治療も出来ないため、現状は定期的な検診しかされていないのだとか。

「言っても、別に不自由はしていなんだけどね。学校には通えてるし、テストも……まあ、留年はせずに済んでいるし」

 私を気にしてか、遊はおどけつつ気丈ぶってみせた。

 しかし、ふと溜め息混じりに言った次の言葉には、隠しきれない悲壮感が滲み出ていた。

「こいつのせいで免許が取れないのは残念だけどさぁ」

 後で知ったことだが、自動車免許は不定期かつ突発的に失神する症状を持つ人間には交付されないらしい。

 すなわち、来年から免許が取れるようになるはずの彼女は、その持病を治さない限り車を運転することは出来ないということだった。

 だが、それは数あるデメリットの一つでしか無いのだろう。

 例えばバンジージャンプであったり、スカイダイビング、スキューバダイビングであったりと、危険性を伴うアトラクションの尽くを彼女は体験できないのだ。

 気絶した場合、死の危険を伴うからである。

「でも、悪いことばかりじゃないんだよ」

 遊は柔らかく微笑しつつ、得意気に言った。

 その得意気は私を気にしてというより、自然体の語り口でそう言っているように感じられたのだが、私には彼女の持病がどう転んだら有用になるのかさっぱり分からなかったので、ただ困惑するばかりであった。

 そうしていると、遊は腕相撲をするように持ち掛けてくる。

 体はほとんど机にくっついたまま、右肘をだらんと机に突いて、左手はどこも掴んでおらず、誰がどう見ても腕相撲をするような体勢ではなかった。

 ぶかぶかのベージュ色をしたセーター、つまり身は詰まっていない。

 服の上からでも分かるほどの華奢さ……その上で全く力の入らなさそうな体勢をしているのだから、その姿を見て自分が力負けすると考える人間はそうそう居ないだろう。

 だが、私は手を抜かなかった。

 こういう力比べで手を抜くと思いがけない怪我を招くことになる。私が怪我をする分には構わないが、私が怪我をすることで遊が責任を感じてしまうことは避けたかったのだ。

 ゴングは授業開始一分前の音楽に任せることにした。

 そのクラシックが鳴り出すと同時に腕相撲は開始されるというルール設定。

 今、熱でもあるんじゃないかと心配になるほどに体温の高い遊の手を握り、その柔らかさを手のひらで感じながら十秒ほどが経過した。

「………………」

 結論から言うと、結果は完敗だった。

 聞く者を急き立てる曲調の、全く心が安らがないあのクラシックが鳴り出した途端、倒そうとした腕はいくら力を込めてもビクともしない。

 しかも、私は本気なのにも拘わらず、遊はふにゃふにゃとした笑顔を浮かべていて余裕に満ち満ちていたのである。

「両手使ってもいいよ」

 挙句、そんなことまで言いだした。

 私は彼女の言う通りに左手を机から離し、握り合った拳の上から抑えつける。

 だが、それでもまるで歯が立たなかった。

 彼女は息の一つも荒くならず、普段通りの緩慢さで、しかし握った右手からは桁外れの腕力を感じさせつつ、ゆっくりと万力のように私を負かしたのだった。

 ただ茫然とする。

 さっきまで聞いていた話や今まで見てきた振る舞いからは想像もつかない、病弱や不快活からは程遠いような身体能力…………確かに体育などで活発に動いている姿は見たことがないが、これほどまでの実力を隠し持っていたとは思わなかった。

 しかし、同時に疑問も起こる。

 それほどまでの剛腕を、疲労感を伴いながら発揮できるのかという疑問だ。

 疲労は人を弱らせる。

 どんなアスリートでもシャトルランを走り続けることは出来ない。ならば、なぜ遊は疲労感を覚えつつ桁外れの力を出すことが出来るのだろうか。

 それとも、疲労感と疲労は別勘定ということなのだろうか。

 いくら疲れている気分になろうが実際の筋肉は全く疲労していないのだし、それならあの膂力(りょりょく)は出せても不自然ではないという…………。

「ううん、疲労感を感じるのは実際に疲労しているのと同じだよ。歩いてると足はもつれるし、掴んでいた物はすぐ落としちゃう。集中しようとしてもその集中力すら疲労感で途切れるし、ままならなくなっちゃうんだ。だから疲労感は厄介なんだよ」

 遊は握られた手をするりと抜きつつ、「けどね、」と付け加えた。

「一葉ちゃんの言う通り、私の筋肉は疲労してなんかいない。疲労感のために力を出せないだけで、力自体はあるはずなんだ。つまり、疲労感も忘れるぐらいに集中が出来れば本来の私の力が出せるはずじゃないかって、そう仮定して色々試してみたんだよ」

 そうしてみた中で、持病と向き合うこと半年ほど、ある方法に辿り着いたのだと言う。

 曰く、「ごく簡単で単純な動作に対する超集中」。

 歩行などの複雑な手順は集中するポイントが刻々と変わっていくため集中力の持続が難しいが、腕相撲のように集中力を要さないシンプルな動作であれば逆に度を過ぎた集中が容易であり、疲労感を忘れるほどに没入が出来るのだという。

 疲労感によって阻害されていた集中を逆転させ、集中によって疲労感を阻害するという方法。

 聞いただけでは似非科学的と言われそうな理論ではあるが、実際に彼女自身がそれを体現しているのだから本当なのだろう。

 また、他には押し相撲にもこの方法が使えて、あのネオですら圧倒するほどの腕前なのだとか。

 ……それは何というか、本来の力以上のものが出てやしないか。

 例えるなら火事場の馬鹿力のような、精神が極限まで追い込まれた際に引き出される、潜在的な身体能力。

 条件付きとはいえ、そんなものが任意で出せるのは確かにメリットではあるだろう。仮に車に轢かれそうになった場合、その場で車高を超えるほどの単純な跳躍をして怪我をせずに済むことだって出来るのだから。

 日常生活が不便な代わりに、緊急事態に強い体質。

 しかし、その発動には代償が伴った。

 遊はその後、二時間目の授業と次の休み時間を眠って過ごし、保健室に運ばれてから昼休みになってようやく目を覚ましてからも放課後になるまで横になっていたのだ。

 これも火事場の馬鹿力と同じである。

 普段使わないような活動をした後にかかる、無視出来ない身体的負担…………あれが腕相撲だったから長い睡眠だけで済んだものの、より大きい力を使った後に代償がどうなるかは考えるまでもなかった。

 難しい所ではある。

 私を負かした時に得意気な顔をしていた如く、ネオの時にも同じように自分の底力を誇っていたのだろうが、その発動は命を削りかねない。

 なまじ普段は活発でいられないからこそ自由に動けることは楽しくて仕方ないのだろうが、同時にそのやり方は動けない時間を長くする試みでもあるのだ。

 回復のために睡眠時間は延びてしまうし、負担のために寿命は短くなってしまう。

 ……どうにか疲労感を取り除いてあげられないだろうか。

 椅子に座って腕を抱えつつ、私は悩む。

 高校生活が始まってから不調じゃない日が一日もないなんて、想像も絶する。来年には受験を控えているんだし、存分に遊べる今のうちになんとか治してあげられないものだろうか、と。

 思考をぐるぐる巡らしている時だった。

 後ろで括った私の髪を、何者かが我が物のように掴んだのである。

 どんな失礼だ。

 と思う間もなく、ただ私は動物の本能式に反射で振り向いて、自分の後ろ結びを撫でつつその相手を睨みつけた。

 しかし、どういうことだろう。

 そこに立っていたのは、後ろ髪を雑に切られた、無表情の私だったのである。

「………………」

 両者は見つめ合って何も話さない。

 無言の時間がそのまま続いて、そうしていると藪から棒に授業開始一分前のクラシックが鳴り響き、静寂は破られた。

 音の出所を探ろうとして周囲を見回すと、いつの間にか教室は夕焼けに染まって真っ赤になり、また生徒は最初からそこに居なかったかの如く音も立てずに消え去っている。

 続けて、私はもう一人の私が居た場所に視線を戻した。

 すると、彼女もまた幻のように消えてしまっていて、教室にはいよいよ二人しか残されていなかった。

 机に突っ伏している遊と、後ろ髪を雑に切り落とされた棒立ちの私とである。

 ……なんのことはない。

 念のため、自分の頬を抓る。

 痛みを感じない。

 つまり、これは夢だったのだ。

 私がさっきまで見ていたのは半年前の記憶の再生であり、その光景を私は教室の後ろから俯瞰的に眺めていて、そして夢の中の私を紛らわしいと退場させたところが今に至るまでの経緯である。

「明晰夢……なんだよね。声も出せるんだ」

 さっきまでもう一人の私が座っていた席に座りつつ、呟く。

 夢の中でも自由に行動が出来、しかも自由に夢を改変できるという夢。

 都市伝説ぐらいに思っていたが、どうやら実際に起こり得る事象らしい。珍しいことだ。

 だが都合の悪いことに、私には差し当たって見たい夢が特になかった。

 ぼうっと記憶の再生を眺めているだけでも良かったのだがそれも私が干渉することで中断してしまったし、さて何をしたものか…………。

 私は背もたれを肘掛けにしつつ、手持ち無沙汰だったのでとりあえず遊の頭を撫でてみる。夢の中なので二つ結びがほどけてしまうことは考えなくていい。

 遊といえば、だ。

 改めて振り返ってみても、あれは不思議な出来事だった。

 病弱で運動なんて出来ないと思ってた遊にあんな底力があるなんて思いもしなかった。私にもあのような力が隠されていたりするのだろうか。

 窮地を脱し、危機を覆すための力が。

 ……いや、いくらそんな力が秘められていようが、そんなものは無意味である。

 火事場の馬鹿力は絶体絶命の時に必ず発動しないと意味がないし、そもそも任意のタイミングで出せなければどうしようもないのだ。

 だって、そんな力は自分のためだけにしか使えない、馬鹿馬鹿しい力だから。

 火事場の馬鹿力がどのような条件で発動するかは知らないけど、恐らくは脳に一定以上の危険信号が送られた場合に発動するのだろう。

 自分の生命が危機に脅かされることで生じる危険信号、によって。

 すなわち、他人の生命の危機に立ち会った場合でも火事場の馬鹿力が発動するだろうか、という話だ。

 発動しないのだ。

 体育館で発生した、遊の危機。

 私は死刑囚と殴り合っている彼女を見て、それを危険だと十分に感応しつつ馬鹿力のようなものは一つも発動しなかったのだから。

 死刑囚と遊との戦いは互角だった。

 あともう一人、戦力になるような実力を持った人間があの場にいれば遊を助けられたかもしれない。

 なのに私は何も出来なかったのである。

 ……何が馬鹿力だろうか。

 そして、何がテレパシーだろうか。

 そんなもの、危険に曝された友達一人を救えないのならば持っている意味がない…………自分の不甲斐なさが、ただただ痛切だった。

 せめて、遊に超集中のコツでも聞いておけばよかった。

 そうすれば、あるいは私だけで死刑囚の相手が務まったかもしれないのだ。どうやら自分に用があったらしい死刑囚の相手を、他に押し付けずに済んだかもしれなかったのである。

 後悔がとめどない。

 自責の念にすっかり苛まれてしまい、夢の中で触れているのさえ申し訳なくて遊の頭から手を離した。

「………………」

 違う。

 私は立ち上がり、教室から飛び出して廊下を駆け出す。

 そんな場合ではないのだ。

 後悔に溺れ自責に甘えているような、そんな悠長な場合ではない。

 私は体育館における遊の覚醒について、一つの推測と懸念を抱いていた。

 彼女が見せた覚醒とも形容されるべき豹変は、恐らく超集中の延長である。

 腕相撲や押し相撲の比じゃないぐらい複雑な動きをしていたし、発動している時間も長かったからすぐには連想しなかったけど、恐らくはそのはずだ。というより、それ以外に思い当たる節がない。

 半年間に及ぶ研究の賜物。

 短時間しか発動できなかったのが長時間発動でき、簡単な動きしか出来なかったのが複雑な動きも出来るようになった。そこまではいい。

 問題なのは、その後に待ち構えている反動だ。

 腕相撲ですら数時間に及ぶ睡眠と半日に及ぶ安静を必要としていたのだ、あれだけアクロバティックな動きをした後はどうなる。

 想像も絶するだろう。

 一刻も早く、彼女のもとへ行かなければならない。

 私は階段を跳ねるように下り、途中で躓いて顔面から着地しつつ、一階に辿り着くと息を切らしつつ体育館へ向かう。

 夢の中だから痛くはない。

 夢の中だから疲れはしない。

 だが、夢の中でも焦燥は知覚される。

 焦り焦って息は切れ、冷や汗をかき、そうしながら私は扉を開けて体育館の中に入った。

 框に上がり、スリッパを履いたまま中へと進んで、コートの中央に立つ。

 肩を上下させ、前後に左右、玄関から舞台へとあらゆる方角を確認する。

 しかし、そのいずれにも私以外の人間は居ない。

「……当たり前だ、居るはずがない」

 膝に手をつき項垂れる。

 だから、分かり切ったことじゃないか。

 倒錯している。

 紛れもなく、ここは夢の中なのだ。

 いくら急いだところで過労に衰弱しているだろう遊は見当たらないし、智はおらず、ネオもいない。

 体育館の中央に立って玄関を振り返っても、死刑囚が歩いてくることはないのだ。

 どうにかして目を覚まさないといけない。

 しかし、ただの夢ならまだしも、明晰夢からどう目覚めるのだ。

 普通の夢はそれが夢であることを認識した途端に霧散する。しかし、明晰夢とはそれが夢であることを認識した後の夢であり、この方法は使えない。

 他の方法としてはアラームが鳴らされるなど外部からの影響で目覚める方法、もしくは自然に目覚めるのを待つしかないのだろうが、そんな暇はない。

 無理にでも目覚めないと、この瞬間にも時間は進んでいるのだから………………。

 この時。

 倒錯というならこれこそが倒錯的で、なぜ今まで気が付かなかったのかも分からないが、私はある重大な事項を見逃していたことを発見した。

 私は体を起こし、両手をだらんと下げて棒立ちになる。

 遊と腕相撲をした夢、あれは私の記憶に基づく夢だ。

 私が実際にあの場に座って、遊の手を倒そうとしたときの記憶。それは間違いない。

 だが、遊が覚醒して死刑囚と殴り合ったというのは、まったくもって私の記憶じゃない。

 私は目の前にいる不審者が死刑囚だということを智から聞かされた時に…………恐らくはそこで気絶して、それ以降の記憶はない。次に目覚めたのはこの夢の中なのだ。

 気絶した私の代わりに銀が憑依していて、その間の記憶?

 そこまでは推測できるにしろ、なぜ記憶を伝達したのか分からない。

 だって、方法としてはテレパシーで記憶を共有したのかもしれないが、それが出来ているのなら銀の意識は既に目覚めているはずだろう。

 これがおかしい。

 今は緊急事態で、ならば記憶がどうとかは後にすればよくて、銀はまず私の意識を目覚めさせるのが先決のはずだ。

 テレパシーで手を動かして自分の頬を叩かせるなり、直接的に精神に干渉して目覚めさせるでもいい。方法ならいくらでもある。

 なのに、なぜ私は眠ったままにされているのだ。

 分からない。

 そして、こうなってくるとどこからが本当で何が虚構かもわからない。

 私が気絶した後の記憶は全くのフィクションで、夢の中で捏造されたただの妄想であると考えれば、それはそれで辻褄は合うのだから。

 思考は曖昧模糊とし、神経は衰弱する。

 耳鳴りがしてきて、夢の中だというのに気が遠くなりそうになる。

 すると、突如としてある音が上空から降ってきた。

 太い紐をハサミで一息に裁断したような、バツンという音。

 それと同時に、体育館を照らしていた照明は全て消灯し、館内は窓から差し込む茜色の妖しい光でべったりと照らされて、かと思うと今度はモーター音と共に黒色のカーテンが全ての窓を覆い、視界は瞬く間に暗くなった。

 これも記憶の再生、なのだろうか。

 私が気絶した後にそうなったとされている、一連の舞台装置の稼働…………もっとも、この記憶は私のものではないのだが。

 しかし、今回の再生は記憶通りにいかなかった。

 誰かと何かを言い争う時間や、モノローグに耽る時間もない。

 私の耳鳴りを根こそぎ掻っ攫う爆音が、カーテンの余韻もそこそこに立て続けに聞こえてきたのである。

 あるいは、風船の破裂する音のようで。

 あるいは、花火が爆発する音のようで。

 あるいは、爆弾が炸裂する音のようで。

 その音が聞こえると同時に、私は視界が真っ白に包まれつつ、一瞬の内に遥か後方まで体を突き飛ばされて舞台に後頭部を打ち付ける。

 テディベアのように両手両足を投げ出し、一気にあらゆる気力が減退して視線が床の方に滑る。

 すると、自分を中心に何か赤いものが床に広がり始めていたのを見た。

 腹部を撫でて、その手の平を確認する。

 鮮やかな真っ赤に染まっているのが、よく分かった。

 私の意識はそこで途絶えた。

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