学校(11)
一瞬の内に、私の脳内で様々な処理が行われる。
まず、遊は運動に関する持病があったはずだ。
寝ても覚めても取れることのない、慢性的で連続的な倦怠感。
彼女はその持病のせいで、授業中には必ずと言っていいほど居眠りをするし、友達で話していてもすぐに眠くなって智に寄りかかるのである。
明朗快活ではなく、明朗不快活。
明るくて朗らかでも活発にはなれない、というのが彼女のステータスだったし、出会った当初はそのちぐはぐさに当惑していたものの、今では違和感なく受け容れられるようになっていた。
しかし、目の前の遊は別人だ。
普段のおっとりした雰囲気はどこへやら、その全身は止まることなく動き続けていた。
まず、体重がふんだんに乗った死刑囚の蹴りを後ろに引きながら寸前で躱し、かと思うと一瞬で死刑囚に詰め寄って彼の軸足を片足で踏みつける。死刑囚は右足を踏まれ、右肩は脱臼させられていたので左の腕と足のみで遊の猛攻に応戦し、しばらくすると猛攻の中で踏みつけが弱まったのか後退しつつ間合いを取ろうとした。しかし遊は後退する彼に間合いを詰めるどころか後ろに回り込んで、そのまま肩に飛び乗ると後ろからヘッドロックを極めにかかる。が、彼は頭に落ちた枯葉でも払い落すように片手で遊を放り投げ、一方で投げられた遊は猫のように空中で体勢の七変化を見せつつ軽やかに着地すると、息をつく間もなく距離を詰めてはまた殴り合うのである。
そして、その遊の目は、人が変わったように据わっていたのだ。
「……どういうこと?」
私は眼前で繰り広げられる光景に圧倒されつつ、茫然と立ち尽くす。
床が蹴られる音、肉体と肉体がぶつかり合う音、様々な音が体育館の中に反響して、その中央に立つ私は聴覚的にも翻弄されていた。
……しかも、しかもだ。
なぜ彼らは、それが当然であるかのように戦っているのだ。
まるで示し合わされた予定調和の如く、一言も言葉を交わさないで唐突に始まった戦闘……遊の覚醒も気になるが、その意味も考えずにはいられない。
すると、駆けてくる足音が横から近づいてきた。
振り向くとそこに居たのは智で、彼女は私の手前で足を止めると、少し息を乱しながら遊と死刑囚の戦闘を一瞥しつつ言う。
「互角かな。うん、逃げよう」
「……え?」
当惑していると、彼女は私の反応などお構いなしに手首を掴んで倉庫の方へと引っ張った。
「ちょっと、離してよ」
私は数歩もしない内に彼女の手を振り払い、反動で躓きつつ振り向いた智と相対する。
無表情。
しかし、その血色は普段に増して青白くなり、汗がうっすらと頬を伝っているのを私は見逃さなかった。
緊急事態ということを、理解している。
彼が死刑囚であり、忌避するべき存在であることを十分に把握している……なのに、だ。
「なんで逃げるの? 遊を見捨てるつもり?」
「そうじゃない。先生を呼びに行くんだよ。この緊急事態に、私たちだけでは対応しきれないから」
鬼気迫る眼光と語気。
圧倒されつつ、私は彼女と相対する。
「なら、遊も一緒に全員で逃げようよ。ネオにもこのことを伝えて、全員で」
「いや、遊にはここで死刑囚を食い止めてもらう」
「……は?」
「あの死刑囚の身体能力は伊達じゃない。今は遊が相手をしてるからまだ逃げる余地はあるけど、遊まで逃げたらすぐに追いつかれることは目に見えてる。二つに一つなんだよ。遊を置いて先生を呼びに行くか、ここで全員死ぬのか。そのどっちかしか、私たちには残されてない」
「………………」
理屈はそうなのだろう。
あれだけの攻防を繰り広げていて走るのだけは遅いとか、そんな楽観的なことを口走るつもりはない。少なからず、特に運動神経が高いわけでもない私たちを一瞬の内に追い詰めて、暴虐の限りを尽くすことは造作もないはずだ。
ただ、それはどちらかといえば私が言うべき台詞であって、智が言うべき台詞では有り得ないはずなのである。
彼女たちの関係性。
家族以上に大事だと断言する、友達よりも恋人に近い関係性。
遊を置いて自分たちだけ逃げると言う台詞は、智の口から出ていい言葉ではないはずなのに…………。
バツン。
という、太い紐をハサミで裁断したような音が上空から聞こえる。
それと同時に、体育館を照らしていた照明は全て消灯し、館内は窓から差し込む青色の自然光で薄く照らされて、かと思うと今度はモーター音と共に黒色のカーテンが全ての窓を覆い、視界は瞬く間に暗くなった。
異常事態に次ぐ異常事態。
誰が何のためにこんなことを…………と私が当惑している間にも、遊と死刑囚による戦闘は勢いを衰えさせることなく継続していた。
暗転しても平常通りの戦闘を出来る死刑囚。
ということは、対戦相手の遊を混乱させるために、死刑囚の仲間が舞台装置を操作したのだろうか。
その発想は自分から出たものでありながら、余計に自分の恐怖心を煽ることになった。
敵は一人ではないかもしれず、ならば二人とも限らず、今も暗くなった視界のどこからか現れ出でるかも知れず……といった式に、である。
その時だった。
私の手首は、突然に背後から掴まれ、強引に引っ張られたのである。
「………………っ」
反射的に足を踏ん張り、私はその手を振り払う。
振り払えるほどの握力、ではあった。
しかし私は油断せず、最大限の警戒心でもって振り向き、その正体と相対する。
「早く行こう。何か知らないけど、これで目くらましになった。今ならバレないように、こっそり逃げられる」
手を差し出しつつ、抑え気味に言った声の主は智だった。
さっきと同様に、私を無理やりに死刑囚から逃がそうとしたのだろう。
しかし、私はその手を取ることをしない。
しないまま、最大限の警戒心を維持しつつ、恐怖的な状況に声が小さくなりながら言う。
「……智は先生を呼びに行ってよ。私はネオを呼びに行ってくる。逃げるのは全員が集まって、先生が来てからにするから」
「それじゃ駄目なんだよ」
「駄目って……駄目じゃないでしょ。先生を呼びに行くのに二人も要らないんだから、一人は残って、全員が助かるためにやるべきことをしないと」
「…………」
遊と死刑囚が激しく戦闘する中で、智は俯いて沈黙した。
私には、その沈黙が怖くて仕方なかった。
なぜ遊だけではなく、ネオまで置いて逃げようとするのだろうか。
管理室で閉じこもっている限り当面は大丈夫だからとか、何かもっともらしい理由があれば納得できた。
だが、彼女は否定して黙るのみで、何等の言い訳も口にしないのである。
全員が助かるべきという当然の希望を、端から持っていないのだ。
分からない。
智がなぜ、合理的な理由もなく遊とネオを見捨てようとするのか、私にはさっぱり理解できない。
出来ない、から。
私はとにかく、彼女に質問した。
緊急事態で、質問する余裕も本来は無いのだから、選りすぐりの最重要を一つだけ。
「この際だから言うけど、智がネオを見捨てて遊だけを助けようってつもりならまだ理解は出来たんだよ。同意するかは別としてだけど」
「…………」
「でも、智はむしろ遊一人だけを最前線に置いたまま逃げようとする。誰か一人だけ先生を呼びに行って他の二人は遊の援護をするとかの方が遊は安全なのに、智は遊が一番危険になるような方法しか認めない。それはなんで?」
私はまくし立てるように言う。
この緊急事態に、ではなく、この緊急事態だからこそ智の異常行動は見逃せなかった。
疑わしきは罰せよ、ではないが、今の智に唯々諾々とついていくのは無策である。
それに、もしついていくのが私自身だったのならまだしも、この体は借り物なのだ。
何かあってからでは遅い。
慎重に、万全には万全を期さないと……そう意気込んでいた時。
「言ったら、それで納得するのかな」
智はそう呟いた。
視線は床の方を向いているし、完全に独り言の様相を呈している。
……何かを言い渋っているのだな、ということは読み解けた。
遊をあえて危険に曝すような行動の、その意味……彼女はそれを言い渋っている。
私は、ただ彼女の返事を待った。
背後では交戦の荒々しい物音が絶え間なく聞こえてくるし、すぐに彼女を救助するべく動きたいのは山々だったが、それでも待った。
やがて、彼女は苦々しい表情を浮かべつつ、意を決したように顔を上げてこう言いかけた。
「今、あんたの後ろで戦ってる遊は、」
しかし、そこまでだった。
彼女の声も、背後の物音も、私の呼吸音も、何もかも。
あらゆる音声は、たった一つの壮絶極まる爆音によって、たちまち掻き消されてしまったのだ。
あるいは、風船の破裂する音のようで。
あるいは、花火が爆発する音のようで。
あるいは、爆弾が炸裂する音のようで。
その音は、薄暗い体育館を瞬間的にフラッシュさせ、館内が元の明度に戻る頃には何等の音も聞こえない静寂と化していた。
光を伴う爆音。
銃声。
私は、まずそれを連想した。
そして、舞台装置が稼働し続けている中でも戦闘を止めなかったあの二人が、今になって戦闘を中断した理由も立て続けに連想する。
直撃したのではないか。
最悪の発想が、脳内を駆け巡る。
居ても経っても居られず、私は後ろを振り向いた。
しかし、それは叶わなかった。
腹部に、大木の幹で思い切り殴られたような衝撃が走る。
痛みを感じる間もなく、私の意識は立ち消えた。
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