学校(10)
「……は?」
私の口から自然と漏れ出たのは、そんな腑抜けた声だった。
彼が発したのは、全く私の予想に掠りもしないものだったからだ。
注意でもなく、挨拶でなければ脅迫でもない、ごく素朴な質問。
ゆえに、彼がどの立場でそう聞いたのかが皆目見当もつかなかったのである。
……いや。
私は一つだけ、思い当たる節を発見していた。
彼が先生でないのは確定として、そうなれば彼は不審者の類だ。
土足のまま体育館に入ってきたのがまず不審だし、「死ぬのを怖いと思ったことはあるか」という問いかけは要するに、「今から俺はお前を殺すがお前はそれについてどう思うんだ」、みたいな意味の脅迫なのだろう。
彼の巨体が、風采が、迫力が、私にそれを確信させていた。
「唖然としていないで、俺の質問に答えろ。案ずるな、誰もお前の回答に興味などない。お前はただ、聞かれたことに答えればいいだけだ」
巨漢は黒マスク越しのくぐもった低い声で話す。
興味ないことをなぜ訊くのだ、と言い返すことは出来なかった。
こういう時の鉄則だ。
他にどうしようもなければ素直に従うしかない。下手に逆上でもさせたら殺されかねない状況なのだから。
「……死ぬのは怖い、ですよ。誰でもそうだと思いますけど」
私は半ば懇願の意を込めて答える。
彼は縮こまった私を無関心そうに眺めつつ黒マスクを耳から外し、無駄に高い鼻をさらけ出した。
それは、どういう意図の行動なのだろうか。
彼の些細な所作に、私はいちいち理由を考えてしまう。
「ああ、そうだ。漏れなくお前を含め、十中八九の人間は死ぬのを怖いと言う。しかし、俺からすればそれは真っ赤な嘘だ。大半の人間は本気で死を怖がってなどいない。すなわち、大半の人間は虚言癖だということでもあるな。嘆かわしい事実だ」
しかし、どうやら私の早合点だったようだ。
彼はさっきと変わらないテンションで、つまり脅そうという気配もなく、ただ怠そうに会話を展開するのみなのだから。
だが、私が死を怖がってなどいないとはどういう意味だ。
何をもってそう言い切れる。
なんならテレパシーで今の私の心境をそっくりそのまま思い知らせてやろうかとも思ったが、まとめて私の脳内のアレやコレやまで伝達してしまっては不味いので止しておいた。プライバシーの保護である。
「例えばお前、交通事故で死ぬ人間は年間で何人いると思う」
すると、話は飛び石式に別の話題へとシフトする。
何がどうさっきの話と関係するのかは分からないが、為す術のない私は従順かつ適当な数字を答えざるを得なかった。
「……五百人、とかですか?」
「三千人だ。お前の予想より、六倍は毎年死ぬことになる」
「三千人……」
「お前、今「だからなんだ」と思っただろう」
断定するような口調で彼は言う。
初対面でそんな分かった風なことを、とは思ったが、しかし正解である。年間の交通事故による死亡者数を聞かされて、それがどう私の死生観と関係してくるというのだ。甚だ疑問である。
だがそれを指摘するような度胸も持ち合わせていないために、私はただ言われた数字を復唱することでその場凌ぎの相槌を打ったのである。
ゆえに私は、彼の問いかけに対して閉口する。
図星だからといって頷くのが正解か、それとも不正解なのかが咄嗟に分からなかったからだ。
すると、彼は私の反応など無関係だという風に一人で語り出した。
「それが何よりの証拠だ。年間でこの死因でこのぐらいの人数が死ぬと聞かされていようが、それだけ具体的なデータを提示されているにも拘らず大半は自分が事故死することを想像しない。交通事故と自分とはまるで縁がないと信じて疑わない。そして、ご機嫌な面をしながら、何の対策もせずに歩道を歩く。すぐ隣では年間で三千人を殺す鉄の塊が行き交っているあの歩道を、だ。そんな人間がよくも死を怖いなどと撞着したことが言えたものだ。そうだろう」
言い分は分かる、というのが率直な感想だった。
確かに私は、自分が事故で死ぬとは思っていなかった。寿命とか病気とか、そういうもので死ぬんだと考えていたならまだしも、そもそも自分がどの死因で死ぬのかを想像したことがなかったのである。
そんな生半可な心構えでいながら死が怖いと言うのは、確かに薄っぺらいかもしれない。少なくとも、「漠然と死が怖い」ぐらいに抑えて言っておくのが正しかったのだろう。
ただそれはそれとして、彼の持論は完全に肯定できるものではなかった。
「……交通事故の対策ってほぼ不可能じゃないですか? いくら注意しながら歩いていても、車が猛スピードで突っ込んで来たら対処しきれないと思いますけど。対策する方法が無いんだったら、無防備に歩くしかないですよ」
「だから車が突っ込んできたら潔く死ぬと言うのか? 随分と達観しているんだな。だが、それはつまり死が怖くないということだろう。その矛盾はどう説明する」
「怖いという気持ちは嘘じゃないです。事故は避けられないですからね。だから怖いんです」
「見え透いた嘘を吐かなくていい。いつ事故に遭うかと毎度怯えながら道を歩いているのか、お前は。どうせ友達連中と喋りながらよそ見しつつ歩いているに違いない。お前は車を恐れてなどいないし、だから如何なる対策も講じない。それが本音だ」
「…………」
嘘をついたつもりはなかった。
ただ、言われてからやっと気が付いたのだ。
彼の言う通り、私は実のところ車を恐れてなどいなかったのである。
車には殺傷能力が備わっていると知りながら、その横を通る時に死の恐怖を一切感じない。
そんな自家撞着が自分にあるとは信じられなかったのだ。
単に「車には慣れているから」、で済ませようと思えば済ませられるかもしれない。
だが、これは車の事故に限った話ではなく、振り返ってみれば私は遍く危険に対して鈍感だったのである。
例えば私は駅のホームで電車を待っている時にふらついて線路に落ちる可能性は考えていないし、海を泳いでいる時に足がつって溺れる可能性は全く無視している。
死を本当に恐れているなら、こんなに分かりやすい死の危険にはまず注意するべきはずだ。すなわち、これらでさえ注意していない私は他の分かりづらい死の危険に対しても同様に鈍感なのである。
それはかなり奇妙な感覚だった。
私は死についてかなり思い違いをしながら生きてきた可能性がある。そもそも思っていた内にさえ入らないのかもしれない。
私はその自己矛盾に陥ると相対的に彼への恐怖感を少しの間忘れ、悠長にも自分の死生観を再考せずにはいられなくなった。
が、彼はいつまでも黙っているわけではない。
「そもそも、お前はなぜ死が避けられないことだと思う」
「なぜ、ですか」
おもむろな質問に困って、私はまたもや復唱する。
なぜと言われても、死は避けられないものだろう。それが怖いかどうかはさておき、死が避けられないというのは事実だ。
誰だって死ぬときは死ぬ。
猛突進してくる車に対して、人はどうすることも出来ない。その主張に関してだけは間違っているとは到底思えなかった。
「……なぜも何も、死は避けられないからですよ。それ自体が答えで、理由です」
「なら、なぜお前は生きている。今まで十数年と生きてきて、死の危機に直面したことは一度たりともないのか」
「……多分なかったと」
「無いわけが無いだろう」
彼は食い気味に、かつ頑として主張する。
「子供は往々にして無謀だ。特にお前のような、無許可で体育館へ侵入するような悪童は幼少時代に今以上の無茶な生活を送ってきたに決まっている。そしてその度に死を回避して生き延び続けたに違いない。ゆえに、死が回避できるものであることはお前自身が知っているはずだ」
「……はあ」
それはまあ、決めつけだな。
私が生きているのは今まで死の危機をことごとく回避してきたからではなく、単に死ぬような事態に直面したことがないというだけだ。それは私自身が一番知っている。
私はネオのように強靭でなければ、智のように頭は回らないし、遊みたいに反射神経が高いわけでもない。
そういう場面に遭遇した場合、独立同盟の中で真っ先に死ぬであろう人間は私だ。その私が生きているということは、私が死の局面に遭遇したことがないという証左に他ならないだろう。
まあそれを言ったところで、赤の他人である彼が納得することはないだろうけど。
「喜べ、これで最後の質問だ」
などと私が考えている内に不審者はパンツのポケットからスマホを取り出し、何かを確認すると手ごとポケットに突っ込んだ。
最後の質問、か。
それはつまり、どの順番で何を質問するかは最初から決まっていたということだろうか。
まあ最初の質問の時、十中八九の人間がどうとか言っていたから私以外にも同じ質問をしているのだなとは勘づいていたし、諸々と照らし合わせてみても彼が何かしらの台本的なものに基づいて質疑応答を展開していたのは間違いないだろう。
……いや。
そんなことは、目下の問題ではない。
私は彼の言葉を反芻しつつ、彼に対する恐怖感を胸中で再燃させていた。
最後の質問、だ。
質問はこれで最後、なのである。
すなわち、その質問が終わったらその後には何が待ち構えているんだろうか、という想像が私の心を蝕み始めたのである。
死生についての話題が尽きた、その後のシナリオ。
恐るべき巨体と、冷酷無比な双眸の意味。
それは想像するのも恐ろしい、しかし想像せずにはいられない恐怖だった。
私は固唾を呑みつつ、彼の質問を待つ。
果たして、彼は重たそうな瞼を半目に持ち上げると無関心そうに言った。
「殺し屋の反対は何だと思う」
「…………」
私、という意味だろうか。
まず発想したのはそのアイデアだった。
そして彼こそが殺し屋であり、今までの質問は今から殺す相手の死生観をコレクションするためだったとか……。
いや、そこまでは誇大妄想だ。
彼は一言もそんなことは発していない。ただの考えすぎである。両足が微かに震えるのは、十月の寒さのせいか登山による疲労のせいに違いないのだ。
「答えを間違えても殺しはしない。だから早く答えろ」
ほら、本人もそう言っている。
やっぱり私の考えすぎだったのだ。無論、こんなものは獲物を油断させるための甘言ではないのだし、そろそろこの不快な緊張感は解いてしまっても…………。
しかし、ここで私の脳内にある疑問がよぎった。
なぜ彼は、聞かれてもいないのに「殺しはしない」などと口に出したのだろう。
人が人を殺さないのは当たり前のことだ。それをわざわざ宣言するのは、そんなの、自分は普段から人を殺すのが当たり前だと公言しているようなものではないか。
顔面が冷たくなり、口腔内が乾く。
どういうことだ。
やはり私の妄想は妄想でなかったとでもいうのか。
そうと分かれば大変だ。
私は早急に、生き延びる術を考えねばならない。
私はじんわりと頭痛がする頭を無理に回転させて、必死に九死に一生を得るための策を考えては破棄し、考えては破棄した。
結果、とりあえず私は彼の質問に対して答えるという方法を選択することにした。
ただし、ただ質問に答えるだけでは足りない。
私の狙い目は、会話を長引かせることにあった。
すなわち、五時間目になれば体育館には授業のために生徒なり先生なりが入ってくるはずだから、それまで話を長引かせることが出来れば彼も迂闊に私を殺すことは出来ないだろうと踏んだのである。
そうなると、次に考えなければいけないのは如何に会話が長引くように仕向けるのかである。
考えろ。
殺すにはまだ早いと思わせるような、魅力的な回答を。
例え嘘であっても、生かす価値のある人間と思わせるような回答を…………。
「『一般的な回答だと標的とかになると思うんですけど、多分そういうことじゃないんですよね』」
私は自分の口がひとりでに動いたことに驚いた。
しかし、表情筋は微動だにせずむしろ無表情となっている。
突如、だんまりを決め込んでいた銀が私に憑依して話し出したのだ。
私が想定していたのとは、全く異なる話の運び方で。
「お前は違うのか」
巨漢は私を見下ろしながら低い声で言う。
私は何者かに後ろから押されるようにして頷き、糸で引っ張られているかのように口を動かした。
「『専門家でもなんでもないので確かなことは言えないんですけど、恐らく殺し屋って百パーセント標的を殺せるわけではないと思うんですよ。そうなると、標的は「殺せた標的」と「殺せなかった標的」の二つが分類として存在することになります。つまり、殺人者の対極に位置する存在はどちらかを考えて選び出せば、自ずとそれが答えということになるんじゃないでしょうか』」
「それで、お前はどちらを選ぶんだ」
「『殺せなかった標的だと、私は思います』」
応酬が終わると、私は全身が一気に脱力したような気分に襲われ、体に重みを感じた。
体の支配権が私に戻ってきた、ということである。
それと同時に、私は銀の話の運び方に感嘆していた。
彼女は、あえて不完全な回答をしていたのである。
作為的に僅かなミスを作り、それを指摘させることで時間を稼ぐという目論見。
これが思惑通りに作用すれば万々歳なのだが、果たしてどうだろうか。
私は顔を上げ、彼の返答を待った。
「「私はそう思います」、か」
しかし、反応は意外なものであった。
彼はそのままの立ち位置で、顔だけをのっそりと近づけたのである。色素の薄い瞳が、刺すように私を覗いている。
……私の言葉でないことがバレたとでもいうのだろうか。それにしても、一体どうやって見抜いたというのだ。
『ちょっと流暢に喋りすぎたかもね。演技でもたどたどしく話せばよかった』
後頭部の辺りで、調子の下がった銀の声が聞こえる。
その途端、不審者は私に顔を近づけたまま、眼球を右上に持っていくと左上へゆっくり滑らせた。明らかに私以外を捉えている視線の運びである。
まさか、彼には銀の存在が見えているのだろうか。
話し方などで判断したのではなく、元からその道のプロであり、銀のことを幽体として捉えることが可能、とか…………。
有り得ない、とは一概に言えない。
いくら銀が私以外に姿を見せないようにしていたところで、その制御が常に完璧であるとは分からないのだし、仮に素人相手には確実に騙せるのだとしても霊媒師的な存在にまで通用するのかはまた別の話だろう。幽体になってまだ日が浅いのだから尚更だ。
しかし、そうなると話は変わってくる。
彼がもし殺人とは無関係の霊能力者なのだとしたら、これほど絶好の機会はないということになるのだ。
幽体離脱をしたその日の内に、幽体離脱を治せるかもしれない存在が現れる。こんなにおあつらえ向きなことはないだろう。
だが、私が興奮するのとは裏腹に、彼は「まあいい」と言いつつ元の体勢に戻って顔を遠ざけてしまった。
そして私が口を挟む間もなく、話を元に戻してしまったのである。
「さっきの答え合わせだが、殺せなかったというのでは不十分だ。なぜなら、一度目は殺せなかった標的が二度目も三度目も殺せないとは限らないからだ。しかも、たった一度だけ殺されなかっただけなら殺し屋側のミスの可能性もあるだろう。その場合、標的側の能力は関係ない。つまり、ひとまずの正解としては「殺せない標的」あたりが妥当だろう。殺し屋をもってしても容易には殺せない、宿敵とも呼ぶべき存在。そうでなくては反対たり得ないだろう」
とりあえず、銀の狙いは的中した。
不十分な回答をして相手に説明をさせるという時間稼ぎ。問題はここからどう話を持っていくかだが……。
しかし、ここで一つ誤算が生じる。
「だが、これでもまだ不十分だ。それでは「殺人者の反対」にはなっても、「殺し屋の反対」にはならないからな」
「……え?」
私は首を傾げる。
てっきり「殺せない標的」でベストアンサーだとばかり思っていたから、これ以上間違いに対する訂正で話が進むとは思っていなかったのだ。
しかも、よく分からない訂正だ。
殺し屋の反対も殺人者の反対も、どちらにしたって答えは変わらないだろう。殺人者にとっても殺す相手は標的だし、やはりその中でも殺せない標的のことを真の反対とするのではないのか。
「前者と後者は全く違う」
表情から私の主張を察したのだろうか、彼は真っ向に否定しつつ言う。
「それを生業とするか否か、という決定的な差があるだろう。殺し屋というのが職業であるのに対して、職業でない「標的」という概念は反対語たり得ない。つまり、殺人者の反対なら正解でも、殺し屋の反対となるとあと一捻り足りないだろうというわけだ」
「一捻り……」
「そうだ」
私は考えるフリをすることで時間を稼ぎつつ、一方で実際に考えてみる。
彼の言いたいこと自体は概ね理解できた。
私、というか銀が言ったのはあくまで殺し屋の「殺し」の部分にスポットを当ててその反対を考察していただけであり、その下にある「屋」の部分も対応させないと真反対の意味にはならないだろうということである。
しかし、そうなると私には一つしか思い当たる回答が出てこなかった。
しかもその回答は、間違っているとしか思いようのない回答だった。
なぜなら私は、今から自分が口に出す単語を産まれてから一度も聞いたことがなければ、口にしたことも全くなかったからである。
知識は一切使わず、ただ思考によってのみ導き出される回答。
ゆえにその回答には少しも自信を持てなかったのだが、彼の重圧にもいよいよ耐え切れなくなって、私はもう半ば自棄になったようにその発想を吐き出した。
「……【殺せない屋】、ということですか?」
「聞かなくていい」
その時だった。
私は無防備にも目の前の不審者から完全に目を離し、背後から会話に割り込んできた彼女を確認する。
振り返る前から分かっていた。声の主は智である。
しかし、予想が当たっていたのはそこまでだった。
彼女は舞台の上で目を見開き、顔を真っ青にさせていたのである。その隣では遊が私と不審者と智とを交互に見つつ困惑の表情を浮かべていたが、私も同じ表情を浮かべていたことだろう。
その大袈裟な表情の意味が、すぐには理解しかねた。
すると智は右手を横に広げて、非常口の誘導灯が上で光る鉄製のドアを指差したのである。
「そんな奴の話は一言も聞かなくていい。耳を傾けるべきじゃない。あんたはすぐにそこの倉庫から逃げて」
私はまたも混乱してしまった。
今まで私は彼のことを恐怖すべき不審者であると考えると同時に、頼るべきかもしれない霊能力者としても認識しつつあったので、その是非を確認しないうちは彼から離れるべきではないと思いつつ今すぐにでも逃げ出したいという矛盾の中に居たのである。
それを急に逃げろと言われたので、私は結論も出し切らないまま途方に暮れてしまったのだ。
しかし、そうしていると智の表情は瞬く間に物凄い剣幕となり、ほとんど吠えるように「早く!」と体育館中に反響する大声を出すと、倉庫の方に向けていた人差し指を私の背後に向けてこう怒鳴り散らしたのである。
「そいつは罪のない警察官を十人殺した、最悪の死刑囚だよ!」
瞬間、杏子の脳内は死の恐怖にあてられて真っ白になった。
横を通る車や電車などとは訳が違う。彼はさっきからずっと、杏子の正面に立ち塞がっていたのだから。
霊能力がどうとか、そういった希望的観測はすっかり消え失せてしまって、混乱を通り越した無思考状態に陥ったのである。
そして極めつけに、背後で響く死刑囚の舌打ちを聞くと杏子は気絶した。
答え合わせだと思ったのだろう。
支配を失った体は、重力のままに前方へ投げ出された。
しかし、なんとか間に合った。
私は杏子の体に再び憑依して倒れそうになるのを踏ん張り、そのまま智が言った通りに倉庫の方へと駆け出したのである。
彼の顔に見覚えがあるはずだ。
それだけの大罪を犯した人間なのだから、ニュースか何かで見た記憶が残っていたのだろう。もっと普段から真剣にニュースを見ておくべきだった。
「おい、逃げるなよ。まだ話は終わっていないだろう」
後ろから相も変わらずの退屈そうな声が聞こえる。
私にだってしたい話は山ほどあった。なぜ死刑囚が拘置所の外にいるのかとか、なぜそれが報道されていないのかとか、なぜ面識のない杏子をわざわざ殺しに来たんだ、とか。
しかし、返事をしている余裕はない。
後ろからゆっくりと追ってくる重い足音を聞いていると、例えそのスピードでは絶対に私には追い付けないと分かっていながら、凶悪なプレッシャーに圧し潰されそうになって息が上がってしまっていたのだ。
本気で走ればすぐに追いつくからと、私を泳がしているのだろうか。
それとも……などと一心不乱で走っている内に、私は自分以外の足音が一つもしていないことに違和感を覚える。
死刑囚が私を追うのを辞めた?
なら、その原因は何だ。彼に何が起きた。
それだけではない。
なぜ智と遊は微動だにしないのだ。私が危険であるのと同様、危険なのは彼女たちにしたって変わらないのに。
私は堪らず足を止めて、背後を振り返った。
すると、そこには異様な光景が広がっていた。
まず左端の智は、さっきまでの激昂はどこへやらの落ち着いた様子でスマホを耳に当てつつ、もう片方の手はブレザーのポケットに仕舞っている。
そして右端の死刑囚は両手をポケットから出し、直立しながら舞台の上をぼんやりと眺めている。
その中でひときわ異常な行動を取っていたのは遊だった。
彼女は舞台から飛び降りるとコートに着地し、体を地面とほぼ水平にして死刑囚の方へと敏捷極まる速度で接近したのである。
「遊!」
私は彼女の意図もまるで理解不能のまま、反射的に彼女の名を叫んで呼び止める。
しかし遊の勢いは留まることを知らず、あっという間に死刑囚の直前まで到達すると、やっと彼女は口を開いた。
「【土竜道 最終奥義】」
しかし、その言葉は私の呼び止めに対応するものでは到底なかった。
どころか誰に対しての言葉でもなく、何を意味する言葉なのかも分からない。
それは死刑囚にしても同じのようで、彼は真下に迫る遊に対して首を傾げ、不可解そうに右手を差し出した。
概ね、頭でも掴んで力任せに止めるつもりだったんだろう。
だがそれが仇となった。
遊はその手を避けようともせず、むしろ両手で彼の腕を掴んだのである。
そして彼の脇腹に右足を掛けるとまたも彼女は意味不明の呪文を唱えた。
曰く、「【形無し】」。
すると彼の肩はゴキンという鈍い音を出しながら、いとも容易く脱臼したのである。