学校(9)
私は彼女の生い立ちを聞きながら、中盤のあたりで既にこの先に待ち構えている展開を予想して、一人で怯えていた。
ネオの平等主義には、確かな背景がある。
思春期の全能感とか、最近読んだ本に影響されたんじゃなくて、自分の経歴と性質に基づいた信念を伴う平等主義を彼女は持っている。
ゆえに、彼女が自身の思想を捻じ曲げてまで恋人を作りたいなんて甘っちょろい考えを持っていないことは、詳細に聞かずとも手に取るように分かり切っているのである。
そんな彼女に、「彼氏が出来ました」なんて歯の浮くような報告すればどんな反応が返ってくるだろうか。
肯定はされないだろう。
だが、私の軽薄さに呆れて見限られるには違いない。
そう思うと、私はますます報告の足取りが重くなるのであった。
「それからもう十年近く経ったからな。私の平等主義はいちいち考えて平等らしく振舞うというより、既に無意識の範疇になりつつあって自分でも制御しきれん。殊に恋愛については、全くその気になったことさえないよ」
極めつけにそこまでハッキリ言うのだから、私はいよいよ参ってしまった。
だが、それを悟られてもいけないので、私は変な間を作らないように途中から考えていた返事を機械的に口に出す。
「そんな昔の決まり事を今まで守ってるなんて凄いね。私には真似できないよ」
「それは冗談だな。お前ら姉妹だって、いつからかは知らんが恋愛禁止を貫いているはずだろう。同一人物で居続けるには、恋人を作るわけにはいかないんだからな」
「……いや、あれだよ。平等主義の方ね。私たちはその、言っても普通に生活してるだけだし」
ここで失言を誤魔化したところで結局は全部カミングアウトするのに、とも思ったが、私の口からは弁解の言葉がつらつらと出てきていた。
この期に及んでまだ私はネオに嫌われたくないらしい。
浅ましいことだ。
「普通の生活、か」
ここでネオは、憂いを帯びた表情で私の言葉をうわごとのように繰り返した。
よくわからない反応だ。一体、何を思ったのだろう。
その意図が分からず、かと言ってどう尋ねてよいのかも分からず私はネオの顔を黙って見つめていると、彼女は私に目を合わせてこう言った。
「少し変な質問になるかもしれないが、お前は普通の人が普通に暮らしていることについて疑問を持ったことはないか?」
本当に変な質問だった。
普通の人が普通にって……それはごく普通のことではないのだろうか。
そう言うと、ネオは首を僅かに横に振りつつ言う。
「ここでいう普通の人とは、普通に野性を持つ人間のことだ。幼少期の頃は虫を殺したり、学生になると人をいじめたりする人間は普通なほどに多く存在する。世人は私まで酷くなくとも、多少の野性は内包しながら生きているはずだ。お前も道端に落ちている枝を何の気なく折ったり、落ち葉をビリビリに破いたことぐらいはあるだろう」
「まあ、あったかもね」
「私はそういう人間が、つまり普通の人間が平然な顔をして歩いているのを見ると危なっかしくて不安になる」
ネオは腕を組みつつ言う。
「普通の人間は恐らく、自分は道徳や常識によって野性を制御されているから危険人物ではないと主張するのだろうが、私にはそれが眉唾にしか思えない。道徳や常識とは今日に至るまでの社会で形成されてきた、自分が産まれる前に既に存在していた縛りであって、言うなれば自分のためだけの規律ではない。そんなものは毎度のように意識しないだろうし、そうなれば規律として機能しているかも怪しい。いじめをする人間が、本当の意味でその行為を常識や道徳に反する犯罪行為であると考えているのかは甚だ疑問だ」
「……まあ、考えてないだろうね」
「それは由々しき事態だろう。ロクな教訓や規律も得ないまま、図体と脳みそは成長していき、可能となる犯罪のレベルは上昇し続ける。普通人が平気な顔をしながら、内なる野性を放し飼いに闊歩することを普通とされる社会」
ネオはここで区切って、強調するようにまた首を横に振った。
「私には、それが不思議でならない」
一理あるな、というのが私の率直な感想だった。
怪我の功名ではないけど、人は過ちを繰り返していく中で自制心を養っていく。
それがネオの場合は平等主義で自分を律したり、犯罪者の場合は法律で裁かれることによって規律を意識するようになる。
そういった経験のない一般人は、知識から犯罪をしてはいけないことを知っているが、犯罪をしないように努めて自分を律しているわけではない。
人を噛んだことのある首輪付きの狂犬と、人を噛んだことのない野犬。
どちらがより恐るべきかと訊かれたら、すぐには答えられないだろうというのが結論であり、ネオの意見には半分以上を賛同していた。
しかし、ここで横から反論を投げかける人物が突如として現れた。
「どうだろうね。そこまで怯えるようなことはないと思うけど」
私は振り返る。
声の主は智だった。梯子を上りきり、直立するとすぐさま手をポケットに突っ込む。
「あれ、まだ管理室に入ってなかったんだ」
純粋に気になったので尋ねると、「鍵だけ開けてトイレ行ってた。遊は中に居るよ」と返した。となると、どうやらかなり先回りして来ていたらしい。
「そこまで怯えることではない、とはどういう意味だ」
ネオは私を挟んで智に問いかける。
そうだ、その話題だった。
智は一体、どう反論するのだろう。
こうなると私が口を出すことはなさそうだったので、私はしばらく黙っていることにした。
「今まで犯罪になるような……まあ、重罪になるようなとしておこうか。そういったことをしてこなかった程度には野性のある人間を一般人と呼ぶとして、その一般人は誰かに悪行を咎められたこともなく、自分の野性を認めて自戒したこともないから怖い、っていう話だよね?」
「というよりかは、単純に疑問なんだよ。私は規律によって野性を制限されるのが当たり前のまま成長した身だから、そういった制約がないまま生活している人間がどうやって野性をセーブしているのかが分からん。それが常識や道徳といったものでないのは確信しているんだが」
「そこは私も同意。だけど、一般人にも野性を制限する装置は備わってるよ」
「なんだそれは」
「ボウエイホンノウ」
智は機械音声のように平坦に言う。
「この場合は、社会的な防衛本能と言うべきなのかな。社会的に殺されるような野性的な行動は取らないようにっていう防衛本能が、人間には初めからちゃんと備わっている。その証拠に、まだ常識とか道徳とか法律の具体的な意味を知らない子供でも、人を殺すことは滅多にしないよね。虫とかは平気で殺すのに。それは、同族殺しが社会的に最悪の行いであることを本能的に知っているからだ。虫は殺すけど、トカゲとかカエル、ネズミとかイヌ、サルから人間になるにつれて殺すのに抵抗があるのは、人に近いものは殺してはいけないっていう防衛本能から来てるんだよ。同族殺しは危険人物として認定され社会的に殺されてしまうから、そうならないように人間は社会的な防衛本能が発達してるんだ」
それは道徳や法律よりも、頭に入ってきやすい理屈だった。
意識するとせざるに関係なく、本能的に駄目だと思ったことだからしない。
その理屈は、ネオ自身も展開していた持論だった。
平等主義を無意識の領域まで落とし込むから、考えるまでもなく平等に反することはしない。
彼女に対して説くには、これ以上に無い解説だっただろう。
「なるほど、防衛本能か。それは盲点だった」
果たして、ネオは腕を組んだまま頷いた。
見るからに腑に落ちたと言わんばかりの、飾りがない納得。
しかし、その納得はあまり良くない方向へと転落していった。
「つまり私は野性が人一倍強いというよりは、防衛本能が人より劣っていた可能性もあるわけだな」
「どうだろう。まあ、悲観することはないと思うけど。過ぎた防衛本能が祟って逆に人を殺してしまうこともあるわけだしね。過剰防衛なんかはその典型だ」
「……いずれにせよ、凶悪犯罪者になりたくなければ体は鍛えない方が良いのかもしれないな。非力であれば本能が暴走した時でも、重罪は犯さずに済む」
すなわち、ネオは自分の無意識がまた発動して、再び犯罪的な行動を取ってしまうのだと危惧し、ならばもう運動能力は捨ててしまおうと考え始めたのだ。
夢遊病患者が凶器になりそうな物を片端から捨ててしまうように、無意識を制御しない代わりに暴走した場合の被害を減らす方法。
しかし、私はそのやり方に賛同できなかった。
ネオはこれまでの十年以上、平等主義によって野性を封じ込めることに成功しているのだ。
平等主義自体は制御できなくても、野性はコントロールできている。
なのに、過剰に暴走を恐れて能力を捨ててしまうのは駄目だろう。
万が一のためにで諦めてしまうほど、ネオの能力は無価値じゃない。
近くで見ていて、私はそれを確信していた。
だから、私たちが友達である内に、せめてそれだけは否定してあげないと思ったのだ。
友達として出来る、最後のアドバイス。
が、話は私の心境と無関係にあっさり終了した。
「今の時代、肉体的に強くなかろうが凶器次第で人を殺すことなんて簡単だよ」
智は私とネオの横を通り過ぎながら、こう言ったのである。
「そんな時代の中で、ネオみたいに強い人が友達だと安心だけどな。私は」
至ってシンプルなその言葉は、さらりとした口調に乗せられてネオに運ばれた。
変に取り乱さず、理屈っぽくもない自然な台詞。
「……なら、お前たちと友達でいる内は屈強でいることにしようか」
「生涯スポーツマンってことだ」
「手厳しいやつだよ、お前は」
その応酬が終わる頃には、すっかり和気あいあいとしたムードに場が変貌していた。
ネオの表情にはすっかり影がなくなり、緊張も綻んでいるように見える。
万事丸く収まったのだ。
流石は智だな、と本日二回目になる感心に打たれている時、ふとその輪の外側で私は陰ってしまった。
流石は智、だから「私が居なくても独立同盟はちゃんと回るのだろうな」と思ってしまったのだ。
私はネオの話を聞くばかりで、彼女の内に秘めた悩みなど一つも解決させられなかったが、智はその間に迅速に、角が立たない表現でネオを丸め込んだのだから、うっかりそんな気になるのも仕方がない。
いよいよ私が独立同盟に留まる価値はないかのように思えてきた。
そうなれば、もう躊躇う必要はない。
さっさと私のような、浮気者で役立たずは彼女たちと縁を切ってしまわないといけない。
そう決意したはずだった、のだが。
「ほら、さっさと中に入ろうよ。もうあまり昼休みは残ってないんだから」
智がそう言いだして、「そうだな」と相槌を打ちつつネオが後についていく。
その姿を私は、棒立ちして見送っていた。
「杏子、どうしたの?」
智はドアノブを掴みつつ振り返って言い、その隣でネオは不思議そうに、硬直する私の顔を眺めていた。
どうしたのだろう、私は。
自分にも分らなかった。
後押しするように自分の無力さを痛感させられて、それでもまだ一歩すら踏み出せずにいるのは…………。
「『ごめん、私もトイレ行ってくるから先に中入っといて』」
突如、である。
私の意思とは関係なく勝手に動き出した手を口元に当てようとすると、その手さえも手のひらを彼女たちの方に向けて振ってしまった。
かと思うと、私は糸で引っ張られたかのように強引に転回し、来た道を戻っていく。
誰の仕業かは分かり切っている。銀が私の体に憑依しているのだ。
しかし、何のつもりでこんなことを……。
「外のトイレは使わないようにね。駒場はどこに出没するか分からないんだから」
背後で智の声が聞こえ、ドアが開閉する音を聞くとやっと動きは止まった。
私は綱引きで相手が急に手を離したかのように慣性でつんのめり、数歩躓きながらようやく静止する。
『……どういうつもり?』
どこへともなく私は問いかけた。
すると銀は梯子の奥の暗闇から、神妙な顔つきでぬるりと出現する。やはり正体は彼女だった。
「どういうつもりも何も、それはあなたの方でしょ。まさかあのまま黙って立ち止まってるつもりでもなかったろうに」
「……それは、そうだけど」
「今のあなたの心境、余さず解説してあげる」
銀は突如のままにそう宣言すると、問答無用に語りだした。
「あなたは今、皆に付き合ったことを打ち明けるかどうかで迷いに迷っている。そしてその迷いは、左右揃った天秤のようにちょうど均衡状態だ。だから進退窮まっていたわけだね」
「……」
「そしてこの場合、問題なのは「なぜ進まなかったのか」ではなく、「なぜ退かなかったのか」だ」
銀は一歩近づきながら言う。
「なぜ管理室に進まなかったのかは分かり切ってる。そんなの、独立同盟と絶交したくないから以外にないからね。それがあなたの本心だ。でも、退かなかった理由は何かな。言葉を換えるなら、あなたが頑なに付き合った報告をしようとする世にも恥ずかしい動機とは何だろう。あなたは最後の最後まで言わなかったから、もう言ってしまうけど」
「……」
「それは、自分だけ恋人を作るのが【後ろめたい行為なんじゃないか】とあなたは思っていたからなんだよ」
ああ、とうとう言われてしまった。
顔が熱くなるのを感じる。実際、彼女の目から見ても私は赤面していただろう。
しかし、彼女の饒舌はまだ止まらなかった。
「あなたは他の皆が、実は恋人を作りたいんじゃないかって勝手にシンパシーを感じていたんだ。それを独立同盟の理念が邪魔して好きに付き合えないんだって信じ切って、そんな中で自分だけが理念を破って落合君と付き合うことに罪悪感を覚えたんだよ。そして、その罪悪感から解放されるために、つまり罪人が犯罪を自白するのと同じ心理で、カミングアウトをしようとしたんだよね」
「…………」
「でも、真相は違った。例えばネオは、小学校の低学年の頃から今日に至るまで恋人を作ろうとしたことがない、確固たる信念の持ち主だった。独立同盟が出来るよりずっと前から、独立同盟の理念を守って生きてきたわけだ。そんな崇高な人間で独立同盟が構成されているということを改めて痛感させられたんだから、むしろ自分の浅はかな信念が恥ずかしくなって打ち明けにくくなったんだよ。それが今のあなたの心理状態だ」
幽体は息継ぎをしない。
間を開けず、ひたすらに詰るような口調で、その言葉は一息に吐かれた。
ただ、もし彼女が間を取りながら途切れ途切れに喋ったのだとしても、私はその隙間に言葉を挟むことが出来なかっただろう。
全て図星だったからだ。
反論の余地がない。
ホコリで汚れた金網の上でなければぐしゃりと膝を着いたかもしれないぐらい、私はすっかり参ってしまっていた。
「分かってくれてると思うけど、そして繰り返すようだけど、私はあなたをいじめたいわけじゃないんだよ。ただ提案したいことがあって、こうして出てきたんだから」
しかし、彼女のその一言で私は項垂れた頭をハッと持ち上げ、そして傾げることになった。
提案とはなんだ。
頼みでも脅しでもなく、提案。
双方に利益のある計画…………その方法はパッと思いつかなかったのだが。
銀は私が何か言うまでもなく、提案を口に出した。
「一旦、独立同盟からは距離を置いて、落合君を捜索することに尽力しない?」
「……え?」
「不謹慎な話だけど、もし独立同盟に落合君と付き合ったことをカミングアウトして、そのあと落合君が永遠に見つからなかったら最悪でしょ。友達も恋人も失って、得るものは何一つないんだから。順序を逆にしようよ。交際のカミングアウトは、落合君が見つかった後でもいいじゃん」
「……でも、告白を受け容れたのは事実だし」
「だから独立同盟に対して後ろめたいってこと?」
銀はもう一歩詰め寄って言う。
気圧されて閉口していると、銀は両手を腰に当てて下から私を睨みつけた。
「あのさ、正直な話あなたが後ろめたさを感じる理由なんてある? あなた付き合ってから落合君と恋人らしいこと一回もしてないじゃん。付き合ってから幸せだった、って思えるようなイベントはまだ一つも経験してないでしょ。友達を差し置いて自分一人だけ恋愛生活を謳歌してるとかならまだしも、今の不幸せなあなたが皆に対して後ろめたさを覚える道理はこれっぽっちもないと思うんだけど。告白だって自分からしたわけじゃないんだしさ」
「……でも」
「でも、何?」
銀はほぼ触れ合う寸前まで詰め寄ってくる。
私は閉口した。
だが、この閉口は彼女に気圧されたからではなかった。
とりあえず口で否定してみたものの、頭で考えても反論の余地はなかったのだ。
「そろそろ気付いたでしょ、先に落合君を探す意義に」
「意義……」
銀は二歩後ろに下がり、腕を抱える。
「つまり、いくら探しても落合君が見つからなかった場合だよ。その時はもう落合君との交際は無効になってるんだから、今まで通り独立同盟とつるめばいい。いつまでも居ない人間に思いを馳せながら、身近な人間を蔑ろにするのは人生を雑に消費しすぎだからね」
あんまりな言い方だ、とは思ったが、それが彼女の立場からした率直な言葉なのだろう。
彼女にとって大切なのは独立同盟との関係であり、落合君の安否ではない。恋人でもないただの他人なのだからそれはそうだ。
しかし、その提案は全く逆の立場である私にも利益のある誘いだった。
提案したからには銀も落合君を探す手助けをしてくれるということだし、幽体というアプローチで探索できる人間がいるのは心強い。ここに来て落合君発見の光は見えたように思えた。
だが、その提案は魅力的であると同時に、矛盾したものでもあった。
「うん、分かった。とりあえず落合君を探すことにするよ」
私は彼女の提案に賛同し、続けてこう言ったのである。
「でも、落合君が見つかったらその時はどうするの?」
銀は何も返事をしない。
腕を抱えて無言のまま、私の瞳を見つめる。
そうなのだ。
この提案は結果によって、どちらの利益に転ぶかが変わる。
落合君が見つからなければ銀は独立同盟と絶交せずにすむが、もし見つかれば私が落合君との交際を続行し、銀は絶交しなければならないという選択肢が浮上するのだ。
落合君が生還した場合、どうやってお互いの主張に決着をつけるつもりなのか。
それを知りたかったのだが。
「ノーコメント」
あろうことか銀はそう言い残し、手すりに飛び乗るとそのままの勢いで地獄回りして落下したのだ。勿論、落下音はいつまで経っても聞こえてこない。
……先延ばしか。
まあ、いずれにせよすることは変わらない。ここまで来たら落合君を探し当てるのみだろう。
なんとなく、私はその場で額に手を当ててみる。
すると、微熱ぐらいの熱があった。今朝からの疲労は、着々と私の脳をむしばんでいるらしい。
ならば、なおさら足踏みしていてはいけないな。
まだ体調がマシな内に行こう。事態は緊迫しているのだ。
私はレジ袋を腕にかけ、梯子を下りて舞台に降りると靴を脱ぐ。
後でスマホを見たら怒涛の通知が届いてるんだろうな。今は持ってないけど、教室から取ってきたらしばらくオフにしといた方が良いかもしれない。
寂しいのは間違いないが、通知が来ていることを毎回認識しておきながら無視するよりはマシだ……。
などと考えながらコートを横断している時、私は玄関に居た「それ」に気が付いて歩みを止めた。
遠目で見ても分かるほど身長は高く、黒のタートルネック越しでも分かるほど体格はしっかりしている。
下はベージュのパンツを履いていて、革靴は光沢のない焦げ茶色をしており、服装だけ見ると落ち着いた配色である。教師と言われても違和感はない。
だが、首から上の印象が異彩を放っていた。
まず際立つことには横を刈り上げた金髪のおかっぱ頭であり、染め直していないのか上半分は黒髪になっている。
そして黒いマスクで顔を隠していて、おかっぱ頭との間から覗いている両目は何重か分からないほどに弛んでいた。
どこかで見たような、と思うと同時に、一目見たら絶対に忘れるはずがないほどに人相が悪いとも思ったので、私はますます混乱する。
裏口とかあったかな。
なるべくあの人とは関わらないまま立ち去ってしまいたい。もし先生だとしても、勝手に体育館に入ったことを怒られるだろうし。
しかし、どうやら先生ではなかったようだ。
彼は不良生徒である私を見ても声を荒げず、澱んだ目でまっすぐ私を見ながら土足のままコートに侵入し、私の四メートルほど前で立ち止まるとぶっきらぼうにこう言ったのだから。
「お前、死ぬのを怖いと思ったことはあるか」