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学校(8)

 四時間目の授業が終わると、まず私は財布から千円を抜き出して購買に向かう。

 購買は一階の下駄箱のすぐ隣にあって、私は列に並びながら台の上に置かれたパンを五個手に取ると、レジのおばちゃんに渡して会計を済ませる。パンはレジ袋に入れてもらった。

 そして私はパンを持ったまま下駄箱に戻り、ローファーに履き替えて玄関を出る。

 智が円陣で出した作戦はこうだった。

 まず、ネオは授業が終わると一人で教室を出る。

 それを駒場君が尾行してくるだろうから、その隙に私はネオと自分の昼ご飯を買って、体育館に向かう。

 そしてネオを除く全員が体育館に入ったであろう頃合いを見計らって、ネオは全力疾走で駒場君を振り切り、体育館に逃げ込む。

 これによって駒場君は私たちの居場所を見失い途方に暮れるだろう、という作戦だった。

 果たして、うまいこと引っ掛かってくれるだろうか。

 私は念のため左右を確認しながら移動し、体育館の玄関に入ると靴を脱ぐ。

 レジ袋とは逆の手に靴を持ち、靴下でコートを横断するが人は誰も居なかった。

 そもそも体育館は自由利用できない施設なのだから当然といえば当然だ。誰かが合鍵でも持っていない限りは、生徒は中に入ることさえ出来ないのである。

 すなわちその体育館が開いていたということは、智は既に奥にいるのだろうし遊もいることだろう。

 今思うと、私は智のピッキングに引いてたけど勝手に合鍵作る方が犯罪的だよな。

 いや、最初は引いてたんだっけ。それも今や懐かしいけど。

 私は階段を上って舞台に立ち、そのまま舞台袖に入る。

 改めて周囲に誰も居ないことを確認すると私はローファーを履いて鉄製の梯子を上り、配管や鉄骨が剥き出しの舞台裏に到達すると、落下防止用の手すりに手を掛けた。

 この金網のような通路をまっすぐに行くと、プレハブ小屋らしき外観の薄青い部屋がある。

 窓は一つだけあるがカーテンで遮られており、一見すると何をする空間か分からない部屋。

 その正体は体育館の管理室であり、今回の待ち合わせ場所だった。

 体育館の幕や照明、スクリーンなどあらゆる設備を管理する部屋であり、生徒は特例でもない限り立ち入り禁止の部屋。

 あそこで昼食を囲んだことは一度や二度ではない。侵入方法は言わずもがな智の合鍵だ。

 さて、その管理室と私を結ぶ、赤茶けた金網の通路。

 その落下防止用手すりに腰掛けていたのは、髪を後ろで括った一葉銀だった。

「よ、久しぶり」

「……気になってたんだけど、その姿って他の人には見えるの? 今のところ銀の姿を見たのは私しかいないと思うけど」

 私は控えめな声で彼女に尋ねる。

 今そこのドアから智や遊が現れたらどうするつもりなのだ、という含みを込めて言った。

「他の人には見えないようにしてるよ。今わたしの姿が見えているのはあなただけ。つまり、今のあなたは傍から見れば独り言をしてるように見えるだろうね」

「……私を辱めてまでしたい話があるってこと?」

 銀は足をぶらぶらさせながら「そうだよ」と口元だけ笑った。

 目は笑っていない。

 真剣な話であることは、その目を見れば明らかだ。

 そして、その話の内容を私は知っていた。

「本当にそうかな」

 銀は据わった眼で私をまじまじと見る。

「大して何も分かってないから、ノコノコ管理室まで来たんでしょ。躊躇する素振りなんて欠片も見せずに。本当、自分の分身ながらあまりの浅薄さに呆れるよ。ビンタ出来ないのが惜しいね」

「……」

 私は黙って警戒した。

 体が無いとはいっても憑依が出来るのは実証済みだ。腹いせに乗り移られて変なことでもされては困る。

「そんなことしないよ。話がある、って言ったでしょ」

 銀は私の思考を読んで、口にも出していない話に返事をする。

「話があるならさっさとしてよ。そのうちネオもここに来るんだから」

「ここにいる限りはそうなるだろうね」

 銀は意味深なようで当然のことを言いつつ、幼稚園児になぞなぞを出すようなイントネーションでこう続けた。

「あなたはなんにも分かっていないようだから、話を始める前に予備知識のおさらいから始めるね。まず第一門。独立同盟とはどういう理念の下に集まった組織でしょうか?」

「……第一問ってことは、第二問とか第三問もあるの?」

「それはあなたの解答次第かな。浅はかさ次第とも言えるけど」

「……【絶対に浮気をしない】って理念、でしょ」

「正解。よく知ってたね」

 からかうように銀は目を細める。

「というのも、独立同盟はその全員が「他人と仲良くすること」について過剰なほど警戒しないといけない事情があるんだよね。例えば智と遊はお互いを家族以上に好き合っている、友達というよりは恋人に近い関係性だから他人に浮気するのは言語道断だし、ネオの場合はそもそも誰か一人を好きになるっていう行為自体が平等主義と矛盾してしまうから誰とも付き合えない。いずれにせよ共通している理念は、絶対に新しく恋人を作らないっていう点だ」

「……」

 絶対に恋人を作らない。

 作っては、いけない。

「ここで問題なのは、なぜ独立同盟がそれぞれ仲良くし合っているのかということだよね。智と遊の場合なら交友関係は二人だけで完結させておいた方が安全だし、ネオの場合なら友達を作らず、全員と同級生でいた方が平等主義は貫き易そうなものだ。そうだな、じゃあこれを第二問にしようか。他人と仲良くなることに警戒する独立同盟のメンバーは、なぜあえてその人間同士で接触するのでしょう」

「……他人と一線を引くことを肝に銘じている同士なら、安心して接することが出来るから」

「正解。調子いいね」

 調子に乗ってるね、と聞こえてしまうような声音で彼女は言う。

「ただ、それは消極的な理由であって、なぜあえてっていう質問の答えではないかな。補足すると、最適解は「理念が共通してるから」だと思うよ。同じ考えを持つ者同士は惹かれあうもんね。特にその理念に対する意識が高いほど、共感は共鳴しやすい」

「……」

「では、最終問題」

 銀は手すりから飛び降りて、金網の上で手を後ろに組んで立つ。

「一葉杏子は、なぜ独立同盟を破棄されそうな状況下にあるのでしょうか?」

「……銀が幽体離脱して、一葉姉妹が同一人物であり続けることが困難になったから」

「違う」

 銀は首も振らず、まっすぐに否定した。

「そもそも一葉姉妹が絶対に浮気をしないっていう理念をどういう理由で掲げているのかという話だけど、それは【同一人物でありながら誰か一人を愛するのは不可能】だからなんだよね。考えてみれば単純な話で、もし二人が一人の人間を取り合うことになったとしても相手はどちらか一人しか選べないわけだから、その時点で「付き合った側」と「付き合わなかった側」で人格が分裂するよねっていうのと、もし私たちの片方だけが誰かと好きになって付き合ったら、やっぱりその時点で「付き合った側」と「付き合わなかった側」で人格が分裂するから、つまるところ同一人物に恋人を作ることは不可能なんだよ。で、私の幽体離脱はこの理念とは無関係だ。究極、幽体離脱によって同一人物を継続するのが困難になったところで、その問題は幽体離脱を解消すれば解消されるんだし。だから、私が聞きたいのはそれ以外の解答だよ」

 反論の余地を一切許さない、理屈で固められた言葉。

 淡々としているようで畳みかけることはなく、言い聞かせるようなテンポ。

 一歩も近づいていないのに、行き止まりまで追い詰められているような気分だった。

「いつまで黙ってるのかな。そのうちネオが来るんだからさっさとして、とか言ったのはあなたでしょ」

 銀はなおも私を責め立てる。

 プレッシャーに屈し、とうとう観念して、私は懺悔するように言った。

「落合君の告白を、受け容れたから」

「及第点。模範解答は「落合君に浮気した」、だ」

 銀は一歩近づきながら言う。

「私というものがありながら、一葉姉妹のことをまるで理解していない赤の他人に浮気したというその浅はかさを独立同盟に知られたら、彼女たちは一葉杏子のことを警戒して同盟を破棄するだろうというのが、ごく簡単で当然の予測。あなたは知らなかったみたいだけどね」

「……」

「あのさ、なんで落合君のことまで言うつもりだったの?」

 彼女は作り笑いを解除する。

 その裏側にあったのは、能面のような無表情だった。

「あなたが聞かれてるのは私が欠席した理由だけなんだから、落合君と付き合ったことまで話さなくていいじゃん。聞かれてもないことわざわざ言って自滅する意味は何? 聞かれたらその時に答える、では駄目なの?」

「……わざわざ聞かなくても知ってるでしょ? 心読めるんだから」

「うん、知ってるよ。でも、どんな顔引っ提げてそんなこと言えるのかは、実際に話してもらわないと分からない」

「…………」

「私だって、八つ当たりであなたのこと責めてるわけじゃないんだよ」

 銀はその話をする時だけ、ふっと呆れたような表情になった。

「でも、自分の立場になって考えてみてよ。私はあなたが勝手に付き合って勝手に報告するせいで、何もしてないのに独立同盟を破棄される立場なんだよ。つまり、あなたの身勝手な行動が過ぎたからこうして頭に血を上らせながら出てきたわけ」

 すると一拍の溜め息をつき、口から息を吸い上げる頃には元の能面顔に戻っていた。

「それをあなたは、開き直ったみたいに「わざわざ聞かなくても知ってるでしょ」って、聞かずとも分かることをあえて聞かれている理由すら考えようとしない。それとも、私のことなんて考えたくもないのかな。自分のやりたいことにことごとく反発する、邪魔な存在としか考えてなかったんだ。そのくせ自分の頭痛が酷くなったら代役押し付けて引っ込んだり、本当都合いいよね」

「分かった」

 私は辛抱堪らなくなって、彼女の長台詞に割って入った。

「言うから。言うからもう勘弁して」

 それを受けると銀は口を真一文字にして、ただ私の瞳を無言で睨みつけた。

 ただ焚きつけるためだけの演説だったのだろう。その切り上げはあまりにも潔いものだった。

 だが、目論見通りだとしてもどうだっていい。

 これは思考を整理するための自己満足で、それを銀はたまたま聞いているだけだ。そう自分に言い聞かせて、私は言った。

「元々、私は独立同盟から見放されても仕方ないっていう覚悟で落合君の告白を受け容れたんだよ。独立同盟の理念はその時も忘れてなかったし、知っていながら破った。でもそれは智とか遊とかネオのことを蔑ろにしてるんじゃなくて、落合君が私にとって唯一無二だったからなんだよ。理解者、って言い方をなぞるなら、落合君は私たち以上に私たちのことを理解出来る、他に掛け替えのないたった一人の存在だった。その証拠に」

「【一葉杏子にだけ告白した】、でしょ」

 銀は最後まで黙ってはくれなかった。

 どころか、鼻で笑って後に続ける。

「興奮したい気持ちは分かるよ。自分一人だけが告白されたってことは、一葉姉妹を同一人物としてではなく個々人として見なされたってことだもんね。それはつまり、一葉銀と一葉杏子の間に本人でさえ気付かないような違いを発見したってことかもしれないし、言い換えれば「自分以上に自分のことを知っている一番の理解者」だと思い違っても無理はない」

「思い違いなんかじゃ」

「思い違いなんだよ。ノロケはやめて」

 銀はハエでも払うようにうんざりした顔で手を振りながら言う。

「ていうか、あなた私の質問理解してる? 私が聞いてるのは、なんであなたが落合君の告白を受け容れたのかじゃなくて、なぜそれをわざわざ独立同盟に報告するんだってことなんだけど」

「それは……」

 私は口ごもる。

 知られていることは分かっても、自分の口からそんな子供のようなアイデアを出すことが酷く気恥ずかしかったのだ。

 私自身が一人でそのアイデアを抱えている分には良い。

 だが、それを否定される前提で表に出すということがどうしても出来なかった。

「めんどくさいなぁ。もういいよ」

 銀は呆れたように顎を上げ、腕を抱える。

「そんなに言うのが恥ずかしいなら私の口から言ってあげる。でもその方が恥ずかしいと思うけどね。なんせ、どれだけ別人だと主張しようが私たちは双子に変わりないんだから。自分がそんなこっばずかしいアイデアを語れば傍からどう見えるか、私が実践してあげる」

「……」

「じゃあ、言うよ」

 銀は私と同じ立ち姿になる。

 同じ表情にコピーし、髪型以外は全く私と同じになった。

「一葉杏子は、自分だけが理念に…………」

 ここで彼女は、不自然に言葉を区切る。

 私の反応を見ている、という風でもない。その視線は私にではなく、金網の下に向けられていたのだ。

『ごめん。また後で』

 かと思うと、彼女は落下防止用の手すりを飛び越えて舞台に飛び降りてしまった。

 私は驚きながら手すりに掴まり彼女の名前を呼ぶが、しかしその姿はどこにも見えず、落下した音も聞こえなかった。

 それはそうだ。彼女は幽体の身なのだから、落下で衝撃を食らうはずがない。

 つい慌ててしまったなと思いつつ、そこでやっと私は彼女が退場した理由を納得した。

 耳を正面ではなく、下に向ける。

 すると、梯子の方からカンカンという金属の音が上ってくるのに今更ながら気付いたのだった。

 誰かが上ってくる。

 私は振り返った。

 その正体は、謂わずと知れたネオだった。

 梯子を上り切った彼女は、私に気付くと「待っててくれたのか」と近づいてくる。

「……まあ、そんなところ」

 私は一拍置いて誤魔化しつつ、「頼まれてたやつ」と言ってレジ袋の中からパンを三個取り出す。

 まさか今の今まで、あなたたちと絶交するかしないかを姉と議論してましたなんて言えないよなと思いながら。

「ありがとう。カツサンドと焼きそばパンとカレーパンか」

「甘いのもあった方が良いかなって思ったけど、食べてるイメージ無かったから。大丈夫だった?」

 代金の三百円を貰いながら私は尋ねる。購買のパンは百円均一なので勘定で揉めることはない。

 尋ねられたネオは既に焼きそばパンを口に含みながら、「甘味はおやつの時間に食うと習慣付けられてるからいいよ」と口元を抑えつつ言った。

「放課後に食べるんだ」

「そうなるかな。部活前とも言える」

「……駒場君はどうだった? 逃げきれた?」

「見ての通りだ。あいつでは私に息を上がらせることも出来ない」

 言われてみればそうだった。

 彼女は全く息が乱れていないどころか、汗すらかいていないように見える。

「流石だね。ちなみにどうやって逃げてきたの?」

「なんてことはない。裏門から外に出て、学校の周りを軽くランニングしながら半周して振り切っただけだ。正門をくぐるころには、あいつの姿は見えなくなっていた」

「軽いランニング」

「向こうは全力疾走だったろうがな。午後からの授業に障らなければいいが」

「今日って午後から体育あったっけ?」

「A組はないよ。つまり授業中に昼寝するやつがいるとしたら、それは駒場しかいないだろうぜ。ざまあないな」

「……そうだね」

 私が返すと、ネオは高い背を曲げて私と目線の高さを合わせると心配そうにこう言った。

「どうした。気分でも悪いのか? 声に張りがない気がするが」

 そりゃあ、張りも無くなるだろう。

 独立同盟との関係を解消する覚悟をして、今から実行に移そうというのだから。

 どんな顔をして、どう接すればいいのか迷子になってしまったのだ。

「いや、気のせいだよ。私は平気だから」

「あまり無理するなよ。最近は冷え込んできたからな。風邪にでもなれば大変だ」

 ネオはそう言って私の肩をさすった。

 そうされた瞬間、私は色々とこみ上げてくるものがあって喉が縮こまってしまったので、口は開かずに「うん」と唸るように頷いた。

 我ながら情けない。

 何が覚悟だろうか。私は彼女から優しくされない未来に、酷く怯えてしまっているではないか。

 こうなるのなら、A組に入ったすぐ落合君と付き合ったことをカミングアウトすればよかった。

 そうすればただ侮蔑されて、罵声を浴びながら絶交できただろうに。

 私はこれから、ネオの優しさを頭の片隅に留めたまま失望されるのである。

 それは耐え難い予想だった。

「よし、じゃあ管理室に行こうか。あそこの中の方が、ここよりは暖かいだろう。智と遊も先に入ってるだろうしな」

 ネオはそう言いつつ、私の横を通り過ぎる。

 だが、私はそれについていかなかった。

 彼女は四歩も歩かないうちに振り返って、「どうしたんだ」と私の背に問いかける。

 しかし数歩歩くと振り返って、どうしたんだと私の背に問いかける。

「ちょっと聞きたいことあるんだけど、いいかな」

 私は振り向きつつ、ネオにそう問いかけた。

 彼女は目を丸くさせ、「聞きたいこと?」と繰り返す。

 私は引き留めておきながら、すぐには質問を口に出せなかった。

 本当のところ、私が彼女に聞きたいのは、私が恋人を作ってしまったことを許せるかどうかであった。

 独立同盟の理念に反し、浮気者のレッテルを貼られてもなお今まで通りに接してくれるかどうかを、浅ましいと思いながら聞かずにはいられなかった。

 彼女から友達のように、優しく心配されたからだ。

 ただし、それをそのまま聞くのは怖くて出来なかったのである。

 そして逡巡の末、私は遠回しにこう質問することにしたのだった。

「ネオは、その……平等主義を諦めてまで、誰かと付き合いたいって思ったこと、ない?」

 もし、これで「付き合いたいと思ったことがある」と言ってくれれば、いくらか気分は楽だ。

 それはつまり、自分の主義や同盟の理念よりも恋愛を取りたい瞬間があったということだし、自分がそうなら私の報告に対しても強くは言えないだろうと期待したのだ。

 そして、あわよくば独立同盟自体は解散して、これからはただの友達として関わっていこうという方向に話を持っていけないものかとも考えていた。

 本当に虫けらのように惨めな発想で、少しでも気を抜けば顔から火を噴いてしまいそうだったが、今だけは厚顔無恥のフリをするしかない。

 ここでの後悔は、一生をかけて引きずるだろうから。

「露ほども思ったことはないな」

 だが、ネオの返答は取り付く島もない言い草だった。

 腕を組み、素っ気なく言うその瞳の奥には、何物にも染まらない黒々とした瞳孔が覗いている。

 私は一転して、急激に顔が冷たくなった。

 そこまで明確に突っぱねられるとは、平等主義に対して並々ならぬ感情がある以外に、何か意図があるのではと勘繰ったからだ。

 例えば、私の質問から「一葉杏子に彼氏が出来た」ことを推測したか、とか。

 私がおどおどしていると、ネオは続ける。

「私は平等主義でも掲げていないと、本来街中を歩いていいような存在ではないんだ。人というよりは畜生に近い、それが私。だから、恋愛なぞのために私の主義を捻じ曲げるわけにはいかないんだよ。自分で自分の鎖を噛み千切るようでは、いよいよ畜生だろうしな」

 私はひとまず安心した。

 どうやら彼女は私を責め立てるつもりで、露ほどもなどという言葉を選んだわけではないらしく、ただ自分の意志の固さを表現するためにそう言ったらしい。

 だが、手放しに安心できないのも一つの側面である。

 ネオの主張からすれば、彼女の立場は私が交際したことについて糾弾する側にいることは変わらないのだから。

 清廉潔白な立場から、浮気者の私を批判する権利が彼女には十分にあるのである。

 ただし、これまでの苦悩とは別に、私には気になることがあった。

「街中を歩いていい存在ではないって、どういう意味?」

 私は疑問のままに尋ねる。

 その自己紹介は、今までの彼女の言動からは全く的外れであるように思えたからだ。

「言葉通りだよ。私は平等主義を意識する以前、おじいちゃんの葬式を滅茶苦茶に破壊してしまったという、非人道的な経歴があるんだ」

「……葬式を、破壊?」

「言ったことはなかったかな」

「うん……、差し支えなければでいいけど、何が起きたのか教えてもらってもいい?」

 私はこの時だけは独立同盟のあれこれを忘れて、彼女に尋ねた。

「気になるか」

「うん。だって、その事件はネオの思想に関係するんでしょ?」

 ネオは私の頭の上あたりをぼんやり眺めていたかと思うと、「うん」と視線を落とし、私に目を合わせると自虐的にこう言った。

「なら話しておこうか。畜生を扱う人間が畜生の性質を理解していないのは、いささか不親切だろうからな」



「まず前提として、私は両親が敬虔(けいけん)なクリスチャンだ」

「遠遠家自体は仏教の家系だが、私の両親とその間に生まれた私、そして姉の四人だけが遠遠家一族のキリスト教徒ということになるかな」

「それが問題だった」

「おじいちゃんの葬儀があったのは、私が小学校低学年の時だった」

「当時の私は、キリスト教徒でありながらキリスト教に触れることはほとんどなかった」

「というのは、両親は自分たちの意志でキリスト教に入信した身であり、自分たちの娘に対しても自分の意志で宗教を選ばせたいという意向があったらしい」

「放任主義とでもいうのかな。うちは何に対してもそうだった」

「すなわち、私たちはキリスト教徒の下に産まれたために一応はキリスト教徒という扱いにはなっているのだろうが、幼児洗礼を受けたわけでもなければ教会に踏み入れたこともない、いわゆるそこらの無神論者と大差なかったのだ」

「責任転嫁したいわけじゃないが、それが事件発生の原因の一端だった」

「彼らは私にキリスト教を強制しない代わりに、仏教についても教えなかったのだ」

「バイアスになると考えたんだろうな。宗教家である両親は、逆に宗教については積極的に教えてくれなかったんだよ」

「殊に葬式に関しては、全くと言っていいほど教わったことがなかった」

「そんな人間が突然、葬式に連れ出されたらどうなるのか……という話では、しかし終わらない」

「原因のもう一端は、環境にあった」

「両親は私にキリスト教を強制はしなかったが、自分たちが家で儀式をするところや聖書を読む様子まで私に隠そうとはしなかった」

「スピリチュアルに対して疑いを持たず、むしろ信じ切る姿」

「私はそれを見ているうちに、キリスト教のことはぼんやりとしか理解しないまま「スピリチュアルは疑うべき存在ではない」という要素だけを学習していった」

「中学に上がるまで私はサンタクロースが実在すると思っていたし、川底には本当に河童が存在すると疑わなかったし、神に祈った願いは叶うと信じていたのだ」

「このようにして、スピリチュアルを盲目的に信じる一方で宗教をまるで知らない、夢見がちな幼少期の私が完成したというわけだ」

「そして、事件発生の最たる原因だが、これは両親や宗教、環境とは全く関係ないものだった」

「それは、私自身の潜在的な凶暴性だ」

「潜在的にということは事件まで顕在化していなかったということだが、まあいい加減話が長くなってしまったから端的に言おう」

「私はおじいちゃんの葬式を見たとき、それが死んだ後の儀式ではなく、殺している最中の儀式だと誤認したんだ」

「一つ目の原因、葬式に関する知識の欠如だな」

「そして、私は知らない親戚連中やお坊さんの黒衣を見て、彼らのことを死神だと誤認した」

「これは二つ目の原因、スピリチュアルの信望による倒錯であることは言わずもがなだ」

「そして第三の原因、私自身の潜在的な凶暴性」

「野性」

「闘争本能」

「そういったものが私の理性を吹き飛ばし、悪しき死神どもを成敗しておじいちゃんを死の淵から呼び戻すべく、私の体を突き動かしたのだ」

「すなわち、私は親が制止するのも振り切り、参列者がどよめくのもお構いなしにお坊さんに接近して、その後頭部を思い切り蹴飛ばしたんだよ」

「お坊さんが死神の代表格だと思ってな」

「全く、目も当てられない狼藉だよ」

「そうしたら一瞬の静寂があったあと、親族が全員で私のことを絶叫しながら組み伏せようとしてきた」

「それまで私は、ただ暴力を振るいたいために暴力を振るったのではなくて、私にとっては崇高な一つの確固たる意志によってお坊さんを蹴り飛ばしていた」

「だが次から次へと押し寄せてくる黒衣の参列者を相手している時の私は、そんな意志などとっくに忘れ、自分の内側からほとばしる野性のままに暴れていたのだ」

「目に映るもの全て破壊したいという、畜生の(さが)

「もはや私は人ではなくなっていた」

「その野性を、父さんと母さんは宗教で封じた」

「すなわち、キリスト教式の博愛主義によって、私の見境なさはそのままに、行動のベクトルを変えようとしたのだ」

「それを自分なりにアレンジし、丁度よい妥協点を探り当てた成果物が今日に至るまでの私の平等主義ということになる」

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