夢水槽
その日、僕は空気と一緒に掬われた。両手で、まるで水を掬うみたいにして。
空気の丸い大きな塊の中で僕は浮いていた。中を覗き込むのは巨大な猫で、きっとそれがこの前まで家の前にやってきていた野良猫なんだろうと想像できた。
そいつのでこには三日月大きな傷があったし、耳はレーダーみたいにピンと立っていた。こいつはどこから来たんだろうと思っていた僕は冷蔵庫からソーセージをちょいと盗んでそいつにあげたんだ。
少しあげたらもっと甘えて欲しがると思いきや、その猫はたった一口食べると、ふん!と鼻をならしてそそくさと帰っていった。どこかで飼われていたんだろうか。いや、きっとそうじゃない。なんたってそいつは首輪もなければシャンプーの匂いだってしなかった。身体中何か分からない汚れがまとわりついていたし、独特の臭いもしていた。
今僕を両手ですくいあげているこの猫は、まるで巨人にでもなったみたいに大きかった。
僕は手足をばたつかせながら、視界のほとんどを占める巨大な猫の顔に向けて声を上げた。
「大きくなったね」
そう言うと、猫は驚いたように目をぱちくりさせた。
「お前が小さいんだろ。それにここに来ちゃうなんてな。ここはお前が生きられない世界なのに」
「え?でも僕ここにいるよ?」
「あのな、それはこの空気を俺様が捕まえてやってるからだぞ。この空気がなくなっちゃお前は生きていけない」
「君は生きてるのに?」
そう言うと、猫はまた驚いて瞬きした。そうして肩を揺らしながらくっくっくと笑った。
「仕方ない俺様が教えてやろう。お前は夢の中を流されてきたんだ。俺様達はこうやって猫の姿をしているが、知っているか?猫は魔女の使いなのだ。猫はそれはもう誇り高いし力もあるし気品もあって素晴らしいものなのだ」
「でも、シャンプーしてないよね」
猫は目を細めて空気の球の中で浮いている僕を睨み付けた。
「猫は綺麗好きだし元から綺麗だから人間のシャンプーなんていらんのだ。ほら、よく聞いておけよ。お前は夢の中を流されて、この夢水槽まで来たんだよ。この水槽には毎日たくさんのものが流れてきて、俺様達はその中でも素晴らしいものを選んでプレゼントすることで気に入られるのさ」
「そうなんだ。でも、どうして僕はこんなところに来ちゃったの?」
そこまで言うと、猫は少し困った顔をした。
「僕は帰れるの?」
猫はうーんと唸った。
「あら、お前どうしたの?」
急に女の人の声がしたかと思うと、僕を捕まえていた空気の塊が大きく揺れた。どうやら猫が驚いたらしい。猫はすぐに僕を背中に隠した。
「あ、ま、魔女様!きょ、きょきょきょ今日はお早いお帰りで!」
球の端まで泳いでいくと、優しい目で猫を見る綺麗な女の人がそこにはいた。とんがった帽子に、魔法のステッキ、キラキラした服を着て、絵本で読んだことがある魔女の姿そのものだった。
「今日はどんなものが夢水槽に流れ着いているのかしら」
と、魔女様は笑いながら何かを覗き込む。それはさっきまで気づかなかったけれど、大きな透明の水槽だった。中には星が光っていて、まるでその水槽は水を貯める代わりに宇宙を貯めているみたいだった。
「うわぁ!キラキラしてる!すごいね!」
思わずそういった僕は、しゃがんで中を覗いていた魔女様と目があった。
「あら、なんでこんなところに人間がいるのかしら」
先程まで優しい顔をしていた魔女様は急に険しい顔つきに変わった。猫は毛を逆立てながら、慌てて僕の入った空気の球を魔女様の前に差し出して何とか言葉を繋ごうとする。
「ち、ちちちち違うんです魔女様!実は今日、夢水槽を見てみたらこの人間が中に入ってたんです!」
魔女様は僕に近づいてじっと目を細めて見ている。
「ふーん。人間ってやっぱりなんでもかんでも捨てるのね」
猫の心臓の音がやけに大きく聞こえてきて、僕は他人事みたいに猫が緊張してるんだなぁと思った。
「大きくなった人間ってやっぱり嫌いだわ」
と魔女様は言うけれど、今僕は五歳とかそのくらいだし、どこからが大きくなった人間なのかは分からない。でも、どうしても気になって僕は1つ質問した。
「僕って帰れるの?」
その問いに、魔女様は猫と顔を見合わせた。
「あなた、まだ帰りたいの?」
僕は頷いた。
「きっとそろそろ帰らないとお母さんが晩ごはんの時間なのに僕がいないと大騒ぎするだろうし、お父さんだって仕事から帰ってきてお迎えがないと寂しがるだろうし、友達だって僕と一緒に遊ぶのを楽しみにしている」
この綺麗な水槽はずっと見ていたいけれど、それでもずっとここにいることはできない。
そう言うと、魔女様は急に悲しい顔をした。
「人の子供、よくお聞きなさい。この夢水槽にはね、夢だったものや、大切だったものが流れ着くの。現実世界で失われたものだけがこの夢水槽の中に流れ着くの。私はこの夢達をすくいとって、また別の空っぽの誰かにプレゼントするのがお役目なのよ」
「どういうこと?」
「ほら、小さい子供ってたくさん夢を持つだろう?傘で空を飛びたいとか、ヒーローになりたいとか。そういうものは大きくなると少しずつ現実世界には無くなってここに流れ着いてくるのさ。俺様達は人が捨てた夢や希望を、新しい命にプレゼントするのがお役目なんだよ」
僕は少し考えてから二人に言った。
「じゃあ、僕にはお母さんもお父さんも友達もいないの?」
魔女様は首を横に振った。
「いないんじゃない。ここにいるんだから、お前は失ってしまったのさ。今思い描いている温かい家族も、友達も、今持っている純粋な目も、今持っているものは何一つ現実世界にはない。つまり、今のお前は現実世界で失ったものでできているってことだ」
そこまで猫が言うと、魔女様は悲しげな顔をした。
「たくさんの夢を、たくさんの温もりを、あなたは失ってここに来たの」
「僕って帰れないの?」
「一度ここに来た夢は次の命にプレゼントするのがしきたりなのよ。ごめんなさい」
猫は僕の入った空気の球を渡そうとしたが、魔女様の手に触れる寸前で引っ込めた。
「しきたりなのは分かってるんです!ここに来ちゃったんだから、もうダメだってことは分かってるんです!でも魔女様、こいつは俺にソーセージをくれたんだ!俺にはその恩があるんだ!どうか、どうか、もう一度チャンスをあげてやれないですか?本当にもうダメですか?俺、こいつに何もしてあげられませんか?」
猫はまるで洪水でも起こすみたいに大粒の涙を落としながら魔女様に言った。鼻水や涙が空気の球を伝って揺れている。その猫の顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。尻尾は力なく垂れ下がって、肩を落として、まるで小さな子供がお母さんに泣きついているように見えた。
魔女様は猫の頭を優しく撫でてやると、僕を見た。
「いいでしょう。一度だけ、あなたを元の世界に戻してあげます。けれど、またあなたがここに来たらそのときはもう戻してあげられません」
猫はその言葉を聞くと、わんわん泣きじゃくって魔女様にお礼を言った。
「なんで、こんなに夢があったのに!あったのに!」
魔女様は猫の背中をさすってやりながら僕に言った。
「ここでの事はあなたは忘れてしまうでしょう。でも、この言葉だけは持ってゆきなさい」
あなたはーー。
僕は目が覚めると泣いていた。なぜ泣いているのかよく分からない。散らかった部屋の中、油性ペンで書きなぐられた教科書が積まれ、何日も開けていないせいか部屋の空気は淀んでいた。高校の制服はシワだらけで投げ捨てられて、部屋にはカップ麺の空き容器が散乱していた。
昨日とさして変わらない日常に戻ってきた。誰もいない家。携帯に入った大量の暴言メール。
僕はゆらりと立ち上がって、投げ捨てられていた制服を手に取った。ぼろぼろになった上履きを見た。そうして僕は崩れるようにその場に座り込んだ。ぎゅうっと制服を抱き締めると、枯れたはずの涙が数年ぶりに溢れだしてくるのを感じた。
あなたはあなたを大切になさい。それだけでいいのよ
誰かが言ったその言葉が僕の心のなかになぜか残っていた。