手紙 弐
右手で鞘を掴み、左手で柄を握る。
朱色に染まった鞘は艶消しが施されている。
柄には朱色の柄糸が巻かれている。
紅十文字虎月。
二十三代続いている虎月一族が打った名刀。
刀装をばらすと現れる赤き【十】の文字。
二十二代目の打った至高の剣。
少年の瞳が刀身に映る。
贈られてから早くも一月。
少年はこの刀をなかなか手入れできずにいた。
この刀を抜くことすらできなかった。
あの光景が甦りそうで怖かった。
その恐れが紅十文字を名刀から妖刀へと堕落させてしまうかもしれない。持ち主の負の感情が多ければ多いほど、憎しみや悲しみが強ければ強いほど、刀は意思を汲み取るとされていた。自分の思いが、悲しみが、憎しみが伝染る。
そう思っていた。
覚悟を決めて少年は刀の手入れを開始する。
ついに【十】の文字をこの目に検めた。
口から零れ出る婚約者の名前。
【十】の文字に降りかかる一滴。
柄に巻かれるべき和紙を手にした時の違和感。
静かに丁寧に解かれ広がる小さな文字の世界。
見慣れたはずの文体。
少年は泣いた。
―――――
「……ときわ……きょうのすけ……さ、ま」
顔を上げたシュレイアの目と京之助の目は互いを捕捉した。驚愕の色に染まっているシュレイアを置いて京之助は説明を始める。
「ああ、俺の名前だ。みんな言いにくそうにするんだよ。ひどいもんさ。オークって言ったっけ? あの種類のお化けの……えっと、ゾゴルなんとか騎士団長? あの人が俺の名前をね、トキワキョウ・ノスケ殿とかトキワキョ殿とか言うんだ。あの手のお仲間さんみんなちゃんと発音できないみたいだったから『キョウ』と呼んでくれって。それで定着した感じだな。こっちの世界の人間からもちゃんと呼んではもらえないんだ。いちいち訂正するのもめんどくさいから、この世界ではキョウで通そうかと思ってるんだ。どう思う? それにさ……」
自分の名前の事でオークを非難しながら、騎士団長の名前を覚えていない杜撰な男。性懲りもなくオークをお化けと断ずる当たり、手遅れ間の残る残念侍である。
シュレイアの返事はない。ちらりと横目で覗いてみたもののすでに続きを読んでいるようだ。独り言になっていた自分が恥ずかしくなったのか頭を掻く。蒼の着物の男はそそくさと自分の刀の手入れを始めることにした。ふと気になってハーフエルフに目を向けると。
彼女は泣いていた。
そして彼女は一人考える。
最初に流れた涙の意味は……。
多幸感溢れる内容にか? まさか。
これは遺品だと言っていなかったか。
目の前の彼はあの世界で一人残されたのか。
涙の意味は後から後から加算されていく。
読めば読むほど、進めば進むほど流れ出る滴。
果たせなかった筆者の挑戦。
生きて伝わらなかった大きな想い。
掴めなかった未来。
涙で滲んだ文字。
初めてこれを読んだ時の彼の絶望感はいかばかりか。
苦しくて胸を押さえる。最後まで読まなければならない。自分が望んだ事ではないか。薄っぺらい義務感ではない。読まなければならないものだと心と頭と本能がシュレイアを突き動かしていた。
ついに文章は最後に差しかかる。
「……さいとう……ことの?」
この手紙はおかしかった。最初からおかしかったのだ。常盤京之助という名前に衝撃を受けた。知っているはずの名前。その文字列とその字面。口にするたびに胸を満たす幸福感。思い出せた自分の過去の名前。なぜ忘れていたのだろう。思えばここで出会ったときにも兆しはあった。初めて会った時、お互いに久しぶりに会った気がしていた不思議な感覚。
だが、まだ何かが足りなかった。シュレイアは歯噛みする。
「京、読ませてくれてありがとう」
京之助は驚いた。京という発音が耳慣れた響きだったから。さっきまでキョウと発音されたそれとは違う哀愁の響き。待ち焦がれ、渇望していた絆の声音。
「貴方はどれほど辛かったのだろうね……想像もできないよ」
俯いたときに跳ねた涙の滴が手紙に吸い込まれていった。
それはなんとも幻想的な光景を二人にもたらす。
涙を受けた和紙が光輝いた刹那、手紙の文字が列を成し、光ながら飛び出してきたのだ。
光り輝く文字は一度天井まで高く上がった。
そして弧を描く。
円を作るように周った文字列は螺旋を形成してハーフエルフを目指し降りてくる。
前略という先頭の文字を皮切りに文字列は全てシュレイアの額に入り込んでいった。一文字一文字が額に触れると光を増した。
“追伸”がシュレイアに斎藤琴乃の最後の記憶を埋める。
絶望に至った最後の足掻き。
決して諦めなかった琴乃の執念。
何度も謝りながらゆっくり閉ざされていく視界。
そして紅十文字が見せてくれた自身の死後の京之助の涙。
ハーフエルフは泣くために部屋を後にした。バラされただけに終わった彼女の作業の続きは当然のことながら刀の持ち主にゆだねられるのだった。




