それは初めての
弓弦を引き絞る少女の顔はどこか緊張を貼り付けていた。ピンと伸ばした背中とまっすぐに的へと向ける左手の拳はしっかりと弓を握りしめている。放たれた矢は的へ到達する前に軌道を下へと向けて壁に刺さった。
「ため息をそんなに漏らすと幸福が帰ってこなくなるよ」
既に不幸である前提で話す少女の師匠もさることながら、黒の袴を着こなす豪胆な少女もまたやり返す。
「お師匠様の幸薄さにあてられたのかもしれません」
「まったくこの子の減らず口ときたら……」
難攻不落の都、名京内の西にある剣術道場には、その敷地内に弓道場が併設されている。少女は齢八歳から通い出しては剣の道を歩んでいた。正確には別の流派の剣の道だ。幼い頃から慣れ親しんだ剣術への自信は、とある少年の成長により砕かれ今に至る。時折彼女が弓を手にするのも、気分を変えるのに役立っていた。彼の少年は今頃は個人鍛錬の時間だろうかと思いを馳せる。
いつか必ず再戦を。
少女は前を向いて矢を射た。
矢は放物線を綺麗に描いて地面にめり込んだ。
そっと肩をすぼめた大人のため息は少女には聞こえなかった。
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月の灯が日の出を待つ村を明るく照らしている。風が吹いては竹の揺れる爽やかな音がこの村を包んだ。獣人の各家の一室には光を大きく取り入れる窓がある。しかし、そこには障子もなければ雨戸もなく入りたい放題だ。私生活がダダ漏れの環境だが、秘密を持たない彼らの生き方は、この小さな村を家族として一致させる絆の強さをよく表している。誰にも見えなくする工夫はもちろんあるのだが、概ねあけっぴろげだ。
そんな一部屋で、綺麗に磨かれた木の刀を矯めつ眇めつ見ては置き、感嘆のため息を吐いては自画自賛を繰り返す、傍目に気持ち悪い笑みを浮かべる青い着物の男がいるのだが、彼はご満悦だ。その完成度に。その滑らかさに。その美しさに。しかし、彼の美学に反する一工夫がその三本には施されている。柄頭から二寸ほど魔物の革を巻いたのだ。訓練の際に狐耳の可愛い弟子たちが、よく手を滑らせてすっぽ抜けさせてしまう。故に彼は滑り止めを施した。もちろん彼自身が使うものは至って素朴なものに仕上げているので革は巻いてなどいない。
にわかに明るくなってきた外を見やり京之介は腰を上げる。そろそろ眠気眼の“三匹”がやってくる頃だ。最後の朝の訓練になる。思えば彼らは本当に真面目に取り組んできた。大人たちも感心するほどで、村の強者たちは自分たちに追いつくのではないかと少し焦りを感じているらしい。子どもたちの成長速度がこの村の竹のように著しく伸びているからだ。ぼんやり虚空を見つめていると足早に近づいてくる音を耳が拾う。「師匠!」と声を上げてやってきたのは少年サグヌだ。木刀が完成することを楽しみにしていた彼は、ワクワクした様子で息を切らせている。
「おはよう、サグヌ。早いな」
「えへへ……それで、師匠。完成したんですか?」
見透かされたことを悟ってかサグヌは笑いつつごまかしながらも本題に入った。それを受けて京之介も微笑みつつ頷く。キラキラした瞳に苦笑を禁じ得ないが、この完成品を共に喜んでくれる同士は貴重だ、と京之介は思っている。
「フフフ、サグヌ。目をかっぽじって見るといい」
幾分自慢げな態度も今のサグヌには心地よい期待感を煽っていた。手渡されたそれを見て少年はさらに目を大きく開けた。
「かっこいい……」
感慨に耽っている少年の姿は、かつて刀を授与された喜びを噛み締めたときの自分を思い出させてくれるものだった。しかし同時に苦い思い出も蘇る。すぐに頭を振ることで嫌な思い出を追い出し、少年の方を見た。サグヌは木刀の作りを色々な角度から観察しては感嘆の息を吐いている。
「サグヌ、それは君にあげよう。見本にするといい」
「ほんとっ!?」
「……作りたいんだろう?」
「うん!」
サグヌが一番に来たのにはわけがあった。彼は手先が器用で、木刀作りを心底楽しんでいる。それで彼のためだけに鍔付き、鍔止め付き、鞘付きの木刀を用意していた。作り方もしっかり見せていたが、まさか完成品が自分のものになるとは思ってもいなかっただろう。それは自分のものだと言い続けていた言葉からも察せられるのかもしれない。木刀の作者はこの完全なる作品を少年に手渡すために朝早くから呼び出していたのだ。
「それでな、サグヌ」
「うん」
「鞘は一つしか無いから、後の二つはお前が作ってやるといい」
「??」
「……ああ。この二本な、フグツとリグラにもあげるんだ」
「そうなのっ!? わかった! 立派なのを作れるようになる」
新たな目標を見つけた少年の目は着物の男にとってとても眩しいものだった。最後の目標を遂げることができずにこの場所、この世界に立つ男にとって、少年の輝いた目はとてもうらやましいものに見える。しかし彼はふと思った。復讐を遂げたあとの自分は一体何に向かって生きていくのだろうと。随分物思いに耽った感覚があったが、袖をサグヌに引っ張られることで我に返った京之介は狐耳の少年に目を向けた。
「師匠、僕のだけ立派なのもらって、すごくまずい気がする」
「それもそうだな……じゃあ、これ、鍔っていうんだが、外し方を教えとこう。あいつらが来たらただの木刀だけにしとこうか」
「うん」
「これ、内緒な」
「わかった!」
男と男の約束だ、と拳を合わせて二人は笑う。秘密を共有する友というのはなんだかんんだとワクワクするものだな、などと少年じみた考えが浮かんで、京之介はこの世界へやってきてから初めて人とのふれあいに心から安堵した。まさか妖狐との間に友情が生まれるとは思ってなかったが、というおまけの感想が彼の内面の残念さを少々追加していた。
「そうだ、サグヌに頼みがあるんだ」
「何?」
首を傾けて尋ねる幼狐に男は続ける。
「木工の職人になったら……本物の方の刀のな、鞘を作ってくれないか?」
「……うん」
サグヌは嬉しくなった。師匠が自分の武器の鞘作りを任せてくれるというのだ。もちろん今ではないのは承知だが、こんなに嬉しいことはない。
こうして異人種間の堅い約束がなされた。
訓練の時間が近づくにつれて後の二人も揃いだす。彼らの師匠は二人にも木刀を手渡して授与すると大いに驚かれた。あのドケチな師匠が、というフグツの台詞は語尾まで到達することなく拳骨で沈められることになったのは仕方のないことである。二人は自分のものとなった木刀を、喜びを噛みしめるような表情で抱きかかえた。同時に疑問も口から出る。
「あんなに“自分の私物”ってこだわってたのにどうして、くれるんですか?」
拳骨を警戒してか丁寧な口調で一歩下がってから聞いたリグラに対して京之介は物を大事にする事の大切さを教えるためだったと、いけしゃあしゃあと宣った。
訓練が開始されて暫く経つと、村の入口がにわかに騒がしくなっていることに全員が気付き始める。
「何かあったようだな」
「見てきましょうか?」
訓練中は丁寧な口調を強要されている三人はとうとう敬語に慣れてきていた。その言葉に対して彼らの理不尽な師匠は鷹揚に頷こうとしてやめた。
「いや、休憩がてらみんなで行こうか」
「「はいっ!」」
休憩と聞いて元気になる三人に苦笑を返してみんなで村の入口へと歩き出す。騒ぎを聞きつけた住民の殆どは入り口に向かっていた。「やぁ、キョウ様も見に行くのかい」「ええ、まぁ」なんて話し合いながら、村民たちと足並みを揃える。
「なんだとっ……」
驚愕に目を向いた京之介がそこで見たものは……。
“それは初めての”人間だった。
普通の。
豚や猪の顔でもなく、狐や狸の耳を拵えていない、普通の人。
この世界へやってきて初めて見る同種の。
女は白を基調とした質の良さそうな上着(軍服)に身を包み、黒い幅のない袴を履いていた。
嬉しくなったが、周りの反応は違った。敵意をあからさまに向けるもの。恐怖に震えるもの。冷たい目を向けながらも事情を知ろうとしているもの。大人の影に隠れる子どもたち。弟子たちも京之介の後ろへ控えた。
京之介は狼狽した。この視線はなんだろう。人へ向ける憎悪の念の強さといったら半端ではないものがある。自分のときもこうだったか? いや、違ったはずだ。違いを考えるとすぐにわかった。皮肉にも物の怪達に連れられていたのが自分だ。彼らは自分のことを警戒してはいたが、捕虜かなにかなどと思われていたはずだ。オークたちも“人族”といってはじめは警戒していたのだ。ここへ来てようやく人間と妖怪たちとの間にある確執を知るに至る。もっとも、彼らは種族であって妖怪や化物ではないのだが、京之介の思考を止められるものはいない。尋常でない様子を目にした着物の男は静観することにした。自分がしゃしゃり出てかき回すのもどうかと思ったからだ。その判断は正しかったようで、場が動き出す。
「して、人族が我が同胞を盾にして、いか用か」
幾分冷たい物言いをする村長の声が聞こえる程度の場所に陣取った京之介は人族と言われたその女を、格好は男のものであったがその麗人を観察した。赤い髪を後ろで括り、裾や袖が破けた後が数多く見られる。森を駆け抜けてできたであろう傷が、少しはだけた二の腕に線を作っていた。
「わが主をお救いいただきたく」
そう言って男装の麗人は跪く。その隣には着物の男には犬か狼かはたまた猫か、判別がつかないが獣の耳を持つ十歳くらいの獣人の少女が佇んでいる。そして。
「お願いみんな! この人の言うことを聞いてあげて! あたし、この人と、男の人に助けられたの」
ざわざわと困惑が広がり、動けないでいる周りと、反応を待って、やはり動けない跪く女の焦りの様子が目についた。拳はわずかに握られて震えている。“はやくっ”と言う気持ちが見て取れたが、獣人たちは決断ができないでいた。痺れを切らせた侍はついに動き出す。
「どこに行けばいい? 案内は頼めるか? 動けないなら方角だけでも……」
「行けますっ」
男装の麗人も京之介を見て驚いた顔を見せたが、決断は一瞬だった。もう一秒も待っていられなかった。すぐに踵を返すも少しよろける。
「行けますっ」
女は同じ言葉を繰り返すことで、大丈夫だと伝えた。自分に向けられた心配をぶった斬る。強い思いを宿した目を内に滾らせる相手に対して京之介も無言で頷くと並走し始めた。
「キョウ殿っ」
遅れる周りの反応に苦笑しながらも左手を少しあげるだけで答えてやり過ごした竹細工師の姿はもう村の入口を過ぎていた。
男装の麗人は必死の形相だった。主を思ってか、自分の怪我を我慢してか、焦りが彼女を支配している。よろめいては踏ん張り、足を必死で前に向けていた。
「ちょっと、失礼……乗って」
京之介は女の前に出ると背中を差し出した。
「何を……」
「いや、おんぶ」
一瞬何を言われているかわからなかった女は少しだけ頬を染めたが首を振る。顔は見えなかったが否定の空気を感じた京之介はにべもなく続けた。
「お前、遅いから……早く」
「ク……」
羞恥の気持ちを押し殺して現実を飲み込んだ女の判断は後で英断だとわかるのだが、それはほんの少し先だ。おんぶされた女の足は傷や腫れが目立っていた。恥ずかしさを堪えて女は指先を前方に向ける。
「あの大きな木を斜右へ」
「わかった」
女はおぶされていたが、万全な状態の自分の速度より速いことに気がついた。そして、この男の焦りにも。なぜ自分と同じようにこの男にも焦りがにじみ出ているのだろう。そんな感想を抱いた。
ようやくたどり着いたそこには壮絶な戦いの後と、角のある大男と対峙してバスタードを構えて立つ、騎士然とした男の姿があった。
お読みいただきありがとうございました。




