あわや人魚の目を潰すところ
うちに居候している人魚が、最近しきりに目が乾くという。
「四六時中水に浸かっていながら、目が乾くも何もないんじゃないかね」
「水中ではゲームができませんもの。それに、あなたとのお喋りも」
私より先に携帯ゲームが口に上ったのにはこの際目をつむろう。ただ、如何ともしがたく溜め息は漏れた。
「あなたが防水仕様のスマートフォンなど買い与えるから悪いのです」
人魚が他人事のようになじった。
「それなら私がしばらく預かっておこうか」
言うなり人魚は浴槽のふちに寝かせていた携帯をさっとつかんで水に逃げ込んだ。
「こら、渡しなさい」
濡れた肌は滑らかな膜をはったように私の手をすり抜ける。狭い湯船の中をよくもこう器用に逃げ回るものだ。
私が根負けしたときには、肘までぐっしょりと袖の色が変わっていた。人魚はたゆたう髪の間から上目遣いに私をうかがう。目が合う。ゆらりと人魚が肩から上を水面に出した。頬を膨らませてぷうっと水を私に吹きかけ、声をあげて笑う。
「そんな子供じみた真似を──」
言い終える前に第二撃がきた。
「しょうのない河豚め」
再び浴槽に沈まれる。浮き広がる髪を捕まえられればこっちのものだ。そう考えた矢先に白い二本の腕が伸びてきた。ざぶりと躍りあがる若い女の上半身。
人魚は私の首に腕を絡めて、冷たい唇を押しつけてきた。濡れた柔らかさを私の心に刺して離れる。
「ねえ、お願い……、聞いてくださいますわね?」
ぬるい水がシャツを越えて胸にじっとりと浸みた。
こうした経緯で、数えるほどにしか訪れたことのない近所のドラッグストアに足を踏み入れることとなった。
食品や日用品も扱って、まるでスーパーマーケットの亜種といった様子だが、消毒薬じみたようなワックスのような無機質なにおいがある。知らず知らずに歯医者を連想したのか奥歯が疼いた。
さっさと用を片付けてしまおうと棚の案内表示を見て回る。ほどなくしておあつらえ向きの品を見つけた。小さくとも独立したコーナーが作られているところを見ると、私と似た境遇の者は想像以上に多いのかもしれない。
私はその薬を一箱買い求めてその場を退散した。
人魚は片手に携帯を持ち、片手で浴槽のへりに頬杖をついていた。
「わたくし、魚じゃありませんことよ」
私の説明に唇をとがらせて拗ねてみせる。
「仕方がないだろう。人魚向けというものは見つからなかった」
私は箱を開けて、薬の染み込んだ絆創膏を一枚取り出した。成る程、通常の目薬であれば注しても流れてしまうに違いない。水棲生物に適した工夫があるものだと感心させられた。
「ほら、使いなさい」
差し出した目の前で人魚は一度水に潜る。
「手が濡れてしまっていけませんわ。あなた貼ってくださいな」
身を乗りだす彼女の髪から顎から雫が滴った。乾いて困るというその瞳は大きくきらきらと瞬いている。
「わかった、わかったから待っていなさい」
太陽に干したタオルを持ってきて目元の水気を拭ってやる。垂れてこようとする前髪も耳元に撫でつけた。
小作りで端正な顔は私の手の中にじっとしている。虹色に輝く魚の尾が揺れて美しい水紋を描いた。
柔肌の上に貼った絆創膏は妙に赤黒く見えた。灯火に覆いをかぶせたような心持ちがした。
「さあ、これでいいだろう」
「妙にひりひりと染みるものですのね」
人魚は苛々と首を振る。
「薬が効いているのだろう。しばらく辛抱していなさい、そっちが快くなったらもう一方にも貼ってあげるから」
気に入らないのか、返事はなかった。
絆創膏の残りを片付ける前に、何の気なしに能書きに目を遣った。直後、私は自分の過ちに気付いた。
慌てて彼女の目から薬を引き剥がす。
「痛いっ」と叫んで人魚は湯船の底に身を縮めた。盛んに吐かれる小さなあぶくが不服を語っている。
私は水面すれすれに顔を近付けて弁解した。
「すまない、すっかり私の勘違いだ。魚だのタコだの書かれていたから。わかるだろう。ね」
人魚の見上げる目つきが私を責める。彼女が何も言わない分、私は躍起になって言葉を繋いだ。
「すぐに違う薬を買ってくるから。今度はきちんと普通の目薬を、だよ。それにこれだって全くの役立たずというわけじゃない。ほら君、たとえば君が足に合わない靴を履いて遠出したときなんか──」
虹色の尾がぎらりとひらめいた。海の中ならばさぞかし強くしなやかに水を掻くのだろう。人魚は溜まっていた水を大量に蹴飛ばして浴槽に引きこもった。
余すところなくずぶ濡れになり間抜けに立ち尽くす私の踵に、何かが触れた。見れば剥がしたばかりの魚の目治療用貼り薬が、こちらもよれよれの濡れ鼠になって、排水口に飲みこまれようとしているところだった。




