エピローグ「朱赤の竜」
原題:最終話”Cinnabar” 「朱赤の竜」
(一)
二〇一三年。テラスの二人を、田中が呼んだ。
「清牙、朝ご飯出来たよ。麻咲さんもどうぞ」
「すまないな」
二人は開店した店内で、客に混じって朝食を摂りながら、昔話を続けた。
「それから暫く、お前の顔を見なかったが、どうしてたんだ?」
「神宮寺が言っていた、新しく生まれるオロチについて調べ回っていた」
「あの後、京都ホラーハンターの存在意義は我々にも認められ、その同盟が実現したんだ。復興したばかりのこの店で、同盟締結の祝賀会が催されたが、お前は来なかった。私には、お前がそのときどこにいたのかが、ピンと来た」
(二)
二〇〇六年の五月。
相浜は祝賀会を早引けし、ワインのボトルを片手に、滋賀県の、ある場所へと赴いた。現在は廃屋と化している、麻咲家であった。
そこは、麻咲にとって生家であり、相浜にとっては修行の地であった。だから、こここそ、麻咲にとって、「伝統主義と個人主義の和解の祝賀会」に相応しい場所だろうと考えたのだ。
中に入ると、奥から人影が現れた。麻咲であった。
「やはり来ていたな」
「東京に帰る前に、戻っておきたくてね。なぜか親父と逢える気がしてね」
相浜は麻咲にワインの瓶を見せた。
「お前とどうしてもこの瓶を開けたかった」
ラベルには1994と印刷されている。
「ヴィンテージとしては若いがな」
相浜は得意げに言った。
「何の年か分かるか」
「俺が家を出た年だ」
相浜は唇の片端を上げると、台所から持ち出した二つのグラスにワインを注いだ。
「本当はお前を倒した時の為にとっておいたんだ」
相浜の目線が麻咲の目に向かった。そしてその唇が言葉を発した。
「乾杯しよう」
麻咲の顔にも、自然に笑みが表れた。二人は椅子に腰を下ろした。二人はグラスを手に取り、乾杯をした。
麻咲の唇が力強く言った。
「俺は今夜、親父と逢えた気がする」
相浜は、涙に喘ぎつつ、やっとのことで言葉を返した。
「私は今宵、師匠に逢えたのだ」
(三)
二〇一三年。二人は話しながら、朝食を摂り終えた。
「普段酒など飲み慣れない私は、結局、酔い潰れて眠ってしまった。目が覚めると、お前の姿はもうなかったな。後で文通でお前から聞いた話によると、あの後、お前はついにオロチの誕生を阻止したそうじゃないか」
麻咲は、一瞬間をおいて、「ああ」と答えた。
「結局、オロチとは何だったんだ?」
麻咲は、溜息を吐きながら言った。
「つまらないものさ」
と。
二人は、キンメイチクを後にした。
二人は握手を交わし、再会を誓い合い、それぞれの道を歩み始めた。
麻咲は、一人歩きながら、考えた。
オロチの正体・・・
つまらないもの?
いや、違う・・・。
(オロチ。それは、ある意味、俺自身だったのだ)
麻咲の心は、再び、二〇〇六年の五月に飛んだ。
(四)
二〇〇六年。滋賀の麻咲家に、朝が訪れた。
相浜は机に伏せて眠っていたが、麻咲は起きていた。そしてその顔には、ある決意が込められていのだ。
麻咲は一人家を後にした。そして言い放った。
「来たな」
彼にそう言われたのは、神宮寺だった。
「あなたなら気付いていると思ってたわ」
麻咲は険しい表情で返した。
「覚悟は出来ているようだな、オロチ」
二人の間に沈黙が流れた。やがて、神宮寺の方から口を開いた。
「信楽が倒したオロチは、未来から来たオロチ」
「そしてあんたは、もともとこの時間にいたオロチに憑依されていた」
「オロチが憑依する対象は、『宿命を捻じ曲げることへの欲求』なの。私はこの時代に来て、歴史を書き変えたいと願った。栄山イチロウが死なずに済むように。オロチは、最初から私の闇に気付いていた。だから、私を新しいオロチの誕生の依り代に選んだの」
「いや、それは違う!」
麻咲は言った。
「本来、新オロチの依り代にされるのは、この俺のはずだったんだ。あんたは、それを防ぐために、自分から進んでオロチに憑依されたんだ。ヤマワラシとの戦いの、あの夜に!」
神宮寺は笑みを浮かべ、溜息を吐いた。
「そこまで見抜かれていたとはね」
「なぜだ。俺はあんたにとって、何者でもないのに!」
二人の間を、風が吹き抜けた。
神宮寺は、麻咲の目をしっかりと見据えた。
「あなたが、歴史の改変の余波で生まれたと気付いたとき、オロチはあなたを選ぶに違いないと気付いたわ。宿命に反して生まれて、しかも、己の運命を己の意志で切り拓くあなたは、当に恰好の餌食だと思ったの。だから私は、あなたがオロチになる前に、あなたを殺すつもりだった。でも、あなたの名前が『イチロウ』だと聞いた以上、それもできなくなって・・・」
「そのせいで、俺はあんたを倒さなくてはならない」
「怖くはないわ。だって私は、いずれ生まれるんですもの。オロチのいない、この世界に。そして何より、あなたに倒されるのだから」
麻咲は暫く、神宮寺の瞳を見つめた。見つめているうちに、彼女の目を見る度に感じる、あの謎の親近感が、またも湧き上がった。
「一つ訊きたい」
「言って」
「あんたに、人間の心は残っているのか」
暫しの沈黙の後、神宮寺の唇が動いた。
「菩薩峠の母を食らったのは、オロチよ」
彼女の意識は、既にオロチと渾然一体であったのだ。
「出来ることなら、あんたを助けたかった・・・」
神宮寺は、表情を険しくして言った。
「甘いわ!竜血旋士なら、情に流されないで」
麻咲はペンを構えた。
神宮寺は、腕を広げ、大の字になった。
ペンは麻咲の手を離れた。
・・・そして、神宮寺の体はペンに貫かれた。
麻咲は、神宮寺を抱き起こした。
そのとき麻咲は、あの謎の親近感の正体に気付いたのだ。
「俺はかつて、信じていた母親に裏切られた。それからずっと、母など要らないと思っていた。だが・・・何故かあんたが母親のように思えてた」
神宮寺はそれを聞くと、もはや何も言わず、優しい表情を浮かべ、目を閉じた。
それは、オロチと共に歴史を歪め、その余波として麻咲を生み出した女性であった。
そして、その身を犠牲にして麻咲を救った女性であった。
彼女は、麻咲が、嘗て母親に対して抱いていた幻想を、体現した女性であったのだ。
神宮寺は、光になって消えていった。
麻咲は、空虚になった両腕を見つめた。
その腕に、雫が落ちたのを見て、麻咲は自分の目から涙が流れたことに気付いた。
前世の因縁の地を旅行し、その苦しい記憶に向き合ったときにも流さなかった涙であった。
オロチが来た、異世界の未来におけるペンスピナーの名が、偶然にも同じイチロウであったと知り、失いかけていた己の存在意義が自覚されたときにも流さなかった涙であった。
相浜と和解し、伝統と意志の融和を互いに祝いあった、昨夜の酒の席でも流さなかった涙であった。
神宮寺が死んだ。神宮寺が来た未来も、歴史が書き変えられたことで、消えた。
それは、純然たる喪失の涙であったのだ。
麻咲は、袖で、涙を拭った。
(もう涙など流すまい。俺は希望の戦士だ。さあ行こう。俺を求めている場所へ)
彼は立ち上がった。
東京に向かい歩み始めた麻咲の顔に、胸に、全身に、決意は漲っていた。
行け!我らが救いの英雄よ!
我らの希望となる、巨大にして優美なる破壊者よ!
絶望を叩き斬れ、竜血旋士・麻咲イチロウ!
天高く昇りきった太陽の光は、彼を強烈に激励していたのであった!
ペンスピナー 麻咲イチロウの事件簿 オロチ編〈改〉 完
2013/12/05最終話起筆
2016/02/26プロローグ起筆
2016/03/20エピローグ改訂開始
2023/05/02本文手直し(セリフ以外)