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  作者: シュール
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俺様・・・ハローワークにて

          1

 十四年勤めた会社を辞めた。

 仕えた上司がみんなバカだった。五年前に親会社に吸収され訳の分からない人間がどんどんと上のポストに着き始めた。お荷物の事業部だったため次々と事業の規模が縮小され大阪の営業所が万博で元気づく名古屋営業所の傘下に下り閉鎖された。両親が偶然にも一年置きに同じ左脚の付け根にセラミックを埋める手術をして色違いの杖を突き始めた。等々いろいろあったが結局は、この俺様がこんなとこで終わるわけがない、が一番大きな理由だった。

 会議室に人が集まり始めた。

 辞めた会社に入社した時、総務課に配属され、社会保険を担当していた関係生まれて初めて行った職安と比較すると、建屋といい職員に女性が目立つことといいかなりイメージが変わり、名称もハローワークに変わったが、来ている人間は、十四年前と全く変わっておらず、輪郭になにか塵みたいなものが付着していた。

 説明会が始まった。

 首からIDカードをぶら下げた顔に締まりのない職員が、ビデオを交えいろいろと説明をする。

「自己都合で辞められた方の次の認定日は三カ月後の六月・・・」

 会社が倒産したり、リストラで解雇された人達はすぐに雇用保険が貰えるのに対し、自己都合、要は自分から自らの意志で会社を辞めたものは三カ月間受給が遅れるらしい。

 会社の倒産はしょうがないにしても、仕事ができなくて肩を叩かれた人間がどうして優遇されるのだろうか?。この国の法律はできない人間にどうして手を差し伸べるのだろうか?彼らは退職金にしても上増しをもらっているはずだ。こっちは、上増しなどもらっておらず、バブル全盛期に国立のK大学を卒業して、日本の会社ならどこへでも入れたのに、モノづくりの大切さを認識しているからこそメーカーに就職し、十四年間勤め、そして、いろいろと考えた末、自らの志を持って会社を辞めた、にもかかわらず待遇に差があるのは一体どういうことだ。

 雇用保険なんか恵んでもらうほど俺は情けない人間じゃないよ、と心の中で捨て台詞を吐いてハローワークを出た。


 約束の時間より十分早く到着すると、「あいにくまだ高木は会議中でして」といって五十歳くらいの女性が温かい緑茶を出してくれた。

 夕方の五時と言えば、辞めた会社なんかは電話が鳴り響きフロアー全体が騒然としていたものだったが、高木さんがT大学を卒業して昔の大蔵省で勤めた後天下った財団法人のフロアーは、正しく“静かな週末の午後”だった。

「すいません、お待たせしまして」

 高木さんは、両脇にたくさんの資料を抱え、五時ちょうどに俺の目の前に姿を現した。

「K大学の経営学部ですか、何人か私の友達にもいるんですよ」

 初対面の高木さんは、思っていたより年配だったが、グレーのスーツを品良く着こなし、とにかく背筋がすーっと伸びていた。

「前の会社はどうしてお辞めになったんですか?」

「まあ、いろんなことが重なったんですけど、元もと仕事にやりがいを感じてなかったのと、会社が合併しまして、事実上吸収されたんですけど、上にどんどん人が入ってきて、あっち行けこっち行けって飛ばされるようになって、こら完全に飼い殺しにされるなあ、辞めるんやったら四十なるまでに辞めんと次の会社探すのに苦労するなぁと思いまして思い切って辞めました」

 この時俺は、転職するのに支障がない年齢のリミットを四十歳だと考えていた。

「前の会社ではどれくらいお給料もらっていました?」

「年収で六百五十万円くらいです」

「退職金は?」

「三百万です。」

「それは高いんですか、安いんですか?」

「さあ、どうなんですかね」

 緑茶をすすった。

「食品メーカー、もしくはビールメーカーをご希望ということですよね」

「はい」

「なかなか、こういった消費財系は求人がないんですよね。特に関西は冷え切ってますから」

 今回の件は、義兄が心配して話を持ってきてくれた。

 三十八になった俺のことをいまだにカズ君と呼ぶ義兄は「カズ君の経歴だと職安でなんかきっとみつかんないよ」と言って高木さんを紹介してくれた。

「一部上場を含めた関西の企業ならほとんどの所は顔がきくから」

 義兄も大学を卒業した後、高木さんの紹介で関西の中小企業に入社し、今は東京進出を果たして入社時より売り上げが一桁伸びた会社の営業部長をしていた。

「前のお仕事の経験を活かすことは考えていらっしゃらないんですか?」

「ええ、できれば違った業種へいきたいと思ってますので」

 俺がそう言ったとき、「顧問、お電話が入っております」と、緑茶を入れてくれた女性が開け放しになった部屋の扉の前に現れた。

「ちょっと失礼します」

 高木さんはゆっくりと立ち上がると、デスクまで歩き、受話器をとった。

 俺はその間に、十個しか入っていないのに三千円もした和菓子の袋を女性に渡しにいった。

「皆さんで召し上がってください」

 女性は恐縮しながら、電話を掛けている高木さんに和菓子の袋を翳した。

「すいませんね、お気を使っていただいて。」

 テーブルに戻ってきた高木さんは目尻にしわを寄せた穏やかな笑顔を俺に向けた。

「お忙しそうなのでこれで失礼いたします」

 立ち上がった俺を高木さんは止めなかった。

「では、いろいろと当たってみますので」

 ほんまはもうどっか目星着けてんねんやろ、そう心の中で一人ごちた俺は、大阪のど真中に立つ財団法人の建屋を後にした。


「どうやったん?」

 妻が聞いてきた。

「どうって、まああんなもんちゃうかなぁ。

 一カ月後にどっか一部上場の企業でも紹介してくれるんちゃうか。」

「あんた甘いで。

 バブルの時とは時代が違うんやで。

 今の学生なんか三回生の時から就職活動してるって言うてたで。

 それでもなかなか決らへんて」

「アホか。

 そんな学生はな、ほんまの大学生やないんや。

 今は子供の数が少ななったから、偏差値が四十や三十でもいくらでも入れる大学があるんや。

 俺らん時やったら、人に聞かれたら言うのんが恥ずかしいような大学でも堂々とコマーシャルを流して、また入った奴も胸張って私は大学生ですって言うてるやろ。

 そんな奴らがまともな企業に入れるわけないんや。あいつらが大学生の就職率を下げてるんや」

「そうかなあ。

 今はどこの大学を出てるんやなくて、持ってる資格がもの言うんちゃうの。

 あんた、英語もしゃべられへんし、持ってる言うたら車の免許だけやんか。

 中途採用やねんから言うてみたら企業としては即戦力を期待してんねんやろ」

「アホか、人間は総合力や。

 英語しゃべれても分数でけへん、人の目見てようしゃべられへん、そんな人間を企業はとるか?

 どんなアホな人間でも、大学や言いながら専門学校みたいに四年間英語ばっかり勉強して、半年や一年海外留学したら、片言の英語くらいしゃべれるようになるわ。

 そんな奴らに負けるわけないやないか。

 俺はK大学を出て、一部上場企業に就職して、十四年間ちゃんと働いたんや。何社も点々と会社を変わってきたわけやないんや。

 きれいな履歴書やで」

「まあ、それはそうやねんけど、時代がなあ・・・」


          2

 妻の予想は当たった。

 四月になっても五月になっても、そして、雇用保険の支給が始まる初めての失業認定日(あなたは間違いなく失業していますと認められる日)の六月の最後の金曜日になっても、高木さんからの電話はなかった。

「ほらな、私の言うた通りやんか」

 妻が、晩御飯の定番になりつつあった野菜炒めに次いで昼御飯の定番になりつつあったカップラーメンにお湯を注ぎながら言った。

「アホか。

 高木さんわな、俺の経歴と照らし合わせて、しょうもない会社紹介したら失礼にあたるなと思って、慎重になってはんねや。

 分数でけへん学卒やったらどこでもええわで済むけど、K大学出たエリートにはそんなことでけへんと、あの人自身もエリートやからその辺はわかりはるんや」

「はいはい、エリートの話はようわかったから、早よ食べて行ってきい。貰えるもんも貰われへんようになるで」

「雇用保険なんかまさか貰うなんて夢にも思わんかったわ。ほんま、屈辱や」

 俺の本心だった。


 指定時間ぎりぎりにハローワークに入ると、フロアーには三十人くらいの受給者が国からの“お恵み”を待っていた。

「山田一男さん」

 水槽の中で泳ぐ熱帯魚を擬似魚と間違えているのに気づいたとき、係の人に名前を呼ばれた。

「六月十六日から六月二十四日までの九日分が支給されます。振込は約一週間後です。

 次回の認定日は七月の二十二日です。

 それまでに、最低二回の就職活動を行なってください」

 フロアーを一階下りると、百台くらいのデスクトップのパソコンがフロアー狭しと置かれていた。

 ここで職を探すと一回の就職活動と見なされます、と説明会で言われていた。

 百十三番の席は、高速道路が見える窓際の席だった。

 キーボードで条件をインプットする。

 正社員、営業職、三十八歳、月給三十五万円以上。

 画面に現れた会社は、住宅リフォーム関係と、生保、損保のファイナンシャルプランナー、要は保険の勧誘員で、学歴不問、やる気のある方歓迎、歩合制月百万円以上可、という会社ばかりだった。。

“K大学卒業”という紋所を翳し、毎日通勤するだけで月に三十五万円くれる会社などどこにもなかった。

 やっぱり義理兄が言う通り、俺の経歴に合った会社などここには無いんだと諦めかけていたとき、最後のページの一行に目が止まった。

“大輝セミナー”

 弁護士や税理士、また国家公務員を目指す人の為の予備校だった。

“幹部候補生募集

  大卒以上 四十五歳位まで

   月給三十五万以上”

 画面をアウトプットすると、求人申し込みの窓口へ行った。

「山田さん、三人の募集に二十人が応募してきてるらしいんですけどどうされます?」

 係の人が電話を肩と耳の間に挟みながら聞いてきた。

「ええ、お願いします(どうせ大した人間なんか来てないと思いますので)」

 電話を切った係の人が、「この紹介状と履歴書を郵送してください。一週間くらいで書類選考の結果を連絡する言うてますので」と言った。

 帰り道、退職後すっかり移動の足と化した自転車を漕ぎながらもう一度求人票に目を通した。

“資本金 一億円 売上高 五十八億円 ”

 辞めた会社より二桁低かった。


「どれくらい貰えんのん?」

 リビングに入るとすぐに妻は聞いてきた。

「一回目は締めの関係でわずかや。

 九日分やから六万ちょっとや。一週間後に振り込まれるって」

「次からは正味貰えんのん?」

「おう。

 それでも十七、八万や。働いてたときの半分もないわ」

「ええやん、もらえるだけ。

 その間にちゃんと次見つけや」

「一つまあまあなんあったから一応申し込んできた。

 三人の募集に二十人きてんねんて」

「そんなん無理なんちがう」

「アホか。

 ハローワークに募集しに来る人間なんかロクな奴おるか。

 俺の履歴書送ってびっくりさせたろか。

 おい、履歴書ってどこで売ってんねん?」

「コンビにで売ってんのんちがう」

「写真も撮らなあかん。

 どっか知らんか」

「駅前に自動のやつあるわ」

「やっぱりスーツ着て撮らなあかんのかな?」

「当たり前やんか。

 アルバイトと違うんやで。」

「そうか。

 俺ら就職したときなんか履歴書なんか書かへんかったからな。

 手ぶらでいいですよ、とにかくお越しください、そんなんやったもんな」

「今は、整形する子もおるんやで、第一印象が大切やからいうて」

「女の子やろ?」

「何言うてんのん。

 男の子もするんやで」

「マジで!?

 みんな大変なんやな」

「みんなって、あんたもその中の一人やねんで」

「アホか。

 俺は、そんな奴らとは人間の次元が違うんや。

 会社に頭下げて、どうか入れてくださいって言うのは何の取り柄もない奴がすることなんや。

 見といてみ、履歴書が届くやいなや、どうかお会い頂けないでしょうかってすぐに電話掛かってくるわ」


 履歴書を送って三日後、本当に「是非お会いしたいのですが」と大輝セミナーから電話が掛かってきた。

「なっ、みてみいな。

 俺はただの失業者やないんや、格が違うんや」

 電話があった日の週末に大輝セミナーを訪れた。

 二百人くらいは入れるような大きな教室に、同じ歳くらいの男性が四人背を丸めて座っていた。

 みな、会社概要のパンフレットを真剣な面持ちで読んでいた。

(この程度の会社でそんな真剣になるなよ。)

 眼鏡を掛けた白髪のいかにも人の良さそうな男性が「お待たせいたしました」と言って教室に入ってきた。

「会社概要を簡単にお話した後、筆記試験を行ない、その後面接を行ないます」とその男性は言った。

 予備校を経営しながら、自然食品の販売も行なっていると聞いて不思議に思い、筆記試験で、“あいさつ”を漢字で書くことができず少しショックに思い、面接の順番が氏名のあいうえお順で一番最後だということがわかってうんざりとした。

 待っている間、アンケート用紙を一枚渡された。

“煙草を吸いますか?”

「はい」

“今すぐにやめることができますか?”

「いいえ」

“いいえ、と回答された方はなぜですか?”

「やめる必要が無いから」

 五回目の大きな欠伸をしたとき「山田様お待たせいたしました」と別室に通された。

 会社概要を説明してくれた男性と、彼より少し若い、髪を七三に分けた男性が目の前に座って俺の履歴書を見ていた。

(すごいやろ)

「K大学ですか・・・どうして前の会社をお辞めになったんですか?」

 七三の男性が柔和な笑顔を浮かべて聞いてきた。

「ええ、まあ、いろんなことが重なったんですけど、元もと仕事にやりがいを感じてなくて、そこに会社が合併しまして、事実上は吸収されたわけでして・・・・」

 高木さんへ答えたのと全く同じことを喋った。

 その後二人の男性は交互にいろんなことを聞いてきて、最後に、会社概要を説明してくれた年配のほうの男性が「煙草を吸われるんですよね」と聞いた。

「はい」

「禁煙するお考えとかは・・」

「今のところありません」

「弊社の社屋はすべて禁煙でしてそれをお守りすることは・・」

「ああ、それは大丈夫です。

 前の会社も全館禁煙でして、どうしても吸いたくなると、会社の前の横断歩道の信号機のたもとに置かれてあった灰皿まで走っていってましたから」

「そうですか、じゃあ大丈夫ですよね」

「はい」

「それでは、もし今日の結果ご縁がありましたら、最後に社長との面接を受けていただきますので、週明けまでにはお返事を差し上げます。今日はどうもご苦労様でした」


 週明けに、社長との面接に来るよう大輝セミナーから電話があった。

「なっ、みてみい。

 この程度の会社やったら百発百中なんや、俺の経歴やったら。

 もうこのままこの会社に入ろかな。

 また、いちいち面接受けたりすんのん面倒くさいしな」

「そうしいよ」

 妻は、朝刊と一緒に入っていた求人広告に目を通しながら言った。

「そうしよか、と、言いたいところやけど、俺様がこの程度の会社で働くのはプライドがなあ・・・。

 どうせ組合もないやろうし、有給休暇なんかとるのも一苦労しそうやし、ワンマンな社長に振り回されたりするのが目に見えてるからなあ」

「ええやん、ちょっとくらい辛抱したら。

 家のローンもあんねんから、もう決めてしもたら」

「まあ、その前に、高木さんに電話だけ入れとくわ。

 ちょっとはプレッシャー掛けとかんと、なかなか電話貰えそうにないからな」

 貰った名刺に書かれていた番号に掛けると女性が出てきた。

「どちらの山田様ですか?」「お勤め先はどちらですか?」「え、無職の方ですか?」

 義兄の名前と、辞めた会社名を言ってやっと高木さんにつないでもらえた。

「先日はどうもありがとうございました」

「あ、いえいえ」

「その後如何ですか?」

「あ、まだなんですよ」

「そうですか。

 いえ、私もちょっと時間が経ちましたんで、ハローワークで一社見つけてきまして、週末に最終面接にいくんです」

「あ、そうなんですか。

 じゃあ、見つかりましたらすぐにご連絡いたしますので」

 高木さんは忙しいのか、逃げるようにして電話を切った。

「高木さんも、俺の経歴に見合ったとこ紹介せなあかん思て苦労してはんねやろな」

「そうかなあ。

 ただ単に、捜してんねんけどほんまに見つかれへんかったりして」

「アホか。

 大輝セミナー程度の会社やったらあっと言う間に最終面接までいってるやないか。

 高木さんはな、そんな程度の会社やったら吐いて捨てるほど知ってるはずや。せやけどこの俺にはそんなとこ紹介でけへん。せめて一部上場の会社は紹介せなあかんいうて苦労してはると思うで。

 まあ、正式に大輝セミナーで内定貰ってから、今度は直接会うてくるわ。結構時間立ちましたしどうしましょって」

「そんなにうまくいくかぁ?

 それに、大輝セミナーかって、まだどうなるかわからんで。

 あんたみたいな態度やったら落とされるかもしれんで、こいつ生意気や言うて」

「アホか。

 もしあの程度の会社落ちたら、もう少し俺も謙虚な気持ちで就職活動に取り組むようにするわ」

「ほんまかなぁ・・・」


 妻の予想はまたしても当たった。

 大竹と言う大輝セミナーの社長は約束の時間に一〇分送れてやってきた。

「やっぱり大阪は暑いねえ」

 大竹はネクタイを緩めながら部屋に入ってきたかと思うと「これうちで取り扱っているんだ」と言って、ミネラルウォーターの入った小さなペットボトルを俺にトスした。

「ご存じだと思うけど、うちは自然食品の販売もやっていて、この水は本当に良い水なんだ。

 人間はやっぱり健康が一番だからね。

 健全な体にしか健全な魂は宿らないから」

 そう言った大竹は、長机の向うの椅子に腰を降ろすと書類にじっと目を通した。

「へー、S高校出てんの?」

「はい」

「あそこは進学校だけど、運動も強いよね?」

「はい。

 体操だとかバレーボールなんかは結構有名ですね」

「で、K大学か・・・なかなかK大学なんかいけないよね・・で、学部は?」

「経営です」

「勉強は結構やった方?」

「いえ、あまりしなかったです」

 大竹は首だけを、ああそう、と振ると、しばらく書類に目を落とし何かを考えている様子だった。

「山田さん、自宅はこれ、昔のあの片町線て言ったっけ、あの鴫野と言う駅の近くじゃないの?」

「あっ、そうです」

「そうだよね。

 昔、二年だけ、この仕事を興す前に、全然違う畑の仕事の営業やっていて、この辺りに一件お客さんがあったから良くうろちょろしていたんだよ」

「あっ、そうなんですか」

 大竹は黒のボールペンを口に加えると自分を納得させるかのように何度か頭を縦に振った。

「わかりました」

 わかりましたって、五分も喋っていないのに俺の一体何がわかったんだよ、と思っていると、大竹は初めて刺すような目つきを俺に向けた。

「山田さん、煙草吸うんだよね?」

「はい」

「今すぐやめられる?」

「いえ、今すぐと言われると・・・」

「あっそう。

 じゃあ、もしやめられたら、また言ってきてください・・・」


          3

「どういう意味やと思う?

 あのボケ、訳のわからんこと言いやがって」

 俺は、ネクタイを外しながら妻に聞いた。

「さあ・・・・」

 妻は、椅子に乗ってクーラーのフィルターを抜きながら首をひねった。

「良いほうにとったら、入社後煙草をやめられたら俺に言うてきてくれ。

 悪いほうにとったら、煙草がやめられたらもう一回俺の会社受けに来い、そう言うことちゃう?」

「そんなもん差別やんけ」

「“大卒以上”いうのと一緒やんか」

「アホか、それとこれとは別じゃ。

 俺は別にかまへんで、こんな程度の会社、半分冷やかしで受けてんから。

 せやけど、中にはなんとか受かりたい言うて真剣に受けてる人もおるはずや。そんな人らに対して失礼や。煙草がだめやったら最初から求人票に“喫煙者不可”て書いとかなあかんよ。

 一回ハローワークに言うたろ」

「そんなにムキにならんでええやんか、冷やかしで受けてんやったら。」

「あかん。

 間違ったことをやってる奴にはあんたそれ間違ってるでって言うたらなあかん。それを言わへんからこの国はおかしなったんや」


 妻の悪いほうの予想がまたしても当たった。

 面接から三日後、今度は電話ではなく郵送で返事が来た。

“誠に申し訳ないですが、今回の採用は見送らせて・・・・”と書かれた最後に“尚”の続きに“三カ月後、再度ご連絡を取らせていただきます。その時点でお煙草をやめられていた場合、再度社長面接をお受け頂けます”と黒い斜字が印刷されていた。

「何様じゃっ!」

 封筒までも粉々に千切ってごみ箱に放り込むと、「おい、ちょっと飲みに行くから金くれ」と妻に言った。

「そんなお金無いよ」

 妻はつっけんどんに返してきた。

「あほかっ、まだ退職金残ってるやろっ」

「残ってるけど、もう百万円使ってんで。

 家のローンもあるし、健康保険かって前よりだいぶ高なってんねんから。あんた知らんと思うけど」

「ちょっとくらいええやんけ。

 その退職金かって、俺が働いてもらったもんやねんから、二、三十万くれたってええやないか。

 煙草買うから三百円くれ、ビール買うから二百円くれ言うておまえの財布から小銭抜いていくのもうなんか情けないんや」

「しゃあないやん、あんたが選んだ道やねんから」

 なにっ、と大声を上げようとしたとき「これだけやで」と言って妻は千円札三枚を俺の前に差し出した。

 つまらないことで喧嘩をするのは嫌だったので、三枚の千円札を分捕ると、自転車のキーをGパンのポケットに入れ、家を出た。


“ビンビール(大)三九〇円”に魅かれて入ったガード下の立ち飲みに毛が生えた程度の居酒屋は、夕方の四時を回ったばかりにもかかわらず、カウンター席を数席残して人で埋めつくされていた。

 注文を取りにきた“研修生”と書かれたバッジを胸につけた二十歳くらいの女の子にとりあえずビンビールを頼んだ。

 長年酒を飲んでいるが、ラーメン屋に入ってギョウザをあてに一人ビールを飲んだことはあったが、居酒屋に一人で入るのは生まれて初めてだった。

 何か落ち着かない気持ちでメニューを見ていると値段の安さに驚いてしまった。

“冷奴 一五〇円 出し巻き 二〇〇円 

 まぐろお造り 三〇〇円 ・・・・”

 ビールを持ってきた女の子に冷奴とまぐろのお造りを注文した。

 グラスに入れたビールを半分ほど流し込むと少し気分が落ち着いた。

 周りを見渡すと、さすがにスーツ姿の人はおらず、みな“作業員”と言う感じの人達だった。

 冷奴とまぐろのお造りがやってきた。

 どちらとも何の表情もない白い器に入っている。

 冷奴はほかの居酒屋で食べてきたものよりは一回り小さく、マグロも四切しか入っていなかったが、味は決して負けていなかったし、どちらかと言うと一人で食べるのにはちょうど良い量だった。

 ビンビールが空になると、一合二五〇円の日本酒を冷やで注文した。

 三九〇+一五〇+三〇〇+二五〇=一‘〇九〇円。

 まだ冷や酒を二合飲んで一品頼んでも二千円にいかない。


 店を出ると外はまだ明るく、頬が少し火照っていた。

 こんな店に自分が入るとは思っていなかった。

 というか、馬鹿にしていた。

 こんなとこで飲むようになったら俺も終わりや、と。

 財布を覗くと札入れのところに千円札が一枚挟まっていた。

 これまでだったら、営業マンだからと言って急なつきあいに備えて持たせてもらっていたクレジットカードか会社のゴールドカードを持ってキャバクラへ直行と言うパターンだったが、今は立場が違った。

 駅前に止めてある自転車を取りに商店街を歩いていると『試写室 九八〇円』という看板が見えた。

 そっと扉を開けると、入店を知らせる電子チャイムが鳴った。

「いらっしゃいませ」

 声のほうを見ると、カウンターの中で茶髪の若い男性が退屈そうに立っていた。

 壁にぎっしりとアダルトのビデオテープが詰まっていた。

「五本まで持ち込めますので」

 カウンターの男がぶっきらぼうに言った。

 パッケージの女の視線に耐え切れず、適当に五本のビデオパッケージを、スーパーマーケットのカゴを縦横半分くらいにしたカゴに入れてカウンターに持っていくと、茶髪の若い男性は、パッケージから中身だけを取りだしカゴに入れると「九八〇円前金でお願いします。六十分を過ぎますと三十分ごとに五〇〇円の延長料金がかかりますので」と言って、テレビのリモコンをカゴに入れ「二階の五号室になります」と付け加え、そのカゴを俺に差し出した。

 急な階段を昇って二階に上がると、ウナギの寝床のように狭い廊下の両側に扉がぎっしりと並んでいた。

 部屋に入り後ろ手でドアの部の鍵を掛けると、リクライニングチェアーに腰を下ろし、テレビとビデオデッキの電源を入れた。

 煙草に火をつけると、ビデオテープを早送りする音、ビデオデッキからビデオテープを取り出す音、そして時折、人の呻き声の様なものが聞こえた。

 ヘッドホンを耳に被せると、再生ボタンを押した。

 裸の女が次から次へと出てきて、男達と交わり、そして、汚されていった。

 四本目のビデオを見ているとき、我慢できなくなり、そっとティッシュペーパーを箱から抜き取ると、暖かい精液を湿らした。

 家意外で自慰をしたのは初めてだった。

 何かすごい恥ずかしいことをしたような気になって、テレビと間仕切りの隙間に置かれてあるウエットティッシュの筒から湿ったティッシュペーパーを引っ張り出すと、手を拭い、ビデオデッキからテープを取りだし、灰皿の縁に置いてあった吸いかけの煙草をもみ消すと、逃げるようにして部屋を出た。

 外は雨だった。

 自転車を止めてある駅前まで歩く間、通り過ぎる人の視線を感じた。

 濡れたサドルを手で拭きながら跨ぐと、腰が沈むのを感じた。

 降りて見てみると、後ろのタイヤが自分の顔のように崩れゆがんでいた。


          4

 雨の音がセミの泣き声を掻き消し始めた頃妻が起きてきた。

「また寝られへんかったん?」

「おお。

 よう寝た思て起きたらまだ四時や。

 あとはいつもの通り、朝まで目えぱっちり寝むれぬ子羊や。」

 寝れなくなっていた。

 どんなに酒を飲んでも、寝入りはスムーズだが、四時間もすれば目が覚めてしまった。

 会社を辞めて疲れなくなったからかと、陽の高いうちに一時間程度汗をしたたらせながら散歩をしてもふくらはぎの裏の筋肉が張るだけで、何の効果もなかった。

「軽いうつ病違う?

 新聞に載ってたけど、定年退職した人がようなるみたいやで。

 高木さんはもうあてにせんと自分でちゃんと探したら?」

 妻の言う通り、相変わらず高木さんからは何の連絡もなかった。

「チビ起さんでええんか?」

「今日から夏休み」

 会社を辞めたときはまだ寒かった。

 時の流れは止まってくれない。

 嫌なことを洗い流しくれる良いところもあるが、彷徨う人間を置き去りにする残酷な一面も持ちあわせていた。

 妻が朝刊を取って戻ってきた。

 景気が良くなりつつあるという記事が一面に載っていた。

 辞めた会社の株価は順調に上がってきている。

 妻が苦いコーヒーを出してくれた。

「ハローワーク行くんやろ?」

 二回目の失業認定日だった。

「うん。

 まさか二回も失業保険もらうとは夢にも思わんかったわ」


 地下鉄に乗るのは久しぶりだった。

 土曜日でも日曜日でもないのにTシャツにGパン姿にビニール傘を持っている姿が窓に映る。

 横目で誰か知っている人が乗っていないか確認する。

 誰もいないとわかると少しほっとして吊り広告に目を移す。

“転職紹介 一部上場企業多数

 (株)ケプトン 

  お気軽にお申し込みください!”

 お気軽にと言うが電話番号がどこにも見つからない。

 代わりに、ローマ字やら@やら...が横に並んだ暗号のようなものが印されていた。


「どうや?」

 すっかり胡麻塩頭になった父が聞いてきた。

「まあぼちぼちやわ。

 ちょっとパソコン貨してや」

 周りの乗客に気づかれずに、ハローワークに向かう途中の地下鉄の中で煙草のケースに書き記した文字を打ち込むと(株)ケプトンのホームページにつながった。

「時代も変わったよな。

 履歴書持って会社訪問する時代なんか終ってもうた」

 父がお盆に缶ビールと柿ピーをのせてやってきた。

「今は、自分の履歴とかどういった条件を希望するのかをこういった仲介業者に登録しといて、見合った会社があれば紹介してくれる、そんなふうになってるんや」

 二十分ほど掛けて全てのインプットが終った。

「パソコンがなかったら就職もでけへん時代や」

 昼間から飲むビールはうまかった。

「おまえもパソコン買えよ。」

 父が言った。

「ええよ。

 あんなもんな定年退職した無趣味のおっさんが残りの人生の時間潰しに使うおもちゃやがな」と言いかけて、まさに父がそのおっさんに該当するとわかって口をつぐんだ。

「なんやったら買うたろか?」

「ええよ、どうせ使うの今だけやから。

 会社決まったら使うことなんかあらへんから」

 二人で五本の缶ビールを開け「ちょっと寝むたなったから」と父が居間に消えるともう一度パソコンに向かった。

 電子メールを開けた。

 パソコンは嫌いであまり得意ではなかったが、辞めた会社で、電子メールだけは、上司からの指示やお客さんからの注文が入ってきたのでしょうがなく毎日見るようにしていたので、使い方はわかっていた。

“送受信”をクリックすると一通のメールが届いているのがわかった。

 父に失礼して開けてみると、(株)ケプトンからだった。

「ご登録有り難うございます。

 早速ですが一度ご来社の上・・・」

 お盆の上にこぼれている柿ピーの柿の方を口に放り込んだ。


(株)ケプトンはオフィス街の真中の大きなビルの中にあった。

 デスクトップ型のパソコンが置かれてある応接室と言うよりはブースと言ったほうがいい部屋で待っていると、電子メールに書かれていた、弓岡、と言う名前の人が「お待たせいたしました」と言って入ってきた。

 弓岡さんは、歳が三十くらいの女性で、バリバリのキャリアウーマンと言うよりは、婚期を逃しつつある事務職の女性、と言う感じだった。

「すばらしいご経歴で」

 弓岡さんの第一声だった。

「どこかほかにご登録されている会社がおありで?」

「いえ、御社が初めてです。」

「そうですか、山田様のご経歴ですと、すぐにお決まりになると思いますので、できれば弊社のほうでご紹介させていただきたいと思いますので・・・」

「いえいえ、そんな大したことないです、それにもうええ歳ですから」

「そんなことないですよ、まだ三十八歳でしたら大丈夫ですから」

 この時、この「大丈夫ですから」と言う言葉の意味を深く考えなかった。

「消費財系のメーカー営業をご希望と言うことで」

「はい」

「まあ、山田様のご経歴ですと、問題はないとは思うんですけど、ご存じの通り消費財系のメーカーは元もと求人があまり多くはないですし、それに関西全体があまり元気がないものですから」

 弓岡さんは高木さんと全く同じことを言った。

「以前の会社のご経験を活かすと言うことは?」

「まあ、正直、あまりやりがいを感じていなかったので、できれば異業種でと考えています」

「そうですか。

 ただ、キャリアアップというお考えで、以前より更に条件の良い企業をお捜しになると言うことで・・」

「そうですね、それでしたら・・」

「では、そちらのほうの登録もしてまいりますのでしばらくお待ち頂けますか。

 良ければこのパソコンでご検索できますので、条件に合った会社があるかお調べください」

 弓岡さんは笑顔を残して部屋を出ていった。

 マウスに手を伸ばす。

 画面には、確かに一部上場企業の名前がこれ見よがしに並んでいる。

“掲載企業 1847社”

 検索条件をインプットする。

『正社員』『事務・営業職』『大阪府』

『六百万』『大学卒』『三十八歳』

《この条件で検索する》をクリックする。

 しばらくすると、“検索結果”が画面に現れた。

 ご希望条件を満たす企業・・・・24社!?

 何か検索条件のインプットを間違えたのかと思い確認したが何も間違えてはいなかった。

 24社の中身を見ていくと、ほとんどが、住宅関係の個人営業で、簡単に言えば、飛び込み営業の完全歩合制、学歴不問、あなたの頑張り次第で月収百万円以上可、といった、以前ハローワークで見た内容の会社ばかりだった。

 検索条件から『六百万』を抜いて、もう一度《この条件で検索する》をクリックした。

 ご希望を満たす企業・・・・32社。

 増えた8社は、前の24社と同じような会社で、一部上場の“い”の字もなかった。

 とっておきの会社はどこかに隠しているのかなと思っていると弓岡さんが戻ってきた。

「お待たせいたしました。

 素材メーカーの方も登録してまいりましたので、担当は森中と言うものがさせていただきます」

「わかりました」

「あと、山田様、メールアドレスのインプットが漏れておりましたので・・」

「いえ、パソコン持ってないんですわ。

 登録は、父のパソコン借りてやったんで。

 まあ、家がすぐ近くなんでいつでも借りに行けますので。」

「そうなんですか」

 弓岡さんは一瞬人を馬鹿にしたような笑みを漏らした。

「では、ご紹介致したい会社がありました場合は?」

「ファックスでお願いします」

「承知いたしました。

 後ですね、ご存じかと思いますけど、弊社ではないんですけど、スカウト制と言うものがありまして、ご経歴を登録されておきますと、それを見て興味を持たれた企業様からスカウトの声がかかるというものなのです。

 山田様でしたらいくらでもお声がかかると思いますので登録だけでもされておいたほうがいいと思われます。まあ、うちとしましてはそちらで決められると困るんですけど」

 そう言ってほほほと笑った弓岡さんの作り笑顔を見て俺は(株)ケプトンを後にした。


 次の日、図書館で本を読んでいると早速(株)ケプトンから電話があった。

 弓岡さんではなく、担当と紹介された森中さんからだった。

「場所は梅田で、従業員数が約五十名。前職のご経験が活かせると思うんですけど」

「上場はしてないですよね?」

「ええ」

「今出先なんで、申し訳ないですけどファックス入れといてもらえますか」

 

 家に着くと、妻が「なんかファックス来てるで」と机の上の紙を指差した。



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