(7)感情の振れ幅が少ないこと
この部屋のことでカルストさんから説明を受けていると、控えめなノックの音がした。
カルストさんがサフィルさん見遣る。すると、彼は小さく頷いた。
それに応えるようにカルストさんが「入室を許可する」言えば、入ってきたのはこの部屋の前で警護をしていた兵隊さんのような人。その人へとカルストさんが歩み寄って、小さな声で話し出す。
―――何かな?
少し離れたところでそのやり取りを見ていると、カルストさんがこちらに振り返った。
「サフィルイア様、サワ様。エーメルドがお二人にお会いしたいと申しておりますが、いかがなさいましょうか?」
初めて聞く名前に、私は更に首を傾げる。
そんな私に、サフィルさんは
「深緑色のマントを着ていた男を覚えているか?」
と訊いてきた。
私を目にした途端、サフィルさんとの間に割って入り、警戒心を超える敵意を剥き出しにして一番先に私へ長剣を向けてきた人のことだと思い出す。
私が何を思い出したのか察したらしく、サフィルさんは渋く眉を寄せた。
「サワが会いたくなければ、無理をする必要はない」
「……いえ、会います。何か用があって、わざわざこちらに来たのでしょうから」
私がそう言えば、一層眉間に深い溝を刻むサフィルさんだったが、扉に向かって
「入れ」
と短く命じた。
カルストさんが開けた扉から、今はマントを脱いだものの軍服姿のままの男の人が入ってきた。
サフィルさんよりやや低い身長だが、筋肉の付き方はサフィルさんよりもいいと思う。
この国では一般的だと聞いた淡い茶色と華やかな黄色を混ぜたような独特な髪は腰まで伸び、簡素な飾り紐で一つに括られている。
瞳の色は印象的な緑。陛下よりももっと深い色で底が見えない。だけど澄んだその瞳は、まっすぐな性格であることを伺わせる。
サフィルさんが言うには、彼は帝立騎士団艇馬部隊の副隊長。
その副隊長さんが強張った表情で私の様子を伺っていた。
なんと声を掛けたらいいのか分からないので、私は一つ頷いてみせる。すると、その人は室内へと踏み出した。
「失礼いたします」
深々と頭を下げて述べた挨拶の声は、私に剣を突きつけた時とは違って勢いがない。
サフィルさんは私のすぐ隣に立った。
「一体、何の用だ?」
エーメルドさんが下げていた頭を上げて数歩進み、その場に片膝をつく。部屋の中央で改めて頭を下げて、彼はこう言った。
「異界渡りの姫君が降り立ったとの報告が、先程、王室より軍関係者に知らされました。それにつきまして、姫君に働いた無礼をお詫び申し上げたく、こちらに参りました」
「え?」
―――無礼って何のこと?
キョトンとしてエーメルドさんを見つめていると、彼はこれ以上ないほど深々と頭を垂れる。
「あの時の行動は、サフィルイア様の身を第一に案じたゆえのことでした。ですが、いくらとっさの行動とはいえ、この世界を救う姫君に剣を向けるなどというあるまじき暴挙を改めて思い直し、己の軽挙を恥ずばかりであります。詫びて済まされるものではないと重々承知しておりますゆえ、どうぞお好きなように罰してくださいませ」
そう言って、エーメルドさんはまた深く頭を垂れた。
「ええと」
ますます訳が分からない。
罰するとはどういうことなのだろうか。なぜ、罰する権利が私にあるのだろうか。
私が黙り込んでしまったのを立腹から来るものだと思ったらしいサフィルさんが、私の背後から声を掛けてきた。
「サワが怒るのもよく分かる。だが、彼は深く反省しているようだし、出来る事なら許してもらえないだろうか?」
―――私が怒るのも分かるって?
「あ、あの……。エーメルドさんもサフィルさんも、どうして私が怒っていると思うんですか?」
私の問いかけに、今度は二人が目を大きくする。
「それは、詳しい事情も分からない姫君に、あのような怖い思いをさせてしまいましたし。ご立腹なさるのも、無理のないことです」
「誰だって、いきなりあんな目に合わされたら腹が立つだろう?」
当然といった体で告げる二人に私は言った。
「怒ってませんけど」
そう言うと、二人はますます呆気に取られた。
「何故、怒らない?」
訝しげにサフィルさんが私に問いかける。
「だって、エーメルドさんはサフィルさんを守るのがお仕事なんでしょ?あの時点では得体の知れない私を警戒するのは、当たり前のことじゃないですか。皆さんが言う姫君かどうかなんて、分からなかったわけですし。それなのに、どうして怒る必要があるんですか?」
私の答えがあまりに意外だったのか、二人とも固まってしまった。
「サワ?」
無表情ともいえる顔をこちらに向け、サフィルさんがポツリと私の名前を呼ぶ。そんな彼に、私は首を軽く横に振った。
「許すも許さないもないんです。本当に怒っていませんから」
あちらの世界で長く病気を患っていた私は、笑うことなどとっくに忘れてしまっていた。それでもどうにか顔を綻ばせてみせる。
「どうか立ってください。私のために、頭を下げないでください」
私は借りている純白のマントの裾を踏みつけないように注意しながら、ゆっくりとエーメルドさんに歩み寄る。
そして、彼に視線を合わせるように両膝を着いた。
「罰するなんて、とんでもないです。この国は今、大変な時期に差し掛かっていると聞きました。ですから罰するのではなく、あなたにお願いします。これからもどうぞサフィルさんを守ってあげてください」
そう言って、軍人らしい大きくてごつごつした手をソッと握る。時を惜しむことなく、武術の訓練に明け暮れたと分かるその大きな手は、とても力強くて頼もしい。
「お願いします。サフィルさんを、この国を助けてください」
呆気に取られているエーメルドさんが、思わずと言った風で口を開く。
「姫君」
その呼びかけに、小さく首を横に振った。
「私は姫君と呼んでもらえるほど、たいそうな人物ではありません。どうぞ“サワ”と気軽に呼んでください」
キュッとエーメルドさんの手を握ると、彼の顔が僅かに赤くなった。
が、その一瞬後には青くなっていた。
あまりの彼の変わりように首を捻ると、背後から声が。
「……エーメルド。後で“特別に”稽古をつけてやろう」
これまでに聞いた声音とはあまりに違う様子に誰かと思ったが、扉の傍でたたずんでいるカルストさんを除くと、この部屋に残る男の人は一人しかいない。
「サフィルさん?」
振り返れば、私のすぐ後ろにサフィルさんが立っていた。
彼は無表情でエーメルドさんを見下ろすと、私の横腹に腕を通してサッと抱き上げる。私は一瞬で彼の逞しい右腕に腰掛けるような体勢となった。
「ひゃぁっ」
突然高くなった視界に驚いて、思わず彼の首に腕を回す。
「ど、どうしたんですか、急に」
「この部屋の絨毯は毛足が短く、長く膝を着いていると痛くなる。気をつけたほうがいい」
「あ、はい。分かりました」
素直に返事をすれば、無表情のままサフィルさんが頷いた。
そんな私たちを見ていたカルストさんは、クスクスと笑っている。何が面白いのかさっぱり分からない私は、抱き上げられたまましきりに首を捻ったのだった。
エーメルドさんに対して私が怒っていないことを改めて告げると、彼は何度もお礼を言いつつも複雑そうな表情でこの部屋を出て行った。扉が閉まる寸前、チラリとサフィルさんを見たエーメルドさんの表情は、すごく硬いものだった。
静かに閉じた扉を見つめて、私は思わず呟く。
「私、エーメルドさんに何か失礼なことをしてしまったのでしょうか?」
身分社会などなかった日本に育った私は、もしかしたら彼に対して知らないうちに失礼な言動をしてしまったのかもしれない。
本で得た知識でしかないが、常識は国ごとに全然違うみたいだし。まして違う世界にいる今、自分が良かれと思ってした行為が間違っていることもあるだろう。
―――エーメルドさんの事は、副隊長さんって言ってたよね。そういう偉い人の手を勝手に触ったのがダメだったのかな?でも、怯えていたように見えたのはなんでだろう。
様子のおかしい彼のことと、自分の迂闊な行動をそう心配してサフィルさんとカルストさんを見遣れば、サフィルさんは何処となく怒ったような顔をしていて、そんなサフィルさんを見てカルストさんは楽しそうに笑っている。
ちなみに、今の私はまだサフィルさんに抱き上げられている。
「いや、サワは何も悪くない。だから気にすることはない」
「はぁ……」
ならば、どうしてエーメルドさんはあんな顔をしていたのだろうか。
―――今度会ったら理由を聞いてみようかな。
そんなことを心の中でそっと呟いた。
「それより、そろそろ下ろしてもらえませんか」
絨毯に着いた膝は別に痛くはないし、このまま抱き上げられている理由はない。サフィルさんに願い出れば、なぜか首を横に振られてしまった。
「サワは軽いから、何時間でも大丈夫だ」
「そういうことではなく、恥ずかしいですから。お願いします、下ろしてください」
それでもサフィルさんの目をジッと見つめて頼めば、彼はゆっくりと私を解放してくれた。
不意に抱き上げられたせいで、借りていたマントが皺になっていないか心配だ。私はマントのあちこちに目をやって確認していたら、サフィルさんに声を掛けられる。
「サワ、どうして怒らない?」
「え?」
視線をマントからサフィルさんに向けると、瑠璃色の瞳が困惑の色をかすかに浮かべているのが分かる。
「彼を許せと請うておきながら言うのもおかしなものだが、理不尽な目に合えば腹が立って当然だ。サワはいきなりたくさんの男に囲まれ、あまつさえ剣を突きつけられたのだぞ」
「さっきも言いましたが、それはサフィルさんを守る為にした事で。特に怒るようなことではないと」
当然で必然の行動を取ったエーメルドさんたちには、本当に怒っていないのだ。正直に話したはずなのに、サフィルさんは尚も問いかけてくる。
「では、少し言い方を変えよう。なぜ、何も欲しがらない?なぜ、感情を表に出さない?サワは、何を諦めている?」
「それは……」
気持ちをどんなに強く持っていても、つらい治療や手術にどんなに耐えても、私の病気が治ることはなかった。
そんな状況で何年も過ごすうちに、感情を素直にさらけ出して投げやりになるより、誰にも知られないようにこっそり諦めてしまう方が楽だったのだ。
『どうしてお兄ちゃんやお姉ちゃんは、私と違って元気なの?どうして私だけこんなに苦しまなくてはならないの?どうして⁉どうして⁉』
何度となく喉まで込み上げたこのセリフ。だけど、決して口にするわけにはいかなかった。家族が悲しむことが分かっていたから。
だから私は現状を受け入れ、ただ静かに時を過ごすことを選んだ。そのうちに欲しいいものなど何一つなくなり、感情の表し方も分からなくなってしまっていた。
こういったことを正直に話すのは気が引けて、言葉に詰まった私は俯いて黙ってしまう。床を見つめながら彼の視線を感じるが、言葉は出てこない。
その時、穏やかな声が割って入ってきた。
「サフィルイア様、女性にあれこれと無理に聞き出すものではありませんよ。嫌われてもよろしいのですか?」
答えを聞きだそうとジッと私を見つめているサフィルさんを、カルストさんがそっと嗜めると、
「嫌われるのは……」
モゴモゴと呟き、サフィルさんは私から視線を逸らす。
さっきのエーメルドさんの表情も分からないが、今のサフィルさんの気まずそうな表情の意味も分からない。
そして、カルストさんが僅かに声を上げて楽しそうに笑う理由も分からなかった。




