(5)押し問答とケープとマント
―――サフィルさんが、ディアンド光帝国の王子様!
細かい身分制度や、私と王族との間にどれほど差があるのかは分からないけれど、馴れ馴れしく接してはいけないことは即座に理解できる。
そんな大それた人に対して気安く『サフィルさん』と呼んでいたことに、全身から冷や汗が噴き出した。
「申し訳ありませんでした」
私は床に這いつくばり、これ以上無理というほど体を小さくして私は頭を下げる。
私の突然の言動に、サフィルさんは
「何を謝る?とにかく、立ってくれ」
と、少し慌てた声で言ってきた。
私は首を振り、改めて頭を深く下げる。
「名前です。軽々しく呼んでいましたから」
実際は、彼のことを『サフィル』という愛称で呼んだだけではなく、彼に対する行動も軽々しかったのだが。彼が部隊長と告げた時点で、私は自分との身分差に気付くべきだったと後悔しても、もう遅い。
ひたすら頭を下げる私の背筋を、冷たい汗が伝い落ちる。
しかし、私の失態に対してまったく頓着していないサフィルさん。
「それは私の身分を知らなかったから仕方のないことだし、こちらがそう呼べと言ったのだから」
当然といった様子で、そう口にする。
「さぁ、顔を上げてくれ」
彼は私の前に膝を着き、私の肩を大きな手でそっと掴む。ゆっくりと上げた視線の先にある顔はやっぱり無表情に近いものだったけれど、怒りは感じない。陛下や妃陛下、カルストさんからも怒っている様子は伝わってこない。
小さく息を吐いた私は、急いで立ち上がる。このままだと、彼まで床に膝を着けたままになってしまうから。
立ち上がって最後にもう一度ペコリと頭を下げれば、全員がクスリと笑った。
許してもらえてよかった。
だけど、彼の身分を知らされた以上、もう、気軽に呼んだり、気楽に接したりするわけにはいかない。
「これからは気をつけます、サフィルイア様」
彼の名前を正式に、そして敬称をつけて呼べば、見上げた先の彼は盛大に眉を顰めた。
「なぜそう呼ぶ?サフィルと呼べといったではないか」
「そんな訳には……」
誰もが敬意を払う彼のことを、私のような小娘が気安く呼んでいいはずはない。異世界初体験私でも、それは分かる。
礼儀としてそういう態度であるのが必然だと考えた私に、
「ならば、私も“姫君”と呼ぼう」
と、カルストさんに言ったことと全く正反対のことを言い出した。さっきは『やめてやれ』と、言ってくれたのに。
私は思わず目を大きくする。
「それは駄目ですっ。困りますっ」
しかし彼はまっすぐに見返してきて、
「私も困る」
と短く答えた。
この様子は、マントの件で繰り返した押し問答と同じだ。と言うことは、彼はまた一歩も引かないのだろう。
王子様の彼が折れないのであれば、私が折れるしか打開策はない。
「……分かりました。サフィル様と呼べばいいでしょうか?」
私が妥協案としてそう述べると、彼は間髪入れずに口を開く。
「“様”は必要ない。こちらとしては、サフィルと気軽に呼んでもらいたいところなのだが」
静かな口調でそういった彼は、表情をうかがわせない顔で私を見てきた。
―――呼び捨てに?
それでは光帝陛下が呼んだのと同じではないか。そんな大胆なこと、私には無理だ。
「“サフィル様”では、どうして駄目なんですか?それに“さん”まで付けるなだなんて、どうして?」
「どうしても、だ。他の者の手前、流石に呼び捨ては難しいか。ならば、これまで通りに呼んでほしい」
そんな言い方では、まったく説明になってない。
どうして?何で?と繰り返し尋ねても、彼は『どうしても』という一点張りを繰り返すばかりで、話は一向に出口が見えない。
「サフィルイア様」
「違う」
「サフィル様」
「誰だ、それは」
私の呼びかけに、彼は顔色一つ変えずにそう返してくる。
話が進まずにすっかり困り果てていれば、
「サフィルは優しそうな外見のクセに、かなりの頑固者でな。申し訳ないが、多少は折れてやってはくれまいか。それに、サフィルもいい加減にせぬか」
と、笑いを堪えながら光帝陛下が言う。
この国における至上の存在に言われてしまえば、私が逆らえるはずもなく。
「……サフィルさんでいいでしょうか?」
諦めたようにこれまでと同じく呼べば、
「では、私はこれからあなたを“サワ”と呼ぼう」
と、静かな声が鷹揚な頷きと共に返ってきた。
呼び名のことで少し話が逸れてしまったが、その後はカルストさんがこの国に伝わる伝承と、惨事に見舞われた時の状況、その際に現れる異界渡りの姫君の存在について説明してくれる。
今、この国は腐敗し始めているとのこと。
一部の貴族が民衆を蔑ろにし、己の私服を肥やすことに走り出しているのだ。
そのような貴族は数が少ないものの、国内において彼らの権力は侮れない。
また、したたかな彼らは確かな証拠をつかませず、処断しようにもできなかった。
腐敗の程度はまだ小さく浅いものだが、光帝陛下は憂いている。広く知られてはいないが、このような事態は竜が最も嫌うことだという。
「我々も国内の平定のために全力を尽くすが、竜の怒りを静めないことには国民が安心して暮せない。だからこそ、今この時に“異界渡りの姫君”が召喚されたのだ」
険しい顔で光帝陛下がそう言った。
だが、竜の怒りを静めるために異界渡りの姫君が何をするべきかは、具体的に教えてもらえなかった。
「するべきことはいずれ分かる。そしてそれは、サフィルにとっても重要だということは、くれぐれも忘れるでないぞ」
私とサフィルさんは揃って大きく頷いた。
話が終わり、カルストさんが私に部屋を用意してあると言ってきた。
「ご案内いたしますので、ついてきていただけますか?」
「はい」
私は文字通り“身に余る”マントを纏って、踏まないように気をつけながらカルストさんの後を追う。
その私の後を、サフィルさんがついてくる。
「サフィルイア様。こちらで不自由なくご用意いたしますので、どうぞご安心なさいませ」
カルストさんがそう言うと、
「別に、信用しないわけではない。その……、自ら迎えに行った身としては、やはりいろいろと気にかかるのでな」
と、僅かに視線を逸らしてそう告げた。
そんなサフィルさんの様子に軽く目を瞠ったカルストさんが、次の瞬間、子供の悪戯に気づいたように楽しげに微笑む。
「それはそれは。ですが、サフィルイア様のお手を煩わせるようなことをするほど、私は無能ではございませんよ?」
カルストさんが小さく笑い、何処となく意地悪そうに目を細める。
するとサフィルさんはちょっと言葉につまり、視線を泳がせた。
「いや、それは、そうなのだが……。そうだ、彼女に貸している私のマントを返してもらおうかと」
と言ってきたので、私はその場でマントを脱ぎ、出来る限り綺麗にたたんでサフィルさんに差し出した。
「どうもありがとうございました、返すのが遅くなってごめんなさい」
頭を深く下げ、目の前に立つサフィルさんにマントを手渡した。
彼は受け取ろうとしないので、失礼かなとは思ったけれど、その手に押し付ける。そしてカルストさんへと向き直った。
「サワ様のお部屋は三階の南側になります。日の光がたっぷり入る、気持ちのよいお部屋ですよ」
カルストさんは私のことを姫君と呼ぶのを止めてくれたが、様を付けるのは止めてくれなかった。
私が何度呼び捨てでいいと言っても、
『サワ様と呼ばせていただきます。それがお嫌でしたら、“姫君”とお呼びするしか』
と、譲らなかったのだ。
この国の人は頑固な人ばかりなのだろうか。私は渋々ながらも折れるしかなかった。
ワンピースだけの格好になった私に、カルストさんが毛織のケープを脱いでかけてくれた。
サフィルさんの白いマントは見たことも触ったこともない生地だったが、このケープは毛糸のようなフワフワした太い糸で丁寧に編まれている。この世界にも羊がいるのだろうか。知っている手触りに安心する。
「それではサワ様、行きましょう」
カルストさんに促され、私はケープを撫でながら歩き始める。
すると背後からケープを取り上げられ、手渡したばかりのマントをバサリと掛けられた。
「風はなくとも城の中は冷えると言っただろう。そんな短いケープではちっとも防寒にならない。だから、部屋までこれを着ていればいい」
あっと言う暇もなく、前に回ってきたサフィルさんがマントの止め具をしっかり嵌めてしまう。
これまではマントの前についていた紐を簡単に結んでいただけなのだが、サフィルさんは綺麗な飾り紐を金具に何度も通してしっかり結んでしまったので、不慣れな私には外せそうにない。
困った私が眉毛を下げてサフィルさんを見上げれば、カルストさんがプッと噴き出した。
「サワ様。ご好意に甘えて、お部屋までマントをお借りしてはいかがでしょうか。それでよろしいですね、サフィルイア様?」
「……ああ」
クスクス笑うカルストさんに、サフィルさんは顔を横に向けて頷いた。