サワの仕事(18)
それから三日が経っても、サワがサフィルイアの執務室で給仕をすることはなく、彼の機嫌は日増しに下降していった。
書類を捲る音、ペン先が紙面を走る音に混じり、時折聞こえる部屋主の重苦しいため息。
このような様子は過去になく、傍に仕えているエーメルドはやきもきしている。
どれほど戦況が切羽詰っていても、彼の上司は苛立ちを表に出すことはなかった。
多少の焦りを感じさせることはあっても、常に氷の仮面を纏い続けていた。いや、切羽詰っているからこそ、あえて冷静であろうと努めていたのだろう。
ところが、その上司がどういう訳か、ここ最近は腹立たしさを隠そうともしない。
――エーメルド様は、本当にどうされたというのだろう。またしても、裏で暗躍する貴族たちの存在が明らかになったのか?
しかし、そういうことであれば自分の耳にも入るだろうと、エーメルドはその考えを打ち消す。
それに、マスタードラゴンの力をまざまざと見せつけられて、時はさほど経っていない。密かに私腹を肥やそうとする輩は、当分現れないはずだ。
ならば、どういうことなのだろうか。
エーメルドはサフィルイアの心情をまったく理解することが出来ないため、ただ、ひたすらにキリキリと引き絞られる胃の痛みに耐えるしかない。
パサリ、カリカリ。はぁ……。
パサッ、はぁ……。カリ、カリカリ、はぁ……。
はぁ…………。
鍛錬や戦いの場であれば、いくらでも不屈の精神を発揮できる副隊長だが、こういう意味での精神的苦痛には慣れていなかった。
忍耐の限界点を突破して部屋を飛び出してしまう前に、エーメルドは思い切って口を開いた。
「あ、あの、サフィルイア様。失礼ながら、お尋ねいたします」
ビクビクと顔色を窺ってくる部下を、手を止めたサフィルイアは横目で見遣る。
「……なんだ?」
地を這うほどに低く響く声。今の彼は壮麗な王子ではなく、戦線に立つ鬼神の顔をしていた。
しかも、全身から噴き出している空気が怖い。猛烈な吹雪が渦巻いているようだ。
ゴクリと息を呑むエーメルド。引き攣る喉を動かして、なんとか続きの言葉を発する。
「ち、近頃はお加減がすぐれないようですが、どこか、お体の具合でも悪いのでしょうか?もしくは、対処に困る問題が起きているのでしょうか?それとも、私の不手際が原因で?」
僅かに顔色を失っているエーメルドに、サフィルイアは己の状況を悟った。
「……すまない。個人的なことで、いささか落ち着きをなくしていたようだ」
一言発し、ドサリと椅子の背に身を凭れさせる。そして、全身から噴き出していた豪雪を鎮めた。
「体は至って健康だし、差し迫った問題を抱えているわけでもない。それに、お前はよくやってくれている。無用な心配をかけて、すまなかったな」
――あれが「いささか」という程度だとおっしゃるのですか?
そう言い返したいのをぐっと堪え、「いえ」と短く返すに留めるエーメルド。肩の力を抜いた上司の様子に、こっそり胸を撫で下ろす。
凍死寸前だったエーメルドだったが、どうにか息を吹き返した。
「茶の時間には早いですが、そろそろ息抜きをされてはいかがですか?」
その提案にサフィルイアはしばし考え込み、
「少し出てくる」
と一言告げ、部屋を出ていった。
執務室を出たサフィルイアは、真っ直ぐに侍女長の控室へと向かった。
作法もへったくれもない乱暴なノック(という名の殴打)を繰り返せば、ややあってから扉が細く開く。
「おや、サフィルイア様でしたか」
どこか剣呑な面持ちをしていたミーティアが、右手に溜めていた氷術魔法をユルリと解いた。
サフィルイア程の手練れであっても、一瞬ゾッとするほどの魔力の塊に目を奪われたが、軽く頭を振って、目の前の侍女長に向き直る。
「サワのことで話があるんだが」
ミーティアは静かに頷くと、サフィルイアを室内へと促した。
茶の用意を始めようとする彼女を制し、サフィルイアはおもむろに口を開く。
「サワを私付きの侍女にするようにという話は、覚えてくれているだろうか」
みぞおちの辺りで手を重ね、背筋を伸ばしているミーティアは大きく頷いた。
「もちろんでございます」
その返答に、きりりとした秀麗な眉が僅かに寄った。
「なぜ、サワは私の部屋に来ないのだ?」
そこで、サフィルイアの顔がいっそう曇る。
「もしや、体調を崩して寝込んでいるとか!?」
サワは己がどれほど体力のない状態なのか、さっぱり理解していない。
あちらの世界で過ごしていた時よりも健康な体を手に入れたと言っていたが、それは彼女の規準でそう見えるだけだ。傍からすれば、風に吹かれただけで倒れそうな儚い風情をしている。
うっかり目を離すと、薄着で歩き回っているサワのことだ。熱でも出しているのではないだろうか。
いや、意外と無鉄砲なところがある彼女のことだから、寝たきりの時には出来なかったことを、あれこれ試しては怪我でもしているかもしれない。
若干青ざめた顔でミーティアを見遣れば、彼女は柔らかな微笑みを浮かべる。
「いいえ、そのようなことではございません。サワ様はお元気でいらっしゃいますよ」
どうやら心配した事態にはなっていないらしい。
そのことに安堵するや否や、サフィルイアはミーティアに一歩詰め寄った。
「ならば、なぜ……」
と、口にした瞬間、奥にある部屋からガチャン、と何かが落ちて割れる音が聞こえてきた。
「まさか、賊か!?」
表情を引き締めたサフィルイアが、止める間もなく、音の元に向かって駆け出してしまった。
そんな姿に、苦笑を零すミーティア。
「サワ様は不本意でしょうが、そろそろ時間稼ぎも難しくなってきましたしね。頃合いなのかもしれませんねぇ」
粉砕する勢いで扉を開けた王子の姿に、ミーティアはさらに苦笑を深めた。




