(3)この世界には魔法があります。竜もいるそうです。
私がサフィルさんの胸に背中を預けるように凭れると、彼は静かな声で話し出す。
「できるだけ私に寄りかかるように。互いがくっついていた方が安全で、寒さもそう感じないだろう。そのマントには防寒用の魔法を掛けてあるが、寒さを感じないようあなたには更に魔法を施そう」
そんな便利な魔法があるなんて、さすがは異世界だ。
感嘆する空気が背後の彼に伝わったらしい。ところが、サフィルさんはなぜか申し訳なさそうな口調で告げてくる。
「私は攻撃魔法に特化した人間なので、補助系は少々苦手でな。だから、あなたの期待には添えないかもしれない」
「いえ、そんな。そういう魔法を使えるだけで、私からしたら十分すごい能力ですから」
私がそういうと、サフィルさんの空気が少し和らいだ。
「出来る限りの防寒魔法を構築するが、それでも上空に吹く風は冷やりとするものだ。それに異世界から来られたあなたには効きにくい事も考えられる。だから、けして私から離れぬように」
今は私が寄りかかっていた大樹よりも高い位置で羽ばたいているペガサス。確かに、頬に当たる空気は地上にいた時に比べてだいぶ冷たい。
彼の言葉に頷いた後、ふと口を開いた。
「そうなると、マントのないサフィルさんは寒いのではないですか?」
「いや、大丈夫だ。その程度で参るような、軟な身体はしていない」
「はぁ……」
確かに、部隊長というからにはそれなりの鍛え方をしているだろうし、そして彼の纏っている軍服風衣装も生地がしっかりしていて、多少の寒さは凌げそうだ。
―――本人がそこまで言うのなら、大丈夫なんだよね。
私はサフィルさんに言われたとおりに身を預けて彼にくっつくと、身体の前に回された腕に一層力が入る。
「華奢な身体だな」
「そう、ですね」
褒めたとも貶したとも受け取れる彼の言葉に、私は一言だけ告げた。
自分としては華奢を通り越して貧相だと感じているのだが、自分を卑下するようなことを言うのも、悲劇のヒロインぶっているみたいに思える。
それにこんな身体でも、向こうの世界で生きていた時を思えば何倍もマシな状態なのだ。
簡単な返答だけで黙ってしまった私に、背後のサフィルさんは困ったような雰囲気を醸し出している。
しばしの間沈黙が流れたが、それ以上彼は何も言わず、ペガサスは静かに宙を駆け出して行った。
それからは互いが口を開かず、私は流れてゆく景色を眺めていた。
家族や病院関係者以外の人と接する機会が削られていた私には、場を和ませ、会話を続けるようなことはできない。
―――サフィルさんは私を見つけてどこかに届けるだけの役目なんだろうし、特別仲良くする必要もないよね。
そう思った私は、目の前で綺麗に靡く鬣を指でソッと梳いて手持ち無沙汰な時間を潰す。
しばらくペガサスで宙を駆けてゆくと、眼下に町並みが見えてきた。
それは絵本で見たようなレンガや漆喰でできた低い民家が建ち並んでいて、なんだか懐かしい感じもした。
―――童話に出てきた家みたい。
そう感じながら、父親の膝に抱かれ、その横で母に絵本を読んでもらっていた自分を思い出す。そう頻繁に入院することもなかった幼い頃の、幸せだった時の記憶。
もう二度と家族で笑いあう事がないのだと思うと、チクンと胸の奥が痛んだ。その痛みは自分が家族とは違う世界に存在しているのだと、改めて教えているように感じる。
何気なくマントの前合わせをギュッと手で握りこむと、声を掛けられた。
「苦しいのか?」
後ろにいる彼の顔を見えないが、とても心配しているのが分かるサフィルさんの声。
私は慌てて首を横に振る。
「いえ、何でもありません。……そうだ。こんなに早く飛んでいるのに、呼吸が出来るんですね」
もう一時間近くはペガサスの背にいたのに、今更のように気が付いた。風の抵抗で息が吸えないこともないし、髪や服がバタバタと無駄に翻ることもない。通常であれば、考えられないことだ。
私の言葉に、サフィルさんは淡々と答えてくれる。
「それも魔力で私たちの身体の回りに薄い空気層を作ってあるからだ。あちらの世界には魔法が存在しないと聞いているから、色々と不思議に思えるだろうが」
「はい、本当に不思議ですね」
ペガサスが存在しているくらいだ。多種多様な魔法が存在していても当然なのだろう。私はただ感心したように小さな頷きを繰り返した。
そんな私にサフィルさんは話を続ける。
「こちらの世界で暮していくうちに、いずれはもっと珍しいものを目にすることになるぞ」
「もっと珍しいもの?例えばなんでしょうか?」
「そうだな……。生き物で言えば、竜だろうか」
まるで種明かしをするように、彼はどこか得意げな声音で教えてくれた。
「竜?!」
それはまさしくファンタジー世界の産物だ。
いずれ目にすることになるというのは、私でも竜に会えるのだろうか。イメージしている通りの姿であれば、ちょっと怖い。
「ディアンド光帝国、そしてこの世界における万物の長が竜だ。彼らの意向如何で、国の存続が決まる事が多々ある」
「そうなんですか?」
「智と力の頂点に立つ彼らは、この世界の行く末を常に案じている。あちらの世界とこちらの世界は別物ではあるが、二つの世界はまったく無関係いうことではないからだ」
「どういうことでしょうか?」
さっき、“裏と言っても違う世界観が存在し、独立したものだ”と言っていたのに。
前を向いたまま首を傾げれば、
「簡単に言えば、こちらの世界で起きた大きな悪事が、あちらの世界での出来事に起因していることもあるそうだ」
そう告げるサフィルさんは、この世界で起きた大惨事をいくつか年代を上げて教えてくれた。それは私がいた世界で起きた戦争や病気の蔓延などと、ほぼ同時期である。
「竜は二つの世界を見守ってくれているんですね。そう聞くと、怖くないかも」
話をしながらも足元の町並みを眺めることに夢中になっていた私は、いつの間にかサフィルさんから身が離れていたらしい。
そんな私をソッと抱き寄せ、サフィルさんが言う。
「危ないぞ、離れるな」
私の顔がうっすらと赤くなった。
それは彼に対する羞恥ではなく、危険を忘れて幼い子供同様、景色に夢中になっていた自分が恥ずかしかったからだ。
コホン、と小さな咳払いをして、私は『ごめんなさい』と謝った。
「ええと、こちらの世界だと、竜は神様のような感じなんですね」
「そうとも言える。あちらの世界では、竜はどういった存在なんだ?」
サフィルさんに訊かれて、私は子供の頃に呼んでもらったいくつかの童話を思い起こす。
「どちらかというと悪い生き物です。お姫様を攫ったりとか、悪魔の手下として国を亡ぼしたりだとか。もちろん空想の世界のお話ですけど、みんなのイメージはおおよそそんなものかと。それに比べれば、この世界の竜というのは良い生き物なんですね」
ホッとしたように言えば、思いのほか重い声が返ってきた。
「単に良い生き物というわけではない。世界を正すために、彼らは時に力でもって征することもあるんだ。しかし、大きすぎる怒りは世界を正す前に滅びを引き起こす。そんな怒りを抱いた竜を鎮めるのが、異界渡りの姫。……つまり、君だ」
「え?」
私は驚いて、大きく振り返る。
「私が?」
「その話は後で詳しく。ほら、城が見えてきた」
促されて見た先には、大きく立派な建物が聳え立っていた。
ペガサスが城のバルコニーに降り立つと、サフィルさんがヒラリと舞い降りる。そして騎上に残っていた私を抱きかかえて下ろしてくれた。
軽々と苦もなく私を抱える様子は、カゴに乗り込もうとした私を抱き上げた時と同じく、まるで自分が子供に戻ったようだった。
ストン、と両足を着けた私は頭を下げる。
「ありがとうございました。あと、こちらも」
ペガサスから降りてしまえばもう寒さを凌ぐマントは必要ないだろうと、脱いで本来の持ち主に返せば、サフィルさんは軽く畳まれたマントを広げて再び私の体に纏わせた。
「あの」
戸惑う顔で見上げれば、
「しばらく着ているといい」
と、瑠璃色の瞳が見返してくる。
「もう寒くはないですよ」
そう言う私に、サフィルさんはゆっくり首を振った。
「風に吹かれないとはいえ、王宮内はさほど温かくはない。それに……」
そう言ったサフィルさんは、マントから出ている私の腕に視線を落とす。
―――こんなみすぼらしい身体をお城の人に見られたら、私が恥ずかしいって思うから?
彼の気遣いに応じ、私は『ありがとうございます』と頭を下げ、しっかりとマントの前を掴んだ。