(17)『鍵』の役割 SIDE:サフィル
「サワッ!」
竜に対する恐怖よりもサワが害される事のほうが何倍も恐ろしかった私は、何の迷いもなく彼女とマスタードラゴンの間にジーグを滑りこませた。
そして素早くバルコニーへと降り立ち、彼女を背に庇ってグッと見据える。
「万象の長たる竜たちの、更なる長であるマスタードラゴンよ。この城に何用か!」
押し潰されそうな威圧感に負けまいと、私は声を張って問いかけた。
するとマスタードラゴンは、白銀に輝く瞳を不快そうにゆるりと揺らす。
『我は怒りを覚えておる。この国に対して、この国の民に対して』
声とも波動とも取れる独特な響きが、その場にいる者たちに届く。初めてのことに、誰もが驚愕して息を呑んだ。
辺りには計り知れない緊張が漂い、シンと静まり返る中、再びマスタードラゴンの言葉が響く。
『このまま我の怒りが収まらねば、この国を滅ぼすこと、やむなし』
その言葉に、再び誰もが息を呑んだ。
伝説の通り、竜の怒りによりこの国が滅んでしまうのか。何もかもが無に返り、そこから新たな国が興るというのか。
いくら竜の言葉とはいえ、そんな事が簡単に受け入れられるはずもない。その場に居合わせる人々の顔が緊張と恐怖で引き攣った。
しかし、マスタードラゴンの前に、私たち人間の力など風前の灯に等しいのだ。
その場に駆けつけた陛下、妃陛下、カルスト、騎士団の面々、そして謁見を求めに来ていた貴族達の誰一人として何も言えず、ただ、マスタードラゴンを見上げている。
立ち尽くす私たちをじっくりねめつけるように一瞥し、ある一点で視線をとどめたマスタードラゴンが大きく口を開く。いくつも並ぶ鋭い牙は、そこにあるというだけで私たちを畏怖させるに十分だった。
それでも私は奥歯を噛みしめ、必死に対峙する。そんな私をマスタードラゴンは軽く鼻で笑った後に言葉を投げかけてきた。
『そこに見えるは異界渡りの姫君であるな?』
私の背後にいるサワがかすかに震えた。
マスタードラゴンはサワをじっと見つめ、そして次いで私を見つめ、最後に全体を見渡す。
『姫君がこの国に姿を現したとなれば、すべき道は唯一つ』
そう告げたマスタードラゴンは、はっきりとした声でこう告げてきた。
『竜の怒りを静むるは 界を渡りし乙女のみ
新月の夜のごときその髪 その瞳
そして その身に宿る柔き肉が 赤き血が
竜の怒りを静むるなり
界を渡りし乙女の命こそ
世に静寂をもたらす 鍵ならん』
言い終えたマスタードラゴンは、一度閉じた瞳をカッと見開いた。
『我の言葉をしかと受け止めよ。さすれば、この国の未来は明るいものになろうぞ!』
大きな翼がこちらを威圧するようにゆったりと揺らぎ、その結果、辺りには小さな旋風が起こる。
その風を身に受けながら、私は愕然としていた。
―――サワの身に宿る肉と血が、竜の怒りを静める!?それはつまり、サワの命を差し出せということではないか!
異界渡りの姫君には、そんな残酷な役割が待ち受けただなんて知らなかった。
―――サワが贄になるだなんて!
私は背に庇ったサワに振り返る。
さぞや恐怖に怯えているかと思いきや、彼女は安堵の笑みを浮かべていた。サワと出逢ってから初めて目にするその表情に、私は一瞬言葉をなくす。
なぜだ?なぜ、彼女はこんな事態で、そんなにも静かな微笑みを浮かべることが出来るのだ?
「サワ?」
戸惑う私が彼女を呼べば、さらに小さく微笑み返してくれる。
そして一言、
「よかった」
と呟いた。
私は自分の耳を疑った。
「よかった!?何を言っているんだ!」
一歩踏み出て、更に彼女へと近付いた。
「マスタードラゴンの言葉を聞いただろう。つまりは、サワの命を差し出せと言っているんだぞっ!」
しかし、私の怒声にも彼女は穏やかな微笑を崩さない。
「はい。だから“よかった”と」
「なぜだっ!?なぜ、微笑んでいられるんだ!」
思わず彼女の二の腕を掴んで揺すりかける。するとサワは、不思議そうにそっと首をかしげた。
「私は竜の怒りを静めるために、この世界に呼ばれたのでしょう?なのに、どうしたらいいのか方法すら分からなかった。だからずっと、申し訳ないと思っていたんです」
ここで軽く息を吸ったサワは、穏やかに目を細める。
「それが今やっと、その役目を果たせるんですよ。何も出来ない私だけど、命を差し出すことぐらいなら出来ますから」
その微笑みは、これから死にゆく者の笑みとは思えないほど綺麗だった。安堵すら感じさせる微笑は、逆に私の心臓を苦しいほどに鷲摑みにする。
「だけど、サワっ」
彼女の名を呼べば、静かに首を横に振られる。
「いいんです、私は一度死んだ身ですから」
「……え?」
大きく目を見開いて彼女を見れば、再び彼女は静かに微笑んだ。
「私は幼いころからずっと病気を患っていて、ほとんど寝たきりの生活をしていました。私に出来ることといったら、ただ大人しく治療を受ける事だけ。薬を飲んで、治療してもらって、時には手術を受けて。そして検査を受けて、また薬を飲んで。そんな生活を何年も送るうちに、私は何のためにこの世に生まれてきたのかなって、考えたこともありました。考えたって仕方がないんですけどね」
珍しく彼女は自嘲気味に笑って、細い肩をヒョイと竦める。そして上げた肩をゆっくりと下げ、再び話し始める。
「何の役にも立たないどころかみんなに負担をかけていた私は、懸命に看病してくれる家族を前に死ぬことすらできなかったんです。いつか治ると信じている家族の気持ちを裏切って、自分の命を絶つことが出来なかった。だけど私が生きている限り、家族はずっと私のために色々なものを犠牲にしなくてはならなかったんです。そのことがどれほど苦しかったか……」
サワの微笑みに悲しみが滲む。だが、その悲しみは一瞬で影を消し、彼女はまた穏やかに微笑む。
「でも、十六の誕生日を迎えた日に容態が急変して、私はその日のうちに亡くなりました。覚悟をしていたので、そのことに対しては何も怖くありませんでした。これでようやく私の看病から解放される家族を思えば、ある種の喜びすら感じたくらいです。いくら、これで家族とは会えなくなるとしても……」
微笑みを浮かべつつも、サワの唇は小刻みに震えていた。その様子は、何かを堪え忍んでいるように見える。
ああ、そうか。彼女がこの世界に渡ってきた時に放ってきた波動の理由がようやく分かった。
彼女は自分自身をひたすらに責めていたのだ。長い間、家族を苦しめていた己の存在を。家族の看病の甲斐もなく、命を散らしてしまう自分を。
それゆえに、そんな自分の存在が家族の前から消え失せたことに、わずかながらも安堵していたのだ。
淡々と告げられる内容に、私の頭は鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
知りたいと願っていた事実がこんなにも悲しいことだったとは。予期せず知った事実に、何も言えなかった。
立ち尽くす私を前に、サワはゆっくりと目線を伏せて話を続ける。
「向こうの世界ではそんな風に過ごしてきたので、私の体は細いんでしょうね」
そう言って、彼女は自分の腕から私の手を外させた。ピャークの毛で出来たケープを脱ぎ、ワンピースから覗く腕を軽く持ち上げて私に改めて見せる。肩も腕も手首も相変わらず細く、私が握り締めただけで、簡単に折れてしまいそうだ。
痛々しい物を見るような気遣わしげな視線を向ければ、彼女は緩く首を振った。
「こんな風に見えても、あちらの世界にいた時に比べればだいぶ健康的なんですよ。何より、寝たきりじゃないんですからね。自分の足で立って、身の回りの事は自分で済ませる。それが出来るだけで十分なんです」
少しばかり満足そうに口角を上げたサワは、ケープを羽織り直す。
「まぁ、私の体のことはどうでもいいんですけど」
ここでサワは一旦下げた視線をスッと上げてきた。
「私は死んだ人間です。だから、もう一度命を捨てることなど簡単なんですよ」
至極あっけない口調でそう言って、先程からこちらのやり取りをジッと見ているマスタードラゴンの元に向かおうとした。
その彼女の肩へと、とっさに手を伸ばす。
「命を捨てることが簡単なことだと!?馬鹿を言うな!サワは今、生きているじゃないか!!だから生きろっ!!」
私は細い細い彼女の肩をグッと握り締めた。