(15)ライバル登場 SIDEサフィル
――まさか、思わぬところに伏兵がいたとは……。しかも、コイツは人間では無いし。
その日は何となく寝付けないため、ジーグに乗って夜の散歩に出た。その帰り、バルコニーで月を見上げているサワの姿を見かけたのだ。
真摯な表情で手を組み、熱心に祈っているその姿は、月の女神のように神々しい。自分よりもだいぶ年下のはずである彼女のその姿は、犯しがたい清廉さを放っていた。
うかつに近づいてはいけない空気があり、しばらくサワのそんな眺めていたのだが、ジーグが私の意思を無視してバルコニーへと降りてしまった。
いままでこちらの命令には絶対服従で、しかも私以外の者にはけして近付こうとしなかったジーグが進んでサワの元に降り立つ。
それだけでも十分驚くべきことなのに、夜風に吹かれて小さなくしゃみをした彼女に、ジーグが自ら寄り添ったのだ。
こんなこと、今までに一度だってなかった。それに少し驚いて立ち尽くしていると、目の前でサワ自身もジーグとの距離を詰める。彼女は華奢な手をジーグへと伸ばした。
その様子に、心の奥が不快な感情でざわめく。
どんな些細な事でも、サワに関わるのは私だけであってほしい。彼女が触れるのは、私だけであってほしい。
見た目も存在も儚い彼女支えたいと考えるのは、単なる庇護欲によるものだけではない。サワを好きだという想いがさらに深まり、愛しいという感情が自然と湧き上がり、その想いは私の胸の中で確固たる存在を示している。
ほっそりとした指でジーグの顔を撫でるサワを見ていたくなくて、強引にジーグから彼女を引き剥がすと着ていたベストを羽織らせた。
とたんに俺に対して歯と敵意を剥き出しにするジーグ。主人の私に張り合おうというのか。ペガサスのくせに、随分といい度胸だ。
「ジーグ、厩舎に戻れ」
しかし私の言葉には従わず、それどころかそっぽを向いてから、サワに頬ずりし始めた。
腹の底が怒りで熱くなる。
「ジーグ!」
怒鳴りつければ、ジーグは腹立たしげに鼻を鳴らし、そしてものすごい目つきで睨み付けてくる。
こちらも視線の鋭さを強めれば、やがてジーグはしぶしぶという感情を振りまきながら厩舎に帰っていった。
まったく、この国一番の気難し屋があんなにも容易くなつくとは。それだけ、サワの魂が綺麗だということだ、――こんなに傷ついているにも拘らず。
ペガサスは人の心の奥底に眠る、本人ですら自覚のない感情でさえも見抜く事ができるという。それゆえ、ペガサスに触れることは簡単ではない。
ましてやペガサス自ら近付いてゆくことなど、これまで話に聞いたことがなかった。
それがどれだけ重大なことなのか知らないサワは、ただうっとりと飛び去るジーグの後ろ姿を見上げていたのだった。
その夜以来、ジーグはサワのいる部屋にやってくるようになった。
私が書類処理や会議に追われて執務室から出てこられないのをいいことに、好きな時に厩舎を飛び出し、バルコニーでサワと共に過ぎしている。
サワもそれを楽しみにしているようで、私が彼女の部屋を訪れると、嬉しそうに僅かに微笑んでジーグを撫でていた。
あの小さな手でジーグの鬣に触れ、時折優しく話しかけている。
ジーグはとても賢く、正確に人語を解するので、言葉としての返事はなくともサワの呼びかけにはいななきや態度で示していた。
今日もサワはジーグのそばに立ち、鼻筋を細い指で撫で下ろしている。
そこに言葉はなかったが、ジーグを見つめる彼女の瞳はとても優しく、そしてサワを見つめ返すジーグの瞳も慈愛に満ちている。
彼女は私にあのような微笑みは向けない。いや、私だけではなく、誰に対しても。
なのに、どうしてジーグにはあの穏やかな微笑を簡単に見せるのか。そして、どうして何のためらいも無くジーグに触れるのか。
この私にさえ、彼女自ら手を伸ばしてくれた事などいまだ一度も無いのに。
無意識に噛みしめられた奥歯が、ギリッと鈍い音を立てる。
私は存在を知らしめる為にわざと足音を荒立て、バルコニーへと近付いた。
「ジーグ!」
私の怒声にサワがビクリと身を竦め、すぐさまジーグから離れた。
「ごめんなさい。サフィルさんの大切なペガサスなのに、馴れ馴れしく触ったりして」
サワは小さい体をこれ以上ないほど小さくして、私に頭を下げてくる。しかし、実際に謝って欲しいのは彼女ではなく、ジーグだ。
「こんなところで何をしている。今は清めの泉で禊をする時間だろう?」
あからさまに怒気を含んだ低い声で話しかけるが、当のジーグは何処吹く風。サワが私の登場と共に離れた距離を素知らぬ顔で詰めると、ジーグは艶やかな黒い瞳を喜色に染め、サワの髪に頬ずりしている。
私の言葉など完全に無視だ。これではどちらが主人か分からないではないか。
「ジーグ!!」
もう一度怒鳴りつけて、一歩前に出る。
すると、サワが私とジーグの間に割り入った。
「この子は私が寂しそうにしていたから、それで傍にいてくれたんです。だから怒らないでください。悪いのは私なんです」
震える細い腕を広げてジーグの前に立ちはだかり、申し訳ないという顔で私を見上げてくる。
そんな彼女を見て、怒りを持続させられることなどできない。そもそも、私はサワにこんな顔をさせたかったわけではないのだ。
ふぅ、と深く息を吐いて怒りをどうにか鎮めさせる。
「いや、私の方こそ怒鳴ったりして悪かった」
謝罪の言葉に、サワは上げていた腕をゆっくり下ろした。
「いいえ。私のわがままにこの子を付き合わせてしまって、本当にごめんなさい」
サワはクルリと振り返り、ジーグの鼻先にそっと触れる。
「あなたのお陰で、私はもう寂しくなくなったわ。ありがとう、ジーグ」
ほっそりした指先でジーグを優しく撫で、そして、愛おしそうに名前を呼ぶ。
その様子に、私の怒りが再燃する。
――ペガサスの分際で、親しげに呼び捨てにされるとは!
サワにしてみれば、人ではないペガサスだからこそ、簡単に呼び捨てにできるのだろう。
だが、私としては納得できない。
「ジーグ、いい加減に泉へ向かえ。そしてサワ。今日は風が冷たいから、すぐに中に入るように」
そう言ってジーグからサワを引き剥がして、自分の胸に抱き寄せる。
「サワは魔法が使えないから、体が冷えやすい。この国が今は春のような陽気とはいえ、長い時間バルコニーにいるのは感心しないぞ」
自分の腕の中にいる華奢な彼女を見つめて真剣な口調で告げれば、素直な彼女はすぐに頷く。
「心配かけてごめんなさい。これからは気をつけます」
眉毛を少し下げてシュンとなる彼女には、私の胸の奥で渦巻いている感情が理解できない。だからこそ、サワは深読みすることなく俺の言葉に従う。
それがとてつもなく歯がゆいのだが、自分の気持ちを今の彼女に伝えたところで受け入れてはくれないだろう。
サワは“異界渡りの姫君”という自分の立場を受け入れるので精一杯のはずだから。
「謝ることはない。ただ、寂しかったら私を呼べばいい。気遣いや遠慮は無用だと、何度も言っているだろう」
「でも、そんなに寂しいというわけでないですから。サフィルさんがいなくても大丈夫です。どうぞお仕事に励んでください」
いまだにぎこちなさが残る微笑で、サワが私に言う。
その様子が心底悔しい。
――どうしてサワは、わがままを言ってくれないんだ。
彼女のわがままなら、いくらだって聞いてあげたいのに。
彼女が望むなら、なんだって叶えてあげたいのに。
そうやって繰り返し伝えても、サワはなにも言ってこない。
あちらの世界でサワの身に何があったのか知らない私は、この歯がゆさを必死で押しとどめる毎日だった。