(9)月夜の祈り
この世界に来てから三日が経った。
今のところ、異界渡りの姫君としての仕事はない。そもそも、自分が何をするべきなのか知らないので、どうすることもできないのが現状だ。
とりあえず、夜になると部屋に面しているバルコニーへ出ることに決めた。
夜着用のワンピースの上に、ピャークという羊に良く似た動物から取った毛で編んだケープを羽織る。そう寒い訳ではないけれど、三階にあるバルコニーには時折風が吹いてくるのだ。
上着の前を重ね合わせ、しばらくお城の庭と城壁の外の景色に目を遣る。
それから星空を見上げ、厳かに祈りを捧げる。
この国の人たちが幸せでありますように。
光帝陛下、妃陛下、サフィルさん、カルストさん、エーメルドさん、お城で働く人たちが何の心配もなく過ごせますように。
町で暮らす人たちが、不安に思うことがありませんように。
こんなことで竜の怒りが治まるとは思えないが、何もしないでいるのは心苦しいのだ。
私は胸の位置で指を重ねるように手を組み、静かに目を閉じた。
―――どうか、みんなが幸せでいられますように。私に出来ることは、何でもします。
そうはいうものの、たった十六歳の私に何が出来るだろうか。しかも、人生の大半を病院のベッド上で過ごしてきたこの私に。
一瞬心が挫けそうになるが、頭を緩く振ってからふたたび祈り続ける。
すると、頭上から羽ばたく音が降ってきた。
見上げてみれば、満月の明かりに照らされた一頭の大きなペガサスが宙にいる。
―――どうしてこんなところに?
首をかしげているうちにペガサスはこちらにやってきて、バルコニー内にフワリと降り立った。
そのペガサスの背からヒラリと降りてきたのはサフィルさん。
こんな時間にペガサスに乗っていたなんて、どこかで訓練でもしていたのだろうか。それにしては、服装がとても簡素だ。
初めてあの大樹の下で会った時は、一目で騎士団と分かる格好をしていた。ところが、今は白いドレスシャツに、少し裾の長いベロア素材のベスト、そして軍服用よりも生地の柔らかいズボンに、膝丈のブーツ。一見して普段着だ。
―――どこかに出かけた帰り?
不思議に思っていると、サフィルさんが声を掛けてきた。
「ここで何をしている?」
「お祈りをしています」
そのまま答えたら、眉を寄せられた。
「お祈り?」
「はい。竜の怒りを静めるために何をしたらいいのか分からないので、とりあえず祈ってみようかと」
『何を無駄なことを』と言われるかと思ったけれど、彼は神妙な面持ちで頷いてくれた。
「そうか。何を祈った?」
「ありきたりなことですけど、この国の平穏を」
私の答えを聞いて、サフィルさんがふたたび眉を寄せる。
「元いた世界に戻りたいとは願わないのか?」
「……願えば叶うのですか?」
その問に、彼は目を伏せて首を振った。
「いや、それは分からない。異界渡りの姫君が元の世界に戻ったという文献は残されてないんだ。ただ、いきなり知らない世界につれてこられたのだから、自分がいた世界に戻りたいと願ってもおかしくはないと私は思うのだが。出来ることなら戻りたいのだろう?」
まるで戻ることを望むのが当然のような口調で語りかけられ、私は困ってしまう。 それは自分の思いと真逆だから。
記憶にあるのは、家族の誰もが私に気を遣う日々だった。そんな家族を見て、どれほど私は肩身の狭い思いをしたか。『ごめんなさい』と、何度心の中で謝ったことか。
私の体が病気を心配しないで済む保証がないのであれば、戻りたいと願う気持ちは湧いてこない。
大好きな家族に会えないのは寂しいけれど、大好きだからこそ、みんなに負担を掛けたくなかったから。
「私は……、元の世界に戻りたいとは思いません」
そう言って、私はキュッと口元を結んだ。そんな私を見て、それ以上サフィルさんは何も訊いてこなかった。
サフィルさんが何も言わないので、もう話は終わったのだろうと勝手に思い、私はお祈りを再開した。
熱心に祈っていると、夜風がさわさわと私の髪を撫でる。そんな中でしばらく祈り続けていると、やたらと視線を感じた。
目を開けて横を見れば、サフィルさんと目が合う。どうやら彼は腰まで伸びた黒髪がやんわりと揺れる様子を、熱心に見ていたらしい。
どうして見られているのか分からなかったので、素直に尋ねる。
「何でしょうか?」
すると、サフィルさんは視線を逸らすことなく、ポツリと呟いた。
「綺麗な髪だと思って」
「そうでしょうか?」
私は自分の髪を一房手に取った。
どんなカラクリかは分からないが、この世界に来た途端、肌の艶だけではなく、髪の艶も増した。
―――そう言われてみれば、綺麗かもしれない。
僅かな月明かりを浴びて、濡れたように輝く自分の髪。艶やかな黒は重さを感じさせず、どこか神秘的だ。
―――すごい艶々で柔らかい。まるで黒く染めた絹糸みたいだ。
手に取った髪を空いているもう一方の手で撫でていると、クシュンと小さなくしゃみをしてしまった。
寒いとは思わないが、あまり長いこと夜風に当たるのも良くはないだろう。
でも、もう少しだけ月を見ていたい。今夜の月は、なんだか特別綺麗に見えるから。
私の心情に気づいたのか、サフィルさんの後ろに控えていたペガサスが私にソッと寄り添った。
その体温は私のものよりもはるかに高く、夜風の寒さを和らげるのに十分だった。
「ありがとう。とても温かい」
私はペガサスの鼻筋を指先で撫でてやる。
するとペガサスが嬉しそうに目を細め、もっと撫でろと言わんばかりに私へ頬ずりしてきた。
「くすぐったい」
何度も擦り付けられる頬に口元を微かに緩めると、突然後ろから大きな手に肩を掴まれてペガサスから引き離された。
「え?」
斜め後ろを見上げれば、サフィルさんが難しい顔をしてペガサスを見ている。
「ジーグ、調子に乗るな」
低い声でそう告げたサフィルさんは、たしなめると言うよりも威嚇しているようだ。
―――どうしたんだろう。
首をかしげていると、サフィルさんは自分のベストを脱いで私の肩にかけてくれた。
「これには寒さを凌ぐ魔法がかかっている。だから、これを着ればいい」
「それだとサフィルさんが寒いでしょう?私はこの子に温めてもらいますから」
と言ってベストを脱ごうとすれば、すぐさまその手を掴まれて動きを止められる。
「大丈夫だ。やわな体はしていないと言っただろう」
なんだか不機嫌そうなサフィルさん。彼の申し出を断ったから?まぁ、人の厚意はありがたく受け取っておくべきだろう。
「わかりました、お借りします」
ペコリと頭を下げて、私はベストをしっかり肩にかけた。
その様子に満足したのか、穏やかに微笑むサフィルさん。なぜかその後ろで、ペガサスが思い切り歯を剥き出しにしていた。心なしか怒っているようにも見える。
「ジーグ。もう遅いから、厩舎に戻れ」
サフィルさんの言葉にジーグと呼ばれたペガサスは一度ツンと横を向くと、サフィルさんの横をすり抜けて私に頬ずりしてきた。
「ジーグ!」
大きな呼びかけに、ジロリと一瞥をくれたペガサス。フンッと勢いよく鼻を鳴らすと、宙に舞い上がって城の東側へと飛んでいった。
月光の中に飛ぶ純白のペガサスはとても綺麗で、つい見惚れてしまう。
そんな私の後ろにサフィルさんが立った。
風を遮るように、私にピタリと寄り添う。そのおかげなのか、周囲の空気がフワリと温かくなった気がした。
部隊長である上に王子ということで、その身に纏う空気は気高く近寄りがたいものがあるのだが、私にはとても温かく感じる。
―――不思議な人だな、サフィルさんって。
首だけで振り返ってボンヤリと彼を見上げていると、形のいい眉がキュッと寄った。
「ジーグが馴れ馴れしくて申し訳ない。怖くなかったか?」
「謝らないでください。少しも怖くなかったですよ」
本の中でしか存在しなかったペガサスに間近で触れることが出来るのだ。怖いどころか、むしろ嬉しい。
だけど、サフィルさんはやたらと心配そうだ。
「そうか?アイツは他のペガサスよりも体が一回り大きいから」
「でも、本当に怖くなかったです」
私が少しだけ目を細めると、サフィルさんはフッと表情を緩めた。
「それならばいい」
「あの子、ジーグと言うんですね。オスですか?」
名前の響きから性別を推測すれば、『そうだ』という頷きが返ってくる。
「他にもたくさんペガサスがいるが、アイツがこの国で一番立派で有能なオスのペガサスだ」
私がいた世界ではペガサスなんて想像上の動物だったけれど、この世界ではかなり馴染みのあるものらしい。
「どのペガサスもあんなに人懐っこいんですか?」
私の問いかけに、サフィルさんの顔が渋く歪む。
「……いや。ペガサスは本来気難しくて、人に慣れることはない。訓練に訓練を重ねて、ようやく人を乗せる事ができるようになる。特にジーグはどのペガサスよりも気難しくて、私以外の人間に自ら触れることなどしないのだが」
不思議そうというよりも憎々しいといった口調のサフィルさん。なぜ、彼は機嫌が悪いのだろうか。
不機嫌な理由など聞き出すのは失礼だと思い、私はそれについて追究することをやめる。
「そんなペガサスに気に入ってもらえたようで、私、嬉しいです」
素直な感想と共にほんの僅かに微笑むと、サフィルさんはますます渋い顔をしたのだった。