針状結晶 Needle Crystal
深い闇の中、一人の女は待ち続けた。
空調が申し訳程度に稼働した部屋。澱んだ空気、窓のない部屋。機械特有の低い稼動音が場を占める。
女はパイプ椅子に座っている。それは腕を組み、静かで眠っているようにも見える。
あと三分。彼女は時計に目をやり、残りの時間を数えている。
一分前になるとぞろぞろと人が部屋に入ってきて人口密度がます。湿度も上昇し、一気に不快指数も増大する。
スクリーンに一人の女性が映された。年の頃は二十代前半だろうか。しかし、画像が悪い。
「これは終戦間際に撮られた写真だ」
男はゆったりとした口調で話し出した。
「先週から高度30万 mの軌道上に未確認飛行物体が現れたのは知っての通りだ。先日、外務省を通して我が地球外知的生命体対策部に対して通達があった。出処がアメリカというのが不本意だが。ともあれ、内容としては配布した資料のとおりである。『預けたマターを返せ』端的に言えばそうなる。先週から地球全土である種の信号が観測されるようになった。それは未確認飛行物体が現れたと同時期だ。聞くところによると、この信号を解読すれば旧日本軍が使っていた暗号に一致するというから間抜けな話だ。っと、そんなことはどうでもいいか。そのマターというのが何なのかはわからないが、その写真の女性が所持しているらしい」
らしい、という表現を使うことの少ない人物が憶測で物事を話すという事実はここにいる全員に衝撃を与えた。それほどまでに緊迫した状況であるといえる。
「当時でも特秘事項であったようだが、大戦の終戦前に軌道上のあれと同規模の未確認飛行物体が地球に来ていたらしい。そして、あまりにもくだらない人類のやり取りを見て一つの試みとしてマターを与えられた。資料でもどういうものかはわからなかったが、各国のマターを扱えそうな人物のみで争わせてある人物に授与されたらしい。それが写真の彼女だ。当時を知る者も既にほとんどいないからな。何を以て競わせたのかも不明だ。ただ、各国から集められた人物達は一応に魔女と呼ばれる存在だったそうだ」
ここでその言葉の意味がわからないものはいない。
魔女、それがどのような力で奇跡を起こしているのかわからなかった。だが純然たる事実として魔女たちは存在した。魔法、いかなる技術を以てそれを行使しているのかはわからなかった。しかし、古来よりその魔法は畏怖の対象であり、また魔女自身は兵器として用いられてきた。
空を駆け抜け、炎を自在に操り、人を惑わす。
現在ではその数を減らし、科学技術の発達した現在では魔法は既に過去の産物となっている。
「彼女も有名な魔女だったのではないかと推定できる。それよりも問題なのはアメリカ、イギリス、中国と各国も動いているだろう。どこの国がそのマターとやらを返そうがいいのだが、その国が目先の利益のみを追求して返還しないとも限らない。ちなみに、二週間以内に返還しないといけないんだってさ。大変なことになるんでそこのところ、よろしく。はい、解散」
慌ただしく退席する者たちの中にあって彼女は動かなかった。そうして彼女と男だけが残った。
「部長、その人もう亡くなっているんですよね」
「そうだけど? ああ、君のところにも動いてもらうから。車も準備してあるんでしょ。ほらほら行かないと時間がなくなっちゃうよ」
「わかってますよ。ところで、そのマターを回収したら日本はどうするんでしょうか?」
「んふふ。内緒です」
気持ち悪い笑みを浮かべて女を見る。男はいつもこのようにはぐらかしているので女は別に気にしていないようだ。
「そうですか。では私も行きます」
興味がなくなったのか女は無表情になりそのまま部屋を出ていった。
「気をつけて」
男は誰に対して言ったのか。
駐車場に向かえば既に車は準備されており、三人の男が乗っていた。
皆が黒のスーツを着込み、耳元にはイヤホンが伸びている。
「各員、00(まるまる)より異常の有無を報告せよ」
女はスーツについた黒塗りのバッチを一瞥し、
「01(マルヒト)異常なし」
イヤホンからは16(ヒトロク)まで異常なしが聞こえた後に、異常なし感度良好終わり、と低音を響かせた声が聞こえてきた。後部座席に乗り込むとモーターの駆動音がし、静かに車は動き出した。後ろには同型の黒塗りの車が追尾いしている。
「三号車、四号者は既に向かっています」
助手席に座った男が口を開いた。後部座席に座った男からは資料が手渡された。
故人の夫、義理の息子、孫娘の三人暮らし。義理の息子は海外へ単身赴任中であることが示されていた。その中で魔女は義理の息子となっている。
「能力は?」
「ダウジングを用いた探索能力です。現在は中東を中心に油田開発に関わっています」
三枚の写真には白髪の混じった初老の男性。優しそうな目元をした三十歳代の男性。そして、小学校高学年と思われる女の子の写真があった。資料には年齢も書いてあり、それにも目を通している。
初老の男性は数年前まで宇宙物理学を専門としていた大学の教授で現在は故人の故郷で隠遁生活をおくっている。孫娘も同居している。
「なるべく傷つけるな」
了解、と返信がある。
もっとも、抵抗されればその場限りではない。最悪手足が欠損していても命に関わらなければ問題ない。彼女たちが行動するということはそういうことだ。
高速道路を使用したとしても片道六時間はかかる距離だ。
先行している組みの二時間後に到着予定であり、女性は静かに目をつむった。
先行していた二台の黒塗りの車は高速道路を降りて一般道に侵入した。
故人の家の敷地は大きかった。山を含めると東京ドームが十では済まない広さである。そのほとんどが山と湖であった。
目的地に近くなったところで工事中で進めず、迂回することとなった。
「00、05」
『送れ』
「目的地周辺が工事中で先に進めない。この地域で工事予定があるか調べてくれ」
『了解。終わり』
男は嫌な予感がしていた。
『05、00』
「どうだ?」
『警察にも届けがある。が、改竄跡が見られる』
「了解。終わり」
その男の予感は確信に変わっていた。
「通知」
イヤホンからは何も応答がないが、その無音が緊張させる。
「目標は既に制圧されていると推定される」
女は部下からの報告を受けて目を開けた。
アメリカからの通達という時点で出遅れていたのだ。部長と呼ばれた男の余裕は既に手遅れであることを悟っていたのだろう。
「そのまま続行し、目的地についたならば状況を報告せよ」
冷たい言葉が場を占めた。
そして女は再び瞼を閉じた。
遡ること二十四時間前。
広範囲にわたって道路の交通統制が行われた。理由は単純なもので上下水道の工事。住民はあまり気にすることはなかった。愛想の良い工事現場の人。夜には工事は行われず、断水すら無し。不満はなかった。
二十時間後、男が呼び鈴を押すと、ピンポンと軽い音がした。
引き戸が開けられ、出てきたのは女の子だった。彼女の孫娘だろう。
「おじいさんはご在宅かな?」
男はできるかぎり優しく、女の子に威圧を与えないよう配慮した物言いだった。女の子は一瞬びくりと肩を震わせたが、扉を閉めることなく走って行った。
「おじいちゃーん、怖い人がきたー」
女の子に悪気はないのだろうが、その言葉は男を的確に表していた。男はアロハシャツに膝までしかないパンツにサンダル、そしてサングラスに金髪。日本人ではない風貌だが、日本語を流暢に操るというツギハギな感じを与えていた。
男の後ろには同じような服装を着た二人の男。さらに離れた場所にはスーツの男が待機していた。
「なんじゃなんじゃ」
ぱたぱたと初老の男性は孫娘に押される形でやってきた。
「すまんが、どちらさん?」
「博士、我々と来ていただきたい」
男は女の子にした柔らかい口調は成を潜め、低く高圧的な態度で初老の男性に言った。
「礼儀を知らんやつじゃの。そのような申し出は断るに決まっておろう」
「そうですか、少し手荒なことをしてしまいますが、ご了承願います」
男は言い終わらないうちに博士に対して抜き手を放った。
骨の折れる音がし、男は目を見開いた。男の腕は関節ではない場所で折れ曲がっていた。
「おじいちゃん」
女の子の言葉には不安がありありとでていた。
「心配ない。下がっとれ」
博士は目の前の男の胸部を殴ると、男は数メートル飛んだ。呼吸は浅く、肋骨が折れていた。
「汗かきそうだから風呂の準備をしておいてくれ」
「うん」
女の子は一度ほど彼を見たあと早足で家の中へと消えていった。
男たちは各々武器を取り出して博士に向かう。
「殺すなよ、在り処がわからなくなる。チャーリーは子供を確保せよ」
「行かせぬよ」
博士は二秒のうちに二人を昏倒させ、ついで五人を殴り倒した。チャーリーと呼ばれたグループは即座に作戦の失敗を悟り、退避しようとしたが、後ろ姿を向けた瞬間に六人全てが昏倒された。
敷地の外で待機していた男は現状を把握する前に、車から銃を取り出した。銃を取り出すまでは良かったが、相手を視認することなく倒された。
博士と呼ばれた彼は年の割に背筋は伸び、肩幅も広かった。だが、大の大人を二人も簡単に担ぎ上げることができるようには見えない。彼は伸びている男たちを庭に立ててある倉庫に乱暴に投げ込み、外から鍵をかけた。中からは鍵があかないようになっている。見立てでは数時間は目が覚めないだろう、目覚めたとしてもそうやすやすとは外には出ることができないだろう。彼は彼らの銃を回収し、池に投げ入れた。
「おじいちゃーん、もうシャンプーがきれそうだよー」
家の中から大きな声で呼ばれた。男は新しいシャンプーを出すために家の中に入っていった。
倉庫に投げ込まれた男たちは二時間ほどで覚醒した。幸い無線は取られておらず、仲間に連絡をすると十分ほどで外に出ることができた。
「博士たちは?」
男は骨折をしていたが、それに構わず質問をした。
「もういない。今は追跡と家の中を調べている。君達は外のトラックの中で待機だ」
何人か自力では歩けなかったが、三トントラックの荷台に押し込まれる形で待機し、暫くすると動き出した。
「どうします?」
助手席の男は後部座席に問いかけた。
「課長が到着するまで待とう。この人員では不安要素が大きすぎる」
「了解」
「01、04」
送れ、と流れてくる。
「課長聞いておられましたね。このまま待機します」
『わかった。一時間後に合流、その後何人か拉致する。終わり』
課長と呼ばれる女性は冷酷だった。いや、冷酷さも兼ね備えていた。男はその女性のことを尊敬していた。仕事となればなんでもやるその姿勢を。その女性の部下たちも優秀だった。
暫く様子を伺っていると、慌ただしくなった。何人もの人間が目的の敷地内に入っていき、傷ついた人間を運び出していた。そのまま工事用のトラックに入れられるとトラックは動き出した。
男はすぐさま動き出した。あのトラックを襲撃する為に。
道路が封鎖されているために人気はあまりない。
彼女の部下はトラックを襲い、運転手と助手席の人間を殺害した。素早く運転席に乗り込み運転を開始した。道を逸れて山中へと向かう。銃声がしたにもかかわらず荷台は静かだった。騒いだところで事が好転することがないことは知っているようだ。
荷台を開けると十一人の人間がいた。誰も彼もが少なからず怪我をしていた。一人残さず外に出したあとで、男は口を開いた。
「所属、目的は?」
男の声は優しかった。まるで子供に話すように。しかし、誰も口を開こうとはしなかった。
男は一番軽傷であろう男の前に行くと、二人が押さえつけた。右手を出させ、親指の爪を躊躇なくはがした。
「ああああああ」
野太い男の声がした。しかし、山の中。近くに人影はない。
「誰でもいいぞ」
誰も答えなく、男の苦悶する声が響いていた。男はさらに人差し指の爪を剥がした。そうして右手の指の爪を剥がしたが、誰も答えなかった。
「時間がないんだけどな」
二人目の右手の爪を全てはがした。今度は三十秒もかからなかった。跪いている人間の右手の爪は全て剥がされた。
「うーん、じゃあこうしよう。吐いてくれたら殺さない。でも吐かなければ爪を剥いだあとに指を折る。そのあとで切り落とす。吐かなかった簡単には殺さないから安心してくれ」
簡単には殺さない、その言葉が決め手になったのだろう。一人の人間が話し始めた。その人間はアメリカの諜報員と名乗った。目的は男と同じであった。
「ありがとう。安心して、殺さないであげるから。もっとも、俺たちはだけど。警察には連絡しておくからあとはご自由に」
男は車に乗り込み、上司と会うべく車を走らせた。
博士が風呂から上がりさっぱりすると、女の子がやってきた。
「準備は出来たかい」
「もちろんよ」
彼女は可愛らしく屈託のない笑顔で彼を見た。
「そうか、ワシの準備も手伝ってほしいな」
「やーよ。おじいちゃんの荷物臭いんだもの」
臭いという言葉に反応して彼の肩が下がる。着替え終わって荷物をまとめると、長い廊下を辿って裏口に出た。
「ちょっと遠出するけどいいかい?」
「もちろんよ。それなら湖をわたって隣町にでましょうよ」
彼は一瞬考えた後に同意した。
裏口から数十メートルほど山を登ると所有の湖が見えてきた。道は整備してあり、彼はここに来てこの湖を眺めるのが好きだった。彼女も好きでよくここに来ては湖を眺めている。
「いくわよ」
彼女は湖に左手をつけた。水面がかちりかちりと音を立てて白く固く濁っていく。
「これくらいかしら」
彼女の手が離れることには広大な湖は白く凍っていた。
「全く素晴らしいな。彼女もすごかった。君はきっとおばあさんと同じくらい素晴らしい魔女になれるよ」
「本当?」
「ああ、わしが保証する」
「わー」
彼女は楽しそうに両手をあげてくるくると凍った湖の上を歩く。
「こらこら危ないぞ」
「大丈夫よ」
言ったそばから臀部から彼女は氷の上に落ちた。
「ほら」
「いったーい」
「気を付けないさい」
彼は彼女に手を差し伸べ、彼女はそれにつかまって立ち上がった。
「あまり時間もないだろう、走るぞ」
彼は少女を肩車し、氷を蹴った。足元の氷は破壊され、素晴らしい速度で湖を走り抜けた。
彼と彼女が走り抜けたあとには湖面が不快な音を立てながら大小様々な氷を浮かべていた。