10話 王宮と日常
主人公不在。
ひっそりと静まり返った王宮の一角。
真っ直ぐに伸びる石畳の回廊を、長身の男が軽い足取りで進んでいく。
炎ような紅い髪に深い青色の瞳。鍛えられた身体は筋肉質だが、無駄がなく引き締まっている。
精悍な顔立ちはまさに男盛りといった雰囲気を全面に押し出し、さりとてむさ苦しさは感じさせない清潔感も同居させていた。
男は何気なく歩いているように見えて、そこに隙や油断は一切見当たらない。
肩に銀糸の二本線が入った黒服を身に着け、腰には装飾のない実践的な剣を佩いている。
王宮において帯剣を許されているのは警備の騎士を除けば、それ相応の地位を持っている者だけである。
容姿はまさに武人といった風体のこの男エゼルト・ハインフェルは、王立騎士団第二師団団長という肩書きを持っていた。
実力を以って若くしてその地位についた男は、今では騎士を目指す若者たちの憧れの的だ。
時々すれ違う見回りの騎士たちから尊敬の眼差しと挨拶を受けながらさらに歩いていくと、白壁の堅固な建物が見えてくる。
研究棟、あるいは実験棟と呼ばれる建物だ。
王宮の片隅にあるここでは主に防衛魔法に関する研究・実験が日々行われ、その内容は国家最高機密とされている。
国の防衛機能の要であるから、それも当然ではある。
見た目にはそれほど厳重とも思えない警備だが、その実、周囲には数種類の魔法障壁が幾重にも張られ、外部からの攻撃や侵入者に備えは万全となっている。
さらに、魔法研究の実験所という役割もあるため、防音や衝撃にも強い造りとなっていた。
有事があれば篭城戦もできるようにと食料庫も備えられ、そこがいかに重要な拠点かを表している。
しばらくすると回廊の終わりが見えてくる。
建物の入り口には見張り番の騎士が二人、槍を構えて立っていた。
「よう、ごくろーさん」
片手を挙げて労いの言葉をかけると、若い騎士たちは目に見えて緊張して槍を構えなおす。
「ハインフェル閣下!」
「お、お疲れ様です!」
「閣下ってのは俺の柄じゃないからやめてくれよ」
「も、申し訳ありませんっ」
「ははっ、そう硬くなるなって。まあ、個人的な感情論だ。なにも異常はないな?」
「はい! いつも通り、棟内小規模爆発が数件あっただけであります!」
「それは……いつも通りでいいのか」
普通、爆発と聞けば大事件なのだろうが実験棟では日常茶飯事。
そのことを改めて指摘されたようで、エゼルトは苦笑した。
「この後も気を抜かずに頼むぞ」
「はっ!」
「畏まりました!」
二人の騎士に見送られ、エゼルトはその建物へと足を踏み入れた。
周囲には障壁など特殊な警備がなされているものの、窓が少ないことを除けば建物内部はいたって普通だ。
ただし、奥に進むにつれて迷路のように入り組み、複雑になってくる。
それを迷わず歩いていくエゼルトは、この場に何度も足を運んでいることの証でもある。
幾度も角を曲がり、階段をいくつか上り下りし、初めて訪れた者なら自分がどこにいるかすら分からなくなる頃。
エゼルトは目的地に着いた。
部屋の前では顔見知りの文官が困ったように立ちつくしている。
「おう、どうした?」
「ハインフェルさま! いえ、その……」
「なかにいるんだろ?」
「いらっしゃいますが、今はやめたほうが……」
文官は言葉を濁すが、エゼルトは気にした様子もなく扉へと向かった。
ドンドンと扉を数度叩くと、部屋の主人の返事も待たずに開け放つ。
「おーい、旅支度は進んでるかー?」
「エゼルト、うるさい」
「うわっ!」
間髪いれず室内からエゼルトの顔面めがけて飛来したのは数百ページはあろうかという分厚い本だ。
ぶつかる寸前で受け止めると、チッと舌打ちが聞こえてきた。
さすがのエゼルトもこれには怒りが沸いてくる。
「おい、ロベルス! 危ないだろうが!」
「黙れ」
二度目の本が飛来し、とっさに避ける。
開いたままの扉の向こうから小さな悲鳴が聞こえたが、とりあえずは無視。
これ以上室外に被害が及ばないように扉を閉めてから振り返る。
「だから、危ないって言ってるだろ!」
睨みつけるその先、部屋の中央に設えられた執務机の向こう側には、冴え冴えとした美貌の男がいた。
太陽のような黄金の髪は無造作に背中へ流され、対する氷のような蒼い双瞳はわずかに眇められている。
白い衣を纏ったその姿は、神官だと言っても差し支えないほどの神々しさである。
微かにでも微笑めば、万人が虜になろうというものだ。
それなのに、その顔に浮かぶのは無表情。
付き合いの長いエゼルトからすれば『不機嫌そうな』顔を隠そうともしない。
ロベルス・ゼルフォード伯爵。
魔法防衛府副長官の地位に座す男だ。
エゼルトとは年齢が近く、道は違えど同じように若くして出世したためになにかと一緒になることが多く、いわば腐れ縁というやつだ。
普段はもう少し愛想がいいのだが、なぜか今日は虫の居所が悪いらしい。
役職柄、仕事の多い彼はほぼ実験棟の住人と化していて丸一日外に出ないことも多々ある。
ここは彼に与えられた執務室であり、奥の扉の向こうは完全なる私室となっている。
一通り気は済んだのか、再び手元の書類に目を落としたロベルスの姿に、エゼルトははぁーとため息を吐く。
執務机の横を通り、無遠慮に私室の扉に手をかけ中を覗くと、寝台の上に数枚の服が詰められただけの鞄が置いてあった。
これから出かけるとは思えないほど、なにも準備されていない。
「ん? まだ全然手付かずじゃないか。俺が手伝ってやろうか」
「結構だ」
「ははっ、遠慮するなって。馬車の旅は退屈だろうから、俺秘蔵の大人の本とか入れておいてやるよ」
「鬱陶しい」
ロベルスはチャリと音を立てて腕輪に触れた。
「おい、待て! 本気にするなって」
慌てて私室の扉から一歩退くと、いつの間にかロベルスが立ち上がりこちらを睨んでいた。
いくつかはめられた銀の腕輪は彼が作り上げた強力な魔具であり、よく見れば繊細で複雑な模様が施されている。
ほかにも耳飾りや首飾りなど、身につけられた装飾品のほとんどがなにかしらの魔具だった。
腕輪から手を離したのを確認し、エゼルトはがしがしと頭を掻く。
「……ずいぶんと苛立ってるな。補佐官が怖がって扉の前でウロウロしてたぞ」
「用があれば呼べと言ってある。呼ばれていないのだから、なんの問題もないだろう」
「いや、そういうことじゃ……ああ、もういい。お前に言っても意味がないしな。それよりなんでそんなに……」
そこまで口にして、ロベルスの苛立ちの原因にピンとくる。
にやりと笑う。
「分かったぞ、お前、緊張してるんだろ? 久しぶりの帰宅みたいだからなぁ。子供に『初めましてー』なんて言われたりしてな。そんなことになったら、俺だったらもう立ち直れないぜ。お前も案外繊細なところがあるから」
「うるさいと言った」
再び辞書並みの本が飛来し、エゼルトは慌てて避けた。
そして――。
室内から起こった爆発音に外の文官が身をすくめ、その後頭を抱えたたのは当然だっただろう。