囚人
コンクリートの壁に囲まれた薄暗い通路に規則的な靴音が響いた。新米刑務官の桜井は、一番奥の特別監房の前に立ち止まり、重い鉄扉の小窓から中を覗き込む。
「第404番。朗報だ」
桜井が声をかけると、ベッドの端に背中を丸めて座っていた男がゆっくりと首を巡らせた。落ち窪んだ眼窩の奥で濁った瞳が桜井を見つめる。
「審査の結果、お前の仮釈放が検討されることになった」
その言葉を聞いた瞬間、男の顔が奇妙に歪む。這いつくばって鉄扉へとにじり寄り、皺だらけの手を震わせながら拝むような仕草をする。
「ああ……やった、やった。俺も、ついに……」
それから数日間、男は薄ら寒いほど模範的に過ごした。与えられた作業を黙々とこなし、食事も一粒残さず食べ、就寝時間には微動だにせず目を閉じた。
仮釈放のその日だけを胸に、人が変わったかのような従順さだった。桜井はその姿を見るたびに、なぜか背筋を這い上がる不安を感じずにはいられなかった。
約束の日の前夜。桜井はベテランの上司である柳田に呼び出された。
机には一枚の書類がある。それは男の仮釈放中止を告げる通知だった。
「どうしてですか! 奴も今はあんなに真面目に……」
「いいから行け。これも俺たちの仕事だ」
柳田の目には一切の希望もなく機械のように冷え切っていた。
桜井は重い足を引きずり、特別監房の前に立つ。男はすでに身支度を整え、そわそわと扉を見つめていた。その期待に満ちた顔へ、桜井は無情な事実を突きつけた。
「お前の仮釈放は、撤回された」
男の顔からみるみるうちに表情が抜け落ちていった。ぽっかりと開いた口から暗闇が辺りに広がっていくようだ。やがて力なく床に崩れ落ちた。
桜井は未だ刑の執行に参加したことはないが――自分が足を乗せた踏板から、男が地獄へ消えていく心地がした。肌が粟立つ。耐えきれずに目を逸らしてその場から逃げ出した。
翌朝、桜井が巡回に行くと、独房はもぬけの殻だった。まさか絶望のあまり逃げたのか。だが、どうやって? 昨夜そのような騒ぎはなかった。報告も受けていない。
数日後、男は何事もなかったかのように再び独房に現れた。そして以前と寸分違わぬ姿勢で、同じだけ虚ろな目をして、ベッドに座っていたのだ。
桜井がパニックに陥りかけたところで柳田が静かに肩を叩いた。
「見ろ。また忘れて戻ってきやがった」
「……どういう、ことですか」
「奴は十年前にすでに刑を執行された死刑囚だ。絞首台の露と消えたんだよ」
それでも十年間、何度でもここに戻ってくるのだ。
男は自分が死んだことを自覚できていない。冤罪の余地など微塵もない、残忍な事件を起こした死刑囚であることも、自覚できていない。
執行の恐怖から逃避した魂はこの刑務所に縛りつけられたまま、永劫の囚人となったのだ。
「だ……だったら、撤回せずに釈放してやればいいじゃないですか。そのまま夢を見せてやれば、成仏するんじゃないですか?」
桜井は縋るように尋ねた。しかし、仮釈放を告げた時の男の表情を思い出す。あれは単純な歓喜だっただろうか。本当にただの希望だっただろうか。
柳田は桜井の内心を見抜いた顔で、重いため息をついた。
「あれが“許された”と思って外に出たらどうなる。あれは自分をまだ生きてると思ってるんだ。ただ自由の身になったと勘違いした凶悪犯の亡霊が、シャバをうろつくんだぞ」
もう十年も変わることなくしがみついて、外に出る日を座して待ち続けている亡霊が。
柳田は小窓から、虚ろな目で壁を見つめる男を指した。
「奴に更生の機会はない。もう生きてはいないからだ。あれは十年前に、永劫成長を止めちまったんだ」
もはや血の通わない、プログラムされた機械と等しく無意味な希望と絶望を繰り返すだけの亡霊。
桜井は悟った。自分たち刑務官の仕事とは、生きている人間を監視することだけではないのだと。
「行くぞ、桜井。そろそろ『朗報』を告げる時間だ」
恐怖と嫌悪を固唾と共に無理やり飲み込み、桜井は歩き出した。
男の霊が現れるたびに仮釈放の甘い言葉で満足させ、しかし必ず撤回して“ここ”に留め続ける。外に出してはならない。それが、終わることのない彼らの任務だった。
薄暗い通路に、また規則的な靴音が響いていた。




