『時計の調整くらい誰にでもできる』と婚約破棄された記録官がいなくなったら、3日で王宮の時間が止まった
47番。執務棟、東廊下の柱時計。
毎週木曜日に0.5秒遅れる。原因:西門を通る市場の大型馬車の振動。
対処法:木曜朝にゼンマイを0.5回転多く巻くこと。
備考:この時計の癖を知っているのは、おそらく私だけだ。
——だった。
◇
「——つまり、婚約は白紙に戻させていただく」
子爵嫡男アルベルト・メルツが、サロンの中央でそう宣言した。
彼の隣には、淡い金髪の令嬢が控えている。先月の舞踏会で2度踊った相手。知っていた。時計の巡回中に見た。
(午後2時27分)
反射的に時刻を確認してしまった。12年の習慣は、こういう場面でも止まらない。
「そもそも、時計係ごときが子爵家に嫁ぐなど、最初から無理があったのだ」
周囲がざわめく。
宮廷時計記録官は正式な官職だ。だが華やかさとは無縁で、靴は石畳で擦り減り、指先はいつもゼンマイの油で光っている。社交の場で「ご職業は」と聞かれて「時計を直しています」と答えるたび、相手の顔に困惑が浮かぶのを何度も見た。
(2時28分。この会話の所要時間、4分15秒。外交会議の冒頭挨拶より長い)
「……承知いたしました」
私は立ち上がった。泣かない。泣いたことがない——インクが滲むから。記録官の手は、常に乾いていなければならない。
「時計の調整くらい、誰にでもできますので」
サロンを出た。
廊下に出た途端、壁の柱時計が2分遅れているのが目に入った。
(……直したい)
伸びかけた右手を止めた。もう、私の仕事ではない。
控えの間で侍女のマリーが待っていた。
「セシリア様! お顔が——」
「平気です。辞表を書きます」
「今ですか!?」
「ええ。明日の朝7時に47番のゼンマイを巻く必要があるので、引き継ぎ事項に——」
「あなたは今、婚約を破棄されたんですよ!」
知っている。
(午後2時31分。婚約破棄の通告から辞表作成まで4分。歴代の記録はないが、おそらく最速だ)
「セシリア様、辞表を書く速度を記録してどうするんですか」
マリーの声で気づいた。辞表の余白に「所要時間:」と書きかけていた。
(——もう、記録官ではないのだ)
ペンを置く。3分42秒。確かに早い。
マリーが泣いていた。私の代わりに。いつもそうだ。この子は、私の分まで感情を持っている。
◇
王宮には234の時計がある。柱時計、壁時計、砂時計、水時計。それぞれに個性があり、癖があり、季節で変わる誤差がある。
私はその全部を12年間、1日も休まず記録し、調整し、王宮の全員が「正しい時間」の中で暮らせるようにしていた。
記録帳は全部で12冊。調整履歴、部品交換、気温湿度の影響。そして——備考欄。
この備考欄が、問題だった。
業務情報のつもりが、12年も書いていると、つい余計なことが混じる。
「45番・殿下の執務室。柱時計を5分遅く調整。殿下は最近、就寝が遅い。5分でも長く休んでいただきたい——これは空調管理上の時間調整であり、私情ではない」
「201番・衛兵詰所の砂時計。夜勤の衛兵が枕代わりにしている形跡あり。傾くので困る。注意書きを貼ったが翌朝また傾いていた。もう諦めた」
「77番・王妃様の私室。文字盤の11時の薔薇の花弁が欠けている。修理を進言したが『このままでいい、亡き母の形見だから』とのお言葉。業務範囲外だが、毎月花弁の状態を確認している。ヒビが広がらないよう見守るだけ。——これも業務の範囲内である。たぶん」
マリーに「それは業務の範囲外です」と言われた。
「ところでセシリア様。時計に向かって『おはよう』って言うの、そろそろ本気で心配なんですけど」
「47番は朝が苦手なんです」
「時計に苦手な時間帯はありません」
「ある。47番は木曜の朝だけ機嫌が悪い」
「セシリア様、時計に機嫌はありません」
ある。12年いっしょにいれば分かる。
◇
辞めた日の夜、最後に宮殿を1周した。234の時計に、1つずつ触れた。
47番のゼンマイは、木曜に備えて少し強めに巻いた。後任への餞別だ。
128番・大厨房の壁時計は秒針を最終確認した。1秒の狂いが焦げを生む。料理長の3人の子供の末っ子はクレールという名で、いつも厨房の裏で歌っていた。
77番・王妃様の薔薇時計は——触れるだけにした。花弁のヒビは、広がっていなかった。
「お世話になりました」
時計は答えない。カチ、カチ、と刻み続ける。
12年間、王宮のどの時計よりも正確に刻み続けたのは、私の心臓だけだった。
それに気づいてくれる人は、とうとう現れなかった。
(午後11時58分。宮廷時計記録官セシリア・ヴェルヌ、最終退出)
時計塔の大時計が月明かりに照らされていた。あの時計だけは誰が調整しても正確に動く。精度が高いから。
——私が毎日確認していたのは、ただの習慣だ。業務の範囲内だ。
たぶん。
◇
3日後、王宮から使者が来た。
「セシリア殿、至急お戻りいただけないでしょうか」
「どうかなさいましたか」
「……時計が」
使者の顔は青かった。
◇
事の顛末は、マリーから聞いた。宮廷の旧友から逐一報告が届くのだ。
「1日目は何事もなかったそうです」
「慣性で動きますから」
「2日目に47番の柱時計が止まりました」
「木曜日でしょう。馬車の振動で歯車がずれるんです」
「後任の方が泣きながら記録帳を読んでいるそうです。『なぜ47番だけ木曜に遅れるのですか!』と」
少しだけ、笑ってしまった。意地悪ではなく、ただ——あの時計の癖を知っているのが私だけだったことが、初めて誇らしかった。
(答えは3号帳の23ページに書いてある。見つけてくれるといいのだが)
「3日目に外交会議が30分遅れました」
「第3会議室の壁時計を3分進めていたのを、後任が戻したのでしょう。あの部屋は窓がないから、時計だけが頼りなんです」
「5日目に晩餐会の魚が焦げたそうです。大厨房の壁時計が1分ずれて」
「料理長、怒ったでしょうね」
「『セシリアを返せ』と宰相室に怒鳴り込んだと」
「……料理長」
胸が温かくなった。官職名ではなく、名前を呼んでくれた人がいた。
7日目。衛兵の交代がずれ、夜間警備に穴が空いた。不審者が中庭まで侵入する騒ぎになった。
10日目。隣国の大使が謁見の間に30分早く通されてしまった。国王陛下がまだ着替え中だったらしい。大使は「この国は時間すら管理できないのか」と激怒した。
「それと——」
マリーが手紙を裏返した。
「辺境伯ローレンツ・フォン・ヴァルトシュタインが、宰相に問い合わせたそうです。『先日まで時計を管理していた記録官は誰か』と」
心臓が1拍、跳ねた。
「……なぜ辺境伯が?」
「分かりません。ただ——宰相が『引き継ぎ荷物に記録帳がある』と答えたら、その日のうちに借り受けていったそうです」
12冊の記録帳。私の12年間。
それを——あの方が?
◇
そして——。
「アルベルト・メルツ子爵嫡男が、外交会議に20分遅刻したそうです」
「……遅刻の理由は」
「『時計が正確だと思っていた』だそうです」
因果応報——と思いかけて、やめた。
私が時計を正確に保っていたから、誰も時計を疑わなかった。信頼されていたのは私ではなく時計だ。
(——いや。時計を信頼に足るものにしていたのは、私だ)
それに気づいたのは、辞めてからだった。
◇
辺境伯ローレンツが借家を訪ねてきたのは、退職から14日目だった。
この方を知っている。軍人出身の辺境伯で、いつも正確に行動する人だった。朝7時に食堂、8時に執務室、正午に庭、19時に夕食。分刻みの行動は時計記録官の目から見ても見事で、私が1番調整に気を遣った人でもある。
(——正確な方には、正確な時間を。それだけのことだ)
「突然すまない。聞きたいことがある」
辺境伯が目の前に——記録帳を置いた。7号帳。表紙の角が折れている。3年前、廊下で転びかけた時につけた傷。
「宰相から借り受けた。3年前の外交会議で、開始が3分遅れた。俺だけが気づいた。なぜか、ずっと気になっていた」
付箋が何箇所にも貼られていた。——全部読んだのだ。
「第3会議室、壁時計。3分進めに調整。理由:会議の長引きを防ぐため」
私の字だ。5年前のインクが薄い。
「あの日3分遅れたのではなく、お前が進めていた時計を誰かが直したから、実質3分遅くなった」
「……はい」
「つまり、お前の判断で王宮の時間が動いていた」
辺境伯がページをめくる。
「殿下の執務室。5分遅く調整。理由——」
声に出して読まれると、心臓が跳ねた。
「——殿下は就寝が遅い。5分でも長く休んでいただきたい」
灰色の瞳が、まっすぐ私を見た。
「セシリア・ヴェルヌ。この記録帳の、すべての誤差には、宛名がある」
——何も言えなかった。
「5分の遅れで睡眠を守り、3分の進みで会議を短くし、1秒の正確さで料理長の鍋を焦がさなかった。お前は12年間、234の時計を通して、王宮の全員の生活を守っていた」
辺境伯がめくり続ける。私の字が、私の12年が、この人の声で読まれていく。
「衛兵詰所。『砂時計を枕代わりにする。注意したが直らない。諦めた』——笑いながら書いただろう」
「……否定できません」
「77番、王妃の私室。『薔薇の花弁のヒビ、広がっていない。よかった』——業務記録に必要か?」
「……必要では、ないかもしれません」
誰かが私の備考欄を1行ずつ読んでくれたのは、これが初めてだった。
「最後のページを読んでいいか」
息が止まった。あれだけは——。
「読むぞ」
「——『89番。辺境伯執務室の掛け時計。調整:なし。常に正確であり調整の必要を認めない。ただし毎日確認を実施。理由:この方の部屋の時計だけは、1秒も狂わせたくなかった。正確な時間を刻む人には、正確な時間を。これは業務の範囲内である。たぶん。』」
たぶん。
その3文字で、私の12年が全部、嘘になった。業務ではなかった。最初から。
辺境伯が帳面を閉じた。
「——だが俺は、この帳面を読む前から知っていた」
え。
「3年前。俺が初めて王宮に滞在した日、執務室の掛け時計が完璧に合っていた。翌朝も。翌々日も。1秒の狂いもなかった」
声が低い。
「だから確認した。この部屋の時計を調整しているのは誰か。衛兵に聞いた。『毎朝、女の記録官が来る。時計を見て、帳面に何か書いて帰る。調整は——しない。見るだけだ』」
「…………」
「3年間、毎朝、調整の必要がない時計を見に来ていた女がいる。——なぜだと思う」
「……業務です」
「業務なら、3年間同じ結果を書き続ける必要はない。なのにお前は毎日書いた。『調整:なし。精度良好。』——それだけを、3年分」
(19時43分。……この会話の所要時間を記録すべきか。帳面は手元にないが、頭の中で数えてしまう)
懐中時計に触れた右手を、辺境伯の手が包んだ。
「今は、時間を計らなくていい」
初めて——時計から、目を離した。
「俺の領地に時計塔がある。2年間止まっている。直してほしい」
「……それは」
「仕事としても頼んでいる。——だがそれだけじゃない」
辺境伯は不器用に言葉を選んでいた。あの正確な人が、初めて言葉に迷っている。
「2年間、時計塔が止まっていた。その間、俺は自分で時刻を計って過ごした。——お前が直した王宮の時計の正確さを覚えていたから、それを基準にした」
知らなかった。この人が、私の時計の記憶を——。
「お前の記録帳は返さない。毎日読む。備考欄の全部を、俺が覚える」
——ああ。
「お前ごと、俺の時計塔に来い」
黙った。辺境伯も黙った。
「……何秒かかってもいい。待つ」
本当に待った。
部屋の壁時計がカチ、カチ、と刻む。宮殿から唯一持ち出した時計。
やがて——時計の音が消えた。聞こえるのは、自分の心臓だけ。
どくん。どくん。どくん。
正確だった。12年間、ずっと。
「——参ります」
辺境伯が笑った。目が少し細くなることを、3年前から知っていた。
記録帳には書かなかった。あれだけは、業務の範囲外だったから。
◇
その後のことを、少しだけ。
アルベルト・メルツ子爵嫡男は、外交会議への遅刻で担当を外された。遅刻の原因を「時計が狂っていた」と主張したが、それは「時計記録官を軽視し、婚約破棄したことで王宮の時間管理が崩壊した」と自ら認めたことになる。
社交界での評判は致命的に下がった。あの金髪の伯爵令嬢も、遅刻する男とは婚約できないと去ったらしい。時間を守れない人間は、約束も守れない。時計記録官なら、誰でも知っていることだ。
王妃様からお手紙をいただいた。「薔薇時計のヒビ、あなたがいなくなってから広がりました。寂しいのでしょう。私も寂しいです」と。
料理長からは籠いっぱいの焼き菓子が届いた。クレールちゃんが「せしりあさんに」と手紙をつけてくれていた。
宮廷からは3度、復帰の要請が来た。3度とも断った。
3度目の使者には、記録帳の読み方の手引き書を渡した。後任が泣かなくて済むように。
「セシリア様、よろしかったのですか」
「ええ。あの子たちは——時計たちは、新しい人にも慣れます。時間はかかりますけれど」
「……時計に『あの子たち』って言うの、やっぱり普通じゃないと思います」
聞こえないふりをした。
◇
辺境伯領の時計塔は、思っていたより大きかった。
石造りの塔が領の中心にそびえ、4方に文字盤がある。どれも止まっていた。歯車に錆が回り、振り子の支点が歪んでいた。
修理に3日かかった。歯車を外し、磨き、油を差し、組み直す。振り子のバランスを取り直し、針を合わせる。
3日目の朝、鐘が鳴った。
ゴーン、ゴーン、ゴーン——。
午前7時。正確に。
塔の下から歓声が上がった。「時計が直った!」「やっと時間がわかる!」
あの人たちの1日が、この時計から始まる。
——いい仕事だ。
記録帳は新しいものを用意した。1冊目。
「辺境伯領時計塔。時計番号:001。本日より管轄開始」
隣の部屋からローレンツが珈琲を持ってきた。毎朝7時ちょうど。——辺境伯と呼ぶのはやめた。名前で呼んでほしいと言われたから。
「書いているのか」
「はい」
「備考欄は」
「……まだです」
「書け。俺が読む」
困った。書きたいことが、ありすぎる。
この領地の空気が澄んでいること。朝日が歯車に当たると金色に光ること。ローレンツが珈琲を淹れるとき、湯の温度を正確に計っていること。
——この人の隣にいると、心臓が少しだけ早く打つこと。
ペンを取った。
「辺境伯領時計塔。001号。調整完了。精度良好。
備考:本日は快晴。塔の窓から麦畑が見える。珈琲の湯気が朝日に透けて綺麗だった。
——隣の人の呼吸が聞こえる距離で記録を取るのは初めてのことであり、心拍数に影響が出ている。業務に支障をきたす可能性がある。
対策を検討する必要がある。
なお、対策は見つからない見通しである」
ローレンツが後ろで笑った。低く、短く。
懐中時計は——見なかった。
今が何時でも、構わなかった。
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