第七話 だいななわって、しちめんちょーみたいだな、おい
「フットボールの観戦は初めてです!」
スタジアムは五月蝿いというより熱い。
声が熱を帯びて皮膚にまとわり付く。
空気が沸いている。
隣のあめちゃんへ聞こえるよう、私は少し声を張った。
彼女は当たり前のように返す。
「知っています」
その言葉は彼女の口癖で、そしてこの世界では怖い言葉でもある。
知っているは、情報じゃない。
決定だ。
私はずっと気になっていたことを口にした。
「この試合の結末も予測出来るんですか?」
「ええ。いつゴールが入るかも知っています。あなたがこの試合を見てフットボールを好きになることも」
私は苦笑し、話を戻そうとする。
「……それより、Dr.C.C.について」
「ここは騒がしいですわ」
あめちゃんは視線をピッチに固定したまま言う。
「先ずは試合を楽しんでください」
そこから先は本当に素晴らしかった。
結果は四対一。
だが、敗者の一点が美しかった。
自軍ゴールから敵陣ゴールまで、たった一人で駆け抜ける。
相手の守備が波のように寄ってくるのに、足取りだけが崩れない。
次々と躱し、最後にゴールキーパーをも──飛び越える。
私はその瞬間だけ、子どもの頃の蒼き伝説を思い出した。
選手の名前は、ヨシハル・クボ。
私はその日、彼の大ファンになった。
そして気付く。
彼女の言った通りだ、と。
夜。
私たちはマンハッタンのレストランで騒がしい熱をやっと落ち着かせていた。
氷の入った水がグラスの内側で鳴る。
音が小さいほど会話の輪郭が濃くなる。
「あなたがラプラスの悪魔になったきっかけは何ですか?」
私がそう聞くと、あめちゃんはほんの少しだけ目を伏せた。
「……お母様の死後です」
「死後?」
「えぇ」
あめちゃんは遠くを見る。
見ているのは景色ではなく、計算式の向こう側の何かだ。
「お母様は、私の計算が行き届かない方でしたわ」
私は次の質問を作る。
彼女は分かっているはずなのに、会話という形を守るために、わざと私が口にするのを待っている。
「……どういう意味ですか?」
「お母様という特異点がある内は、何が起こるか全く予測出来ないのです。予測出来ないなら、計算もできません」
私は理解した。
「Dr.C.C.は?」
「もちろん、お父様も予測不可能ですわ」
一呼吸。
「ただ、お父様は外部との接触を好みません。今は世界に干渉しない。だから計算は破綻しない」
「……つまり、その能力は──」
「生まれながら持っていましたわ」
そのとき、ギャラガー氏が珍しく口を挟んだ。
「彼女は一歳で二十三カ国語を実用レベルにし、二歳でMITから名誉称号を得ている」
「二歳……?」
「えぇ。皆さんには言っていませんが、幼い頃には既にミレニアム懸賞問題を全て解いていますわ」
「ミ、ミレニアム問題……未だいくつも未解決のはずでは?」
「発表していませんからね」
あめちゃんは私の反応に返事をするみたいに続ける。
「それに、いずれ人類側が解きます。私のような者が解くより、人類が解くべきですわ」
料理は温かい。
グラスも上等だ。
それなのにテーブルの上だけが妙に冷えていく。
氷が溶ける冷たさではなく、会話が進むほどに逃げ道が減る冷たさだ。
スタジアムの熱の次にこれを出されると、熱が夢だったみたいに思える。
現実はいつも、整った声で冷える。
そこで決定的な疑問が浮かんだ。
私は口を開きかける。
「なぜ」
「その質問を待っていました」
あめちゃんは右の口角だけを、ほんの少し上げた。
「実は三日後、あなたはお父様にお会いします」
背中が冷えた。
「けれど、その後の未来が計算できませんの」
──それから三日後。
私は再び、Dr.C.C.の家の前にいた。
あめちゃんの言う通り、ノックは必要無い。
鍵もかかっていない。
彼女の助言は、信じられないほど過激だった。
「ドアを蹴破るように開ければ良いですわ」
いけないと分かっている。
分かっていながら、その通りにしてしまった。
扉を強引に開けると、奥からDr.C.C.が飛び出してきた。
キッチン方向から現れる。
怖さと勢いのまま、口が動いた。
「……お腹が空きました」
自分でも意味が分からない。
侵入して第一声がそれ──コメディにもならない。
だが、その言葉にDr.C.C.は優しく反応した。
「丁度、昼食が出来たところだよ。食べて行くかい?」
鯖の味噌煮は濃いめの味付けだった。
薄味の和食が苦手な私でも、美味しいと思った。
箸を動かしている内に、ここが取材の現場であることを忘れそうになる。
忘れそうになるのが一番怖い。
片付けをする背中に、私は聞いた。
「今、地下で、何をされているんですか?」
「君は聞かない方が良い。もう、帰ってくれないか」
「いいえ。私はここにいます」
Dr.C.C.がこちらを向く。
そして静かに言った。
「……死ぬことになってもかい?」




