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第五話 第五話ですわ

 あめちゃんは──「正解ですわ」。

 そう言い残し、踵を返した。

 ロビーの喧騒へ溶けていく背中が、まるで最初からそこに居なかったみたいに輪郭だけを薄くして消えていく。


 私はその場に立ち尽くしてしまう。

 立ち尽くす、というより、足の裏が床に吸い付いたみたいに動けない。

 ガラスの天井から落ちる光が磨かれた床で反射して、私の影だけが薄く引き伸ばされている。


 視界から消えた後、漸く呼吸を取り戻してギャラガー氏を見る。

 彼は苦笑した。

「知っての通り、彼女は『ラプラスの悪魔』だ」

 余計な説明を削ぐように彼は続ける。

「私たちが彼女に会いたいと思った時。正確には、思う前。もっと言えば、宇宙が生まれた瞬間から、彼女はそれを知っている」

「……比喩ではなく?」

「本物さ」

 肩を竦める仕草が軽いのに言っている内容は重過ぎる。

 私は頷く。

 概念としては知っていた。

 ただ、先程触れた『本物』は理屈より先に身体を固くする。

「空港の運転手も、このホテルも、チェックアウトが十五時であることも。歓迎だと思うのは自然だろう?」

 自然、と言われると、こちらの違和感の方が不自然に思えてしまう。歓迎はありがたいはずだ。

 ありがたいはずなのに歓迎が正確過ぎると、受け取る側の姿勢まで決められてしまう。

 私は未だその姿勢を知らなかった。


 その日の夜は本当に『整えられて』いた。

 部屋に通されるまでの廊下が、先ず静かだった。

 絨毯は厚く、足音が沈む。

 沈むのに、沈み切らない。

 踏み出す度に、ここがホテルではなく、誰かの手の平の上にある空間だと身体の方が先に気付いてしまう。

 壁の装飾は過剰じゃない。過剰に見えないように必要なだけだけを置いてある。


 ドアを開く。

 スイートルーム、と呼ぶには言葉が足りない。

 広いからではない。

 空間が初めから私の体温に合わせて調律されている。

 照明は眩しくないのに暗くない。

 窓の外の夜景がガラスに映って二重になり、その二重が不自然ではなく、最初からそういう景色だったみたいに落ち着いている。

 床は磨かれすぎていない。

 けれど、光を受けた部分だけが薄く反射して、足元に自分の輪郭が残る。

 輪郭が残るせいで、私がここにいることまで『用意された出来事』の一部に見えてしまう。


 ギャラガー氏と共にレストランに行く。

 テーブルクロスは白い。

 白過ぎて、影が綺麗に乗る。

 皿の縁の金線は細く迷いが無い。

 グラスは薄い。

 薄過ぎて、こちらの指の存在だけが浮く。

 触れた瞬間、冷たさではなく触れた指先の温度だけが遅れて伝わってくる。


 そして私の席に、消毒液と包帯が置かれていた。

──私の席にだけ、だ。

 箸でもスプーンでもなく、私はそれを最初に見てしまったせいで呼吸の置き場を失う。

 ラベルは無機質で、病院で嗅いだ匂いが未だ封も切っていないのに鼻の奥に立ち上がる気がした。

 ギャラガー氏を見る。

 彼は平然と言った。

「ハリーポッターの『必要の部屋』みたいなものだよ」

「……必要、なんですか?私に」

「必要になる時が必ず来る、が正確かな」

 冗談の形をしていない。

 私は笑えないまま視線をテーブルへ戻した。

 包帯が白過ぎて料理のための白と衝突している。

 白が二種類あるだけで世界は酷く現実になる。


 料理は満漢全席だった。

 豪華だから、ではない。

 順番が正しい。

 皿が運ばれる前に、次の皿のための余白が先に用意されている。

 私は一度も「お願いします」と言っていないのに、お願いが処理されていく。

 口の中が空になるタイミングまで先に片付けられて、次の味が入る角度まで整えられる。

──好意だとは分かる。

 分かるからこそ余計に戸惑う。

 好意は拒絶されないことを確信しているみたいに、ただ淡々と成立していく。

 酒が置かれた。赤でも白でもない。

 琥珀が眠っている。

 瓶の首が長く立っているだけで品がある。

 注がれると香りが先に部屋を変えた。

 甘い。

 だけれど、甘いだけじゃない。

 薬草のような匂いが混ざり喉の奥に熱の予告を流す。

 世界最高の紹興酒──そう思った時点で、私はもう半分飲まされていた。

 飲ませたのは誰だろう。

 運ばれたのは酒なのに運ばれているのは、私の判断の方だった。


 食事の最中に演奏が始まった。

 フラメンコだと思った。

 爪が弦を弾き乾いた粒が空気を裂く。

 足が床を打つ音が遠くの鼓動みたいに一定で、なのに熱を持っている。

 拍が進む度に部屋の静けさが磨かれていく。

 演奏者の表情筋が音の粒に合わせて僅かに動く。

 笑っていない。怒ってもいない。

 ただ集中だけが顔に残っている。

 私はグラスを持ち上げる。

 口をつける。

 液体は舌に乗る前に匂いで喉を温め、飲むという行為を一段すっ飛ばして内側へ入って来る。


 そのまま聴いていた。

 聴いていたはずだった。

 違和感を覚えたのは音の粒が尖り始めた瞬間だ。

 フラメンコのはずなのに、攻撃的な何かが混ざっている。

 爪の滑りじゃない。

 もっと硬い粒。

 もっと速い粒。

 空気を裂くのではなく、空気を殴る粒。

 曲が変わったのか?

 でも演奏者は変わっていない。

 座っている位置も、照明も、呼吸の間も同じだ。

 耳が勝手に集中し、視線が音の出どころへ吸い寄せられる。

 フラメンコが爪弾かれていると思っていたのに、いつの間にか違う曲になっている気がして、ふと気付く。

 これは……聴いたことがある。


 昔、おじいちゃんが観せてくれた古いVHSの映像だ。

 画質は粗くて、色が少し黄ばんでいて、それでもギターの粒だけは異様に鮮明だった。

 居間のテレビの前で私は床に座っていた。

 おじいちゃんの膝が少し揺れていた。

 煙草の匂いと、暖房の乾いた空気。

 あれは確か──

 Stevie Ray Vaughan。

 曲名が舌の先に引っかかる。

 Rude Mood?

 疑問符のままでも音は答えを要求しない。

 要求しない代わりに押し寄せて来る。


 音がいきなり畳みかけてくる。

 攻撃的な粒が粒のまま浴びせられる。

 アコースティックギターなのに、アンプラグドとは思えない迫力で、背中が椅子に磔になる。

 背骨が椅子に釘で留められたみたいに身動きが取れない。

 椅子に押さえ付けられる。

 立ち上がることが出来無い。

 ふいに映像が私の視界をジャックした。


 古いリビング。

 ツリーの電飾が滲んでガラス窓に二重に映る。

 おじいちゃんとおばあちゃん。

 お父さんとお母さん。

 お兄ちゃん。

 笑い声。

 ケーキを切る手。

 プレゼントの包装紙が破れる音。

 誰かがカメラを回していて、皆が少しだけ照れながらその照れを隠すみたいに大げさに笑っている。

 私はその映像をただ見せられている。

 幸福だった頃の記憶が音に合わせて再生されていく。

 選べない。

 止められない。

 巻き戻しも早送りも出来無い。

 なのに、細部だけが妙に鮮明だ。

 ツリーの匂い。

 ストーブの乾いた熱。

 ケーキの甘さの予感。

 家族がそこに揃っているという事実の、重さではなく軽さ。

 それは私の記憶なのに、私のモノじゃない編集で流れていく。

 編集の手が優しいのが一番困る。

 優しい編集ほど逃げ道を塞ぐ。


 曲が終わった。

 次の瞬間、解放された身体が反射的に立ち上がっていた。

 拍手が止まらない。

 止め方が分からない。

 音が出ないのが怖くて、手を打ち続ける。

 手の平に違和感を覚える。

 見ると、爪の跡が残っていた。

──赤い。

 血が薄く滲んでいる。

 私は無意識の内に拳を握り締めていた。

 視線があの消毒液と包帯へ戻る。

 未だ封は切れていない。

 けれど、そこにあるだけで未来が折り畳まれて、置かれている感じがした。

 折り目の位置まで正確で開けば同じ形に戻る。

 ふと、くだらない考えが頭を過ぎる。


──事故に見せる方法はいくらでもある。

 バナナの皮一枚でも足りる。

 そんな想像が過ぎった自分が、一番気味が悪かった。

 ギャラガー氏が包帯を巻いてくれた。

 手付きが早いのに乱暴じゃない。

 医者の手だ。

 包帯が肌に触れる摩擦が現実に釘を打つ。

 私は黙ってその手元を見ていた。

 怖いはずなのに、興味が勝つ。

 怖い、という感情の形が崩れていく。

 崩れ方が丁寧過ぎて、自分が壊れているのか整えられているのか、区別が付かない。


 次の日の昼。

 目覚ましをかけ忘れて飛び起きると、時刻は十三時四十八分。

 チェックアウトは十五時。

 カーテンの隙間から入る光は強いのに、部屋の空気だけが夜のまま残っている。

 ベッドのシーツは皺が無い。

 皺が無いのに、自分が寝た痕跡だけが体の怠さとして残っている。


 ロビーへ向かう。

 エレベータの鏡面に自分の顔が映る。目の下が薄く影になっている。

 昨夜の拍手の熱が未だ手の平に残っている。

 熱だけが正直で、他のものは全部、誰かの好意の中に沈んで行く。


 ロビーに出るとギャラガー氏は既に待っていた。

 彼は腕時計を見ない。

 見る必要がないと言っているみたいに、ただそこに立っている。

 私が到着したのとほぼ同時に──あめちゃんが現れる。

 歩き方が静かだ。

 音がするのに、ロビーの空気が揺れない。

 服の布が擦れる音さえ、周囲の雑音に吸われるのではなく、初めから存在しないみたいに消える。

 彼女は世界の音量を変えない。

 ただ世界の焦点だけを変える。


「それでは、行きましょうか」

 軽く言って、彼女は車に乗り込む。

 運転手がドアを開ける角度まで決まっている。

 ドアの縁の金属が一瞬だけ光り、その光が私の目の端に残る。

 残るのは光だけで意味は未だ追いつかない。

 私たちは言われるがまま、その後ろへ続いた。

 機械の声は感情が無い分、正確だった。

 正確だから、言い逃れが出来無い。

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