第6話「波の角度・十二」
夜風は塩と疲れの匂いを一緒に運んできた。下水路から上がった俺たちは、そのまま港へ向かった。昼にスロットへ差し込んだラベルが効いているのか、水の走りは半拍だけ遅い。防波堤の影がのび、街の呼吸も、俺たちが決めた拍子に合わせてゆっくりのびていく。
「巡回ルートは私が取る」ジョラが盾紐を締める。「左の防波堤の先に二人、水門のハンドルに二人。敷居は低く、線は明確に」
「角度は?」ロウェルが手の甲の水を払って俺を見る。昼の“十二”が、彼の口元で慎重に回っていた。
「変わればすぐ言う。今夜は、俺たちが決めたことが法だ」欄干の塩の花を爪で弾く。小さく、コツ、と鳴った。
ラーフ・マーケットにはもう灯が入っていた。水に浮かぶ細いデッキが慎重に連なり、風に押されては引かれて、かすかに揺れる。露店は濡れた板の上にガラスのラベルや貝細工、乾いた海藻を並べて値踏みを交わす。子どもたちは足首にバンドをつけて駆け、足跡のあとに細い光が残った。名前の代わりに足が証言する街らしく、すべてが足首の高さで始まり、足首の高さで終わる。
ルシは言葉が少ない。昼の代価が、まだ喉にかかっていた。代わりに小さな石板と鉛筆を取り出す。今日の関税表――「資格」上昇、「契約」ふつう。書きつけの上でリングの青が一瞬だけ灯り、消えた。
「ならラベル屋が忙しくなるな」ジョラが低く言う。
案の定だ。縁の露店がきらめく。薄いラベルを持ち上げる手が速く、滑らかだ。掲げた札には小さな文句――〈資格検証ラベル—舞踏会入場保証〉。紙の黒インクにすぎないのに、見る者の舌先から、つい発音を引き出す仕掛け。「し…かく…」。その語が空気に形を持つたび、海水がごくわずかに身じろぎした。
「近づこう」俺が歩を進める。ネレイアが歩調を合わせる。髪先から落ちる滴がデッキの板に小さなきらめきを作った。
「資格、二枚!」子どもの声が先に拍子を乱す。ひらひらのスカートの少女が、ラベルに手を伸ばした。掌には硬貨が二枚。露店の男が細いピンセットでラベルをつまみ、笑う。
「発音して初めて効きますよ。ほら、頬にトンと貼って、『し—』」
「待て」ジョラが盾をそっと上げ、男の肘の前に横切らせた。「販売は適法だが、発声は公共の場では不可。市条例第七条」
男は肩をすくめる。「俺は言ってませんよ? お客が――」
「契約の前提は同意だ」俺が割って入る。少女の手からラベルを受け取り、光に透かす。ごく薄いパンチが三つ。0|0|0。「同意のない誘導は強要になる。とくに子どもの前では」
男は口を尖らせる。「じゃあ大人にだけ売るさ。商いも契約でしょう?」
その時だ。デッキの反対側で誰かが「資格」を大声で呼んだ。冗談めかして、虚勢めかして。酔客の軽さ。しかしその一言が空気で転がった瞬間、昼に押さえ込んだ水の道が試されるように動いた。水の肩が左へそっと凭れ、堤とデッキの間に薄い滑り路ができる。足首が一斉に揺らいだ。
「十二維持」俺は自動的に言う。「ロウェル、肩から切り替えろ」
ロウェルは地図ではなく、人を見た。高い位置に灯りを掲げ、身体を左へ半歩捻る。彼の肩線が道を作ると、先頭の港湾労働者がそのまま倣った。肩と肘が小さな堤になり、水の重みを人側ではなく外へ送る。
「盾、低く」ジョラが身を沈める。盾の縁がデッキのへりをかすめ、あふれそうな水が堤のように跳ねて、また元へ落ちた。
ネレイアは足を据えたまま腰だけを回し、水の刃で軽く二本、線を引く。断つというより、線を“置く”動作。引いた線の上に、丼ぶりみたいな水の壁が一瞬立ち、すぐ消えた。子どもの紙袋は濡れない。
ルシは声を惜しむ。代わりに石板で短い合図を書く。1、2、3――吐く。彼女が書いたタイミングに合わせ、俺は吐く息を長く伸ばす音だけを低く出した。「スー」。それは“音階”ではなく“長さ”。人々の肺がその長さに合わせて動くと、デッキの足首が同時に安定した。街全体がいっせいにバランスを取るみたいに。
「資格」を叫んだ方でざわめき。仮面の踊り子たち、その間に赤いベルベットの手袋。手首には小さな鏡のチャームが揺れ、灯りを三角に反射させる。その三角が人々の顔に這い上がる。舞踏会側の高い欄干に、レイピアの影が一瞬立って消えた。垂れたリボンが一度だけ揺れる。
「見た?」ネレイアが低く問う。
「見た。鏡でやる。光で“資格”を裁断するつもりだ」俺は頷く。ルシが一行書き足す――〈鏡片=尋問。注意〉。
四度目の波で、本当の顔が出た。小さな越水がデッキの隙間へ入り、露店のガラス箱を攫いそうに揺らす。男の顔が青ざめた。箱を辛うじて掴みながら、苛立った声を張る。「見たでしょう! だから資格ラベルが要る! 検証済みの客だけ入れれば――」
「やめてください」ロウェルが珍しく大きな声を出した。皆が振り向く。灯りの下へ一歩出て、腰のレイピアの柄を握る。抜きはしない。代わりに姿勢を立てた。どこか不器用だが、不思議と心強い。「この街は、誰もが歩けるように作られている。“資格”は敷居じゃない。選択です」
男は唇を噛む。「口では何とでも」
「だから角度を取ったんです」ロウェルは言う。「防波堤の受けを十二度に切って、水に先に道を開けた。だからこのデッキは持っている。商いも、踊りも、子どもが走るのも。あなたのラベルじゃない」
拍手は起きない。代わりに重い息が抜けた。人々は見えない方角へ、少しずつ肩を捻る。教えなくても角度を真似る身体があった。街が、学び始めている。
その瞬間、赤い手袋がひと振り。反対の欄干の影が薄く笑い、鏡の反射が一斉に向きを変える。光の刃がロウェルの顔へ滑る。ネレイアが半歩前に出て掌で受けた。手首から跳ねた水滴に光が宿り、宙で砕ける。小さな虹が散った。
「光も断てる」ネレイアが笑う。「水の親戚だから」
影はもう悪戯をしない。国境みたいに冷たく見下ろし、何も言わず引いた。手袋は群衆に紛れて消える。露店の男は箱を抱え込んだまま、こちらを窺い、ラベルを何枚か減らして、板の下へそっと落とした。証拠隠しの癖。顔は覚えておく。
「十二、維持」俺は肩を一度回す。「今夜はこれで十分だ」
ルシは手の甲で唇を押さえる。声を出したい顔だが、こらえた。代わりに石板に指示を書く。――ジョラ:水門の施錠確認。ネレイア:灯台でストレッチ。ロウェル:昨日より長く呼吸。スパイン:茶。
「指示、感謝」俺は笑う。彼女の文字は、露店の男より正直だ。
灯台は夜が深いほど温かくなる。煉瓦が昼の熱を少しずつ放すみたいだ。ミレイユが残したやかんには、もう半分湯があった。海藻を二つまみ落とし、カップの縁をレモンで一撫で。ルシが小瓶から蜂蜜を一滴落としかけて止め、石板を俺へ向ける――〈今日は君〉。
「俺?」思わず眉が上がる。
〈声の代わりに、頭〉。その下に小さな笑顔の落書き。蜂蜜を受け取り、自分のカップに一滴だけ。舌の下へ最初の一口を送る時、昼の杯にあった金属味が、ごく薄く上がった。陽の匂いの代わりに、今夜は風の匂い。代価は、いつも新しく払う。そう自分に囁く。
「角度は保ってる」ジョラが窓の外を見ながら言う。「巡回交代で足りる」
「交代は私が回します」ロウェル。「明日は昼から本格的に舞踏会の準備で……足首バンドが増える。足が増えるほど、角度が要る」
「だから今日、教えた」俺は答える。「街が自分で角度を取り始めた」
ネレイアが窓枠にもたれて海を見る。髪先が枠に触れて、さらりと鳴った。「あの赤い手袋。鏡。“資格”を裁つ手」
「分かってる」俺は言う。「明日は、あの手が表に出る」
ルシは小さな円を描き、その中に 0|0|0 と書き、赤い糸を一本、縁と結んだ。昼に差したラベルに似た絵。〈空白も文〉。俺の背を軽く叩く。
その時、灯台の扉が叩かれた。夜にしてはおとなしいノック。ミレイユの慎重さでも、巡回の急きょでもない。ジョラがまず立ち、扉を開ける。外には足首にバンドをした子がいた。昼にラベルを買おうとしていた、あの少女。両手で薄い封筒を抱えている。
「これ……お姉ちゃんが渡してって」少女は言う。“お姉ちゃん”に力を入れた。そう呼んでほしい誰かの願い。「舞踏会の招待状。裏は消しちゃダメだって」
封筒を受け、そっと傾ける。中でガラスみたいに薄いカードが転がった。表は金箔、裏には小さなパンチが三つと、赤い糸の印。角に極小の文句――〈角度は証明にすぎない。資格は言葉〉。署名はない。代わりに縁の鏡膜が光を拾い、壁に三角を作った。
「誰にもらった?」俺は慎重に問う。
「口紅が赤かった」少女は肩をすくめる。「手袋も。足首のリボンは……白」
ネレイアが窓枠をトン、と叩く。「明日は、踊りより先に対話から始めよう」
「対話は契約で」俺は言い、招待状を封へ戻した。裏は、消さない。空白とパンチは、そのままがいい。言葉を急げば、聞けるものが減るからだ。
少女を敷居まで送り、足首の布バンドを結び直してやる。昨日の手仕事だろう、少し緩い。「これは君のものだ」俺は言う。「誰に資格を問われても、君は君の足で入っていく」
少女の瞳が光り、こくりとうなずいて駆け下りた。灯台下のデッキに、また細い光の線が生まれる。波は同じ形で三度砕け、今夜も俺たちはその隙に息を入れた。十二はまだ硬い。
窓の外でブイが一度鳴り、街の息も一度、長くなった。ルシは石板を閉じて喉を撫で、ジョラは盾を壁に立てかけたまま短く目を閉じ、ロウェルは交代表を書き直す。ネレイアは剣の代わりに空へ線を引いた。何も切らない線だが、明日を予告する形。
俺は招待状をもう一度取り出し、光にかざす。裏のパンチの間に、ごく微かな擦り傷。ラ—。舌先から抜け落ちたあの音節の空白に似ている。空白を二本の指で覆い、心の内で短く言った。
——契約。
明日は言葉で試される。角度は、もう証明した。あとは舞台で、人々がどんな文を選ぶか。敷居は低く、線は明確に。そうして用意された夜を、俺たちは飲み干した。




