第5話「儀式の代価と声」
下水路の入口は、海みたいに息をしていた。満ちると低く膨らみ、引くと風のような音を出す。石段をたどって降りていくと、上からネレイアのドレスに付いた星屑が一つ二つ落ち、湿った空気の中ですぐ消えた。
「ここが十字室だ」ジョラが盾で壁を二度コツと叩く。模様が鳴る。古い塩の花が幾重にも咲く場所だ。「水路が四つ、ここで一つに集まる。敷居を引けば、生きる道にも罠にもなる」
「罠はいらない」ネレイアが先に言う。「今日は道だけでいい」
ロウェルが灯りを床に押し当てる。流れる水の上に糸のように細い紋様が浮いた。昼のホールで見た薄いラベルに似ている。0|0|0。ごく小さなパンチが、この場所にもあった。
「黒真珠サークルの手だね」ルシがしゃがみ込み、指で波を探る。喉のリングがうっすら光った。「ここを抜けるには儀式が要る。短い呪句じゃ通らない」
俺は頷いた。「手続きで押し通そう」
軽く歩調を合わせて円を作る。下水路という言葉とは裏腹に、ここには飾りが何もない。石と水と塩の匂いだけ。こういう場所ほど、言葉が規則になる。俺は背の袋から薄いガラスの杯を取り出し、縁石に並べた。いつも使う“通行の杯”だ。装飾はなく、縁に細かな目盛りだけが刻まれている。
「今日の代価は私が払う」ルシがまっ先に手を挙げた。「ここは、私の文じゃないと通らない」
彼女は声を使う顔をしていた。それは値段が張る。喉の奥に傷が入る類いの値だ。
「分けて払おう」俺は言う。「君は文だけ。力は息で分割。拍子は俺が持つ。ジョラは盾で水を抑え、ロウェルは角度だ」
「角度?」ロウェルが瞬く。
「レバーじゃなく、身体の角度」俺は笑う。「水は目に見えるより肩を早く読む」
ロウェルはぎこちなく頷いた。
ネレイアは杯の間に立ち、珊瑚色の髪を結わえる。「私の息は刃にする。流れが噛み付いたら、断つ」
「盾で受け流す」ジョラが構えた。「左の流れからだ」
俺たちは短い合意文を口で作った。招待――契約――安全。三つの語を、いちばん単純な文に。ルシはその文をゆっくり朗読する。声ではなく、風みたいな息で。喉を抜ける音が水面を撫で、俺はその息に拍を載せた。吸う時二、吐く時四。俺たちの分散支払はいつもこうだ。声一つが傷つかないよう、互いの肺を少しずつ借り合う。
一本目の水路が和らぐ。石床の塩の花の間から、細い道が現れた。誰かが一度は通った跡。おそらく黒真珠サークルの誰かだ。道の中央に小さなガラス片が刺さっている。ラベルの残滓。指で押すと微かに震えた。今もどこかで、同じ材質の文が一行ずつ作られているのだろう。
「二本目」ジョラが盾を斜めに立てる。俺は呼吸を合わせ、ルシは二番目の文を吹いた。
「招待は公開、契約は朗読。同意がなければ止まる」
水は言葉を覚える。その文が通ると二本目の水路も半拍遅れた。ネレイアはそこを刃で裂く。水が左右へ割れ、中央に縁石が現れる。縁石には短い文字が古い体で刻まれていた。真実――沈黙。その二語の間に小さな穴。パンチ。0。
「三本目」ルシが囁く。喉で滑らかな音が一度ためらう。昼の傷がまた引っかかった。ラ—。舌先から抜けるあの音節。
俺は頷いた。「その音は抜け。息だけで」
ルシは目を閉じた。そして囁きでも歌でもない、その中間の音を作る。水が耳を近づけて聴くみたいだった。縁の塩の花が剥がれて流れ始める。三本目の水路が砕ける。一度砕けた流れは同じ形で三度繰り返され、四度目に顔を出す――いつもそうだ。
「最後」俺は言う。「ここはいつも代価が大きい」
ルシが頷く。「分かってる」咳を一つ飲み込み、晴れやかに笑う。「私が先に払う」
「いいえ」ネレイアが彼女の前に立つ。「今日は私が先」
「君の息は刃で――」
「刃には値が要る」ネレイアは笑う。「私が**〈所有しない〉**って言ったの、言葉だけではダメ」
俺は遮らない。こういう時に要るのは、誰が先に自分の文で踏み込むか。ネレイアは最後の水路に向かい、ほんの短く言った。
「私は手放す」
その一文が水に落ちると、下水路全体が一瞬だけ息を止めた。その隙にルシが最後の一行を載せる。
「そして問う。君の選択は?」
水路が沈む。四本目は前の三つと違い、完全に底を見せた。石床の中心に小さな金属のラベルスロット。あの座席標の裏で見た構造と同じだ。ここに誰かが**『資格』**のラベルを差そうとしたのだろう。俺たちはその差し口を、文で塞いだ。
その時、ルシの身体がよろめいた。喉が切り取られたような痛みが顔に上がる表情。彼女は声を出さぬよう歯を噛み、リングが何度も点滅。俺はすぐに杯を持ち上げた。
「代価の分配。今」
同時に杯へ口をつける。今日の値を何で払うか、一瞬で選ぶ。できるだけ小さく、でも俺には大事なもの。昔、雨上がりの物干しから乾いたシャツを外した時に嗅いだ日差しの匂い――その極薄い欠片を杯へ吹き入れる。ジョラは盾革の油の香を一本、ロウェルは引きたてのロープの滑りを少し、ネレイアはいつも水から上がって埃を払う時の喉の端の息を一片、そしてルシは、ラ—からこぼれた空白そのものを。杯は一瞬重くなり、すぐ軽くなった。
「大丈夫」ルシが荒く息を吐きながら笑う。声は少し掠れたが、切れてはいない。「借りは……分ければ痛くない」
「俺たちは契約で動く」俺は言う。「代価は現場で払い、現場で分け合う」
ロウェルが金属スロットを覗く。「これ……何で塞ぐ?」
俺はコートの内から紙みたいなラベルを出した。ホールで剝がれ落ちた、赤い糸が付いていた薄いやつ。「これでいける。ラベルはラベルで塞ぐ。ただし文字は――」
「空けて」ルシが目を細める。「空白も文。今日は言わずに残そう。『資格』を代わる言葉は、今は沈黙だけ」
俺たちはラベルをスロットへ押し込む。はまる時、かすかな共鳴。石壁の奥で古い機械が動く音。その音が水で反射して戻る。十字室の空気がふっと軽くなった。水が半拍遅れて流れる。道が五本に増えたような錯覚。抜けるのに、抑えが効く空間の感覚。
「角度」俺は言った。
ロウェルが顔を上げる。「え?」
「今度は君」
ロウェルは大きく息を吸い、身体を横へわずかに捻る。肩線と肘が作る角を水が真似する。下水の流れは、人の骨格を盗んで模倣するのが上手い。彼は片足を石の出っ張りに掛け、反対の足を半拍遅れて踏み出す。水が足首を撫でて過ぎ、中心の流れがほんの少し右へそれた。
「今」ジョラがその角度に合わせて盾を押す。盾が流れを曲げた瞬間、ネレイアが刃で残り滓を断つ。水が四人の所作に沿って新しい図面を描いた。下水路が一瞬、俺たちの呼吸を「規則」として受け入れたのだろう。
「何度?」ロウェルが息を弾ませて問う。
俺は目を閉じ、水を耳で測る。当たり、返る音の遅れ、足首に触れる圧の角。
「十二」と言った。「十二度なら今夜は持つ」
ルシが長く息を吐く。声は出さず、その代わりに目が笑う。「じゃあ明日は十三ね」
「明日は明日の息で」ネレイアが言う。濡れた髪先から水滴が落ちた。「今日はここまで」
杯は洗わない。今日の値が残る杯は、洗浄ではなく布で拭いて保管するのが規則だ。どこでどう払ったのか、確かめられなければならない。俺は自分の杯の縁を嗅ぐ。微かな日差しはもう匂わない。代わりに舌先に薄い金属味。胸のどこかから、あの日の光景が一片、滑らかに抜けた手応え。雨上がりの午後の色。誰かの傘の影。輪郭がぼやける。
「平気?」ルシがそっと問う。
「ああ」俺は頷く。「平気さ。今日の値はこのくらいだ」
ジョラは盾を壁に立て掛け、片肩を回した。「敷居は下げた。戻ろう。上の水から先に変わる」
再び階段を上がる。上へ行くほど空気が乾く。港風が細い通路を下り、濡れた衣に新しい文を載せてくれる気分。外へ出ると、海は待っていたように同じ形で三度波を砕き、一拍置く。俺たちはその空白に、同時に息を入れた。
「十二度」ロウェルが空を見て繰り返す。「明日もこの角なら……みんな、よく眠れるよね?」
「真夜中だけ少し揺れる」俺は言う。「その時だけ巡回を厚くすれば足りる」
ネレイアが隣で笑う。「今のあなたの言葉が、この街に刻む文だよ」
ルシは喉を撫で、リングをそっと押した。「私は、今日は言葉を惜しむ」
「それが一番格好いい」ジョラが短く笑う。「言わなくていい言葉、いっぱいあるからな」
俺は内ポケットから空白ラベルの束を出し、もう一枚を折る。今日みたいに差し込むスロットは、これからもっと増えるだろう。黒真珠サークルがガラス札に差し込もうとする言葉を、俺たちは何度も引き抜く。引き抜くほどに、俺たちも少しずつ値を払う。
「それでも――」ロウェルが言う。「俺たちの払った値で、誰かの夜が楽になるなら……悪くない」
俺は彼を見る。彼はまだ若く、臆病だ。だがこういうことを言う時、その臆病には方向がある。俺は頷いた。「それが、今日俺たちが結んだ契約だ」
港の欄干で、もう一杯海茶を分けた。乾燥海藻ひとつまみ、塩ひとつまみ。レモンの皮をカップの縁に軽く擦り、最初の一口は舌の下へ。今日は特別に、ルシにだけ蜂蜜を一滴。彼女は驚いた目で俺を見、黙って笑った。喉に良い甘さは契約の語ではないが、俺たちの例外だ。
遠くでブイが二度鳴る。その音が終わるまで、誰も何も言わない。沈黙も真実であれば証言になる――今日、下水路がもう一度教えてくれた。そして沈黙が終わると、同時に立ち上がる。
「明日は十二度を守り」俺は言う。「その次の夜に十三を準備しよう」
ネレイアが頷く。「その次は?」
「波は同じ形で三度砕け」俺は微笑む。「そのあいだの空白を、俺たちが契約で満たす」




