第4話「下水門を開く手」
下水路へ降りると、空気は一段低い音になった。湿気と塩の匂いが煉瓦から立ちのぼり、天井の隙間から小さな波の音が息のように染み込んでくる。水脈は二手に分かれていた。右は港へ、左は舞踏会場の下を撫でて抜ける。足首の布バンドが濡れると、いっそう冷たく、薄い灯りが浮いた。
ジョラが真っ先に滑る斜面を下り、盾を斜めに立てて流れの肩を外側へそっと押す。角度を指一本、また指一本――正確な手つきだ。
「右の流れは俺が押さえる」
短く言い、もう一度しっかり盾を当てる。
ネレイアは水面に足の甲を置くように軽く踏む。さざ波が一瞬震え、すぐ静まる。彼女が作る静けさが、薄い板のように水脈の真ん中に浮かんだ。深海のドレスの裾は触手のような微細な動きで流れを読む。
ロウェルは水門室へ通じる鉄扉を引き、指先に乗った重みをため息で知らせた。
「締まってます。外からレバーを掛けられたみたいだ」
ルシが敷居をコツと叩く。指先から小さな気泡。
「鉄だけじゃないわ。言葉がぶら下がってる」
耳を澄ますと、扉の向こうで規則的な金属音。カチ、カチ――数秒おきの落下音。この場所では単語一つが物の重さを変える。上から誰かが**『資格』**を囁き続けている。
「上を見て」ルシが顎で闇を差す。「ラベルの網」
アーチ天井の下に、細いガラスの梯子が幾段も垂れていた。梯子にはガラスラベルが吊られ、水に触れてかすかに揺れる。貴賓、証明、資格――単語が雫のように生まれては落ち、その雫が鉄扉の足首を少しずつ絡め取っている。
「ジョラ、右を指一本」
「受けた」
盾がもう一度ずれ、流れがラベルの方へ跳ねないよう曲面を滑って抜ける。頭上のガラスは鳴りを弱めた。
「最初の段、私が切る」
ネレイアが空中で指先を合わせる。水が刃のように寄り集まり、彼女が下ろした跡でガラスは割れない。代わりに言葉が消えた。――『資格』という音素が、なかったことになる。
俺はロウェルを見る。「次はお前だ」
彼は扉に掌を当て、息を整え、静かに言う。
「開けます」
扉が、ごく僅かに息をするように震えた。言葉が力を押すのではない。言葉が自分の重さを引き受ける瞬間だ。ロウェルはその隙を逃さない。肩で支え、膝で押し、両手で掛金を上へ引き上げる。この仕事には、彼の手だけが知る角度がある。
ルシは喉を惜しむように口を閉じ、指先で小さな円を描く。円周から細い線が枝のように伸び、鉄板の隙へ潜り込む。
「繋ぐだけ。声は使わない」
その時、天井から細いワイヤが釣り糸のように垂れた。ラベルを切る瞬間、足首を縛るよう設計された罠だ。
「後ろ!」
ジョラが盾を捻って受ける。短い金属音、衝撃が腕にドン、ドンと伝わる。ネレイアは水の刃を収め、盾の面へぴたりと寄せた。二人の構えが一呼吸で固まる。
「今だ、レバー!」ロウェルの低い声。
鉄扉が紙のように裂けて片側へしなる。外の水が長い息を吐きながら内部へ身を差し入れた。――この時に向きを取らなければ、流れに飲まれる。
俺はロープを出し、ロウェルの腰に巻き、自分にも一巻き。水で濡らして摩擦を落とし、頷く。
「二で引く。一……二!」
扉はさらに開き、ロウェルの身体も前へ。マントは濡れて重く、それでも目は揺れない。腕の筋がふくらみ、沈む。俺は腰へ食い込む痛みをそのまま受け、もう一度引いた。
「三で固定!」ジョラが拍を切る。
「三!」
四人の力が一点で合わさった。ルシは低く保っていた息を長く運び、額に薄い汗。喉はほとんど使っていないのに、微かな震えが登る。
「分けて」
俺が言うと、ルシは頷いた。彼女の描いた円から一点を剥がし、俺の手背へ移す。熱くも冷たくもない海の微温。震えが俺の胸へ移り、彼女の顔色が少し戻る。
最後の掛金が壊れた息を吐いて外れた。水脈は細縄のように流れ込み、やがて一定の幅へ落ち着く。上から落ちていた**『資格』の雫**は新しい流れに攫われ、遠のいた。ワイヤは盾の上で力を失い、だらりと垂れた。
「開きました」
ロウェルは二歩下がって背で壁を支えた。膝は少し震えたが、すぐ芯を取り戻す。俺はロープを解き、腰を軽く叩く。彼の呼吸は自分のテンポに戻っていた――他人に決められたタイミングではなく、自分で掴んだ拍だ。
天井の上をヒールが軽く掠めた。続いて短い悲鳴、転がるグラスの音、仮面の縁が押される音。上も慌ただしくなる。
「ここ、まだ回収が残ってる」ルシが囁く。
彼女が示す先々に、黒真珠色の粉が薄く沈んでいた。取引の匂い。記録ではなく、競売の空気。
水門が開くと、下水路の奥から人がぽつぽつ姿を現す。足首の布バンドが濡れた灯を上げ、互いの進む先を照らし合う。『貴賓』の薄いラベルを握る者、慌てて衣の中へ隠す者。ラベルはもはや効力を失ったが、習慣は事実の理解に遅れてやって来る。
「そのラベル、集めよう。貼り付く言葉だから」
俺は頷く。そこへ、小さな足音が水を塗るように近づいた。舞踏会場の入口で見たあの子だ。片手にゴムの笛、もう片手にラベルを持ち、俺へ差し出す。
「これ貼れば通れるって。でも、おじさんが言ったでしょ。言葉より先に踏めって」
「ああ」
俺はラベルを受け取り、“きっちり半分”ではなく “半ばだけ”折る。ラベルが小さく不平を言うような感触が指先をくすぐった。無視して開き直す。
「これを貼ると、言葉が先に飛び出す。その代わりに、約束を一つ残そう」
「どんな約束?」
「嫌なら止まる、という約束」
ネレイアが子の頭を軽く撫でる。「それがいちばん先よ」
子の目が大きくなり、ゆっくり笑みに折れる。ラベルの代わりに笛をぎゅっと握った。
「じゃあ……出る時に吹くね」
「今じゃなくて」ロウェルが笑う。「外で」
俺たちは人々を縁へ寄せ、流れへ入ったラベルの破片を集めて小袋へ。ルシが袋口に封止ラベルを貼る。
「虚偽表示 禁止」
水門室を出ようとした時、上のバルコニーで赤いリボンが風に流れた。続いて仮面が一つ、こちらへ会釈する。ルビーのヴェール。仮面の奥の視線は端正に冷たい。
ネレイアがごく浅く息を吸う。ルシは喉を一度撫で、ジョラは盾を目の高さへ。ロウェルは掌のマメを軽く撫でた。
仮面の唇が動く。音は充分近い。
「資格」
単語一つが舞踏会場の床をかすかに鳴らす。だが今度は水が先に揺れない。下水路の流れはもう整い、敷居は引かれている。ジョラが刻んだ線、俺たちが共に立てた順序。『資格』は水に触れる前に力を失い、滑っていった。
「今夜は関税がきついですね」
俺は見上げて言う。「言葉より先に踏む夜ですから」
仮面の目が細くなる。赤いヴェールが香を零しながら揺れる。笑みとも警戒ともつかない表情で、仮面は視線を外し、別のバルコニーへ歩いた。足音に急きはない。――予告のようだった。
「誰?」ロウェルが低く。
「斥候」ネレイアが短く。「それと競売の告知」
俺たちは梯子を上がる。舞踏会場へ抜ける敷居に触れた時、舌先に空白がまた掠れた。ラ—。一日じゅうスクラッチの入った音節。俺はその空白を掌でそっと押し、内側へ送る。――順序は忘れていない。
「思い出した?」とルシが囁く。
「まだ」俺は笑う。「代わりに、先にやることは思い出した」
一歩目は行為、次が言葉、最後が代価。
今夜、俺たちはその順で門を開いた。上で誰かが別の単語を用意していても、順序は変えられない。――それは俺たちが定めたのだから。
扉を押し上がると、レモン皮と濡れ革の匂い、薄い香水が一度に過った。灯りが水面へ降り注ぎ、布バンドを明るく照らし、人々の顔が一つずつこちらを向く。床にはまだ乾かない踊りの痕が艶めく。音楽がまた始まる。
「行こう」
ジョラが盾の縁をコツと叩く。金属音が長く響き、舞踏会場の敷居が鮮やかになった。
俺はボタンラインを真っ直ぐにする。――この夜の次の文は、その線の向こうで俺たちを待っている。




