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第24話「月光の森のループ」— 七日目・器を守る言葉

口笛がもう一度、長く空気を裂いた。影たちが木々のあいだからほどけ出る。昨日、広場から逃げた男が先頭に立ち、その後ろに二人が間隔をあけて続いた。三人とも腰に薄いガラスのラベルを何枚も差している。文字は真新しい――代行、委任、緊急処理。


「今日は手続きを整えて来たぜ」先頭の男が薄ら笑いを浮かべる。「主の言葉がない時は委任状が代わりになる。それが法だ」


ジョラが盾を肩線に沿わせて構えた。「道上の法は、道が決める」


彼女の言葉が終わるより早く、男が石を拾い上げた。腕が上がる角度を見た瞬間、僕は頷く。ロウェルが一歩踏み出し、盾の縁をそっと男の視界に滑り込ませた。陽が盾に弾け、閃光が走る。その刹那にジョラが身を滑らせて前に入り、男の手首をきゅっと捻った。石は音もなく土へ落ちた。


狼が土手の上で低く唸る。その声は闘いを呼ぶ吠えではない。警戒、通告。道の外の者に与えられる最後の案内音。


黒い外套の女が、僕らと彼らを交互に見た。「道の中央では委任状は言葉になりません」静かな声。「ここは足跡が先だから」


「だから足跡を残しに来たさ」後ろの男が鼻で笑う。彼はラベルを一枚はがし、自分の足の甲に貼った。通行。

「見えるだろ? 手続き」


その足が道の境界線に乗った瞬間、道がかすかに揺れた。昨日、僕らが書き残した最初の行が木の葉の影のように浮かび上がる。止めてと言われたら止まる。その文に触れた途端、彼の足は滑るように静止した。無理に押し通せそうにも見えたが、足首の角度はすでに道の味方をしていた。


ルシが僕を見る。「いま。もう一行」


彼女は深く息を整え、器の表面を指先でなぞった。声は低く、澄んで、はっきり。


「私たちの明日は、転売できない」


器の薄膜が波紋のようにふるえる。月光がその文を記し始めた瞬間、男が歯噛みした。


「俺たちが売るのは『文』じゃなく『処理』だ」男は搾り出すように言葉を吐く。「分からねえなら――」


もう一度身を沈めかけたその瞬間、狼が土手を蹴って飛び降りた。狼の歯が、男の腰のラベル束だけを正確に噛みとる。薄いガラス片が下草に散り、陽にきらめいた。狼は裂きも呑みもせず、ラベルだけを遠くへ放った。ラベルは道の上へは入れない。落葉に沈むと、文字はしばらく淡くなり、やがて消えた。


「ラベルは不味いな」狼が素っ気なく言う。


「いい」僕は器の縁に手を置いた。掌の熱がゆっくりと膜へ広がる。「開けはしない。代わりに、閉じる権限を主へ戻す」


僕が言うと、ロウェルが隣に並ぶ。「文は短く、支点ひとつ」彼が盾の角度を微調整した。盾で整えた風が真っすぐ器の上へ流れ込む。


僕は唇を離す。「開きも閉じも、主の言葉だけで」


文が表面を広がりながら、どこかでひっかかった。薄膜の縁でごく微かな音。昨夜の言葉と、今日足した言葉が互いの端を探っている。最後の一片が必要だ。この森でその一片を持つのは、はじめから僕らの中のただ一人。


少女が僕の隣へ来た。手が震えている。僕は頷く。「君が書きたい言葉を」


「私が……壊したのは、私が直します」彼女は一度、息をのみ、器の文に揺れる自分の瞳を見つめた。「だから――」


彼女は器にそっと息を吹きかけ、低く言った。


「私は昨日の匂いを手放す。今日は私が受け取る」


その言葉が触れた瞬間、器の表がいっとき暗くなり、ゆっくり澄んだ。月光が文を一行ずつ整える。開けずとも閉じを確認できるだけの静けさが、器のまわりに落ち着いて座った。空気が軽くなる。森の匂いが変わる。長く染みていた湿った夜の匂いが一枚はがれ、土の匂いがしかるべき時に戻ってくる。


先頭の男が罵りを呑み込む。最後のラベルを抜き、器へ投げつけた。ラベルは空を切って回転し、口縁に触れ――その刹那、ジョラの盾が上がる。盾の角と薄いガラスが当たり、グラスをスプーンで打つような音が一度だけ響いた。ラベルは真っ二つに割れ、地へ落ちた。


女は男を真っ直ぐ見た。「やめなさい」


その声は大きくはないのに、道がそれを受けて長く反芻した。風の音も、草の擦れる音も、同じ方角へ流れる。やめなさい――道の外の者に与えられる最後の一語。男は歯を食いしばった後、肩の力を抜いた。振り返る。連れの二人も空気を読み、少し退いた。


「今日は運が良かったな」男がつぶやく。「夜が戻ったら――別の道で来る」


「道はおまえらが決めない」ジョラが盾を下げる。「先に足を変えろ」


男は答えず、三人は森の縁をなぞって遠ざかった。狼は彼らが消えるまでつけ、木二、三本ぶん先で立ち止まる。尻尾がひと振り左右に揺れた。戻ってくると、下草からラベルを一枚くわえて来た。文字はもう薄い。緊急処理。狼はそれを僕の足元へぽとりと落とした。


「急ぐほど、道を失う」ルシが微笑みなしに言う。


僕らはふたたび器を囲む。波紋がおさまると、器は自分で影を軽くはらうみたいだった。そして信じがたいことに、器はほんの少し軽くなると、そのまま土の中へ静かに沈み始めた。物体ではなく文が沈んでいくかのように、音も立てず。


「夜になれば元の場所へ戻ると言いましたね」僕が女を見る。

「ええ」女は頷く。「今日は昼に主の言葉が届いたから、夜は道が別の進路を選ぶでしょう」


器が地面と同じ高さになるころ、表から薄皮のような一片がふわりと剥がれた。月光で干したパピルスみたい。そっと手を差し出すと、ひとかけらが掌に落ちた。冷たくも熱くもない。表には新しい文がインクなしで刻まれている。いま書いたばかりの言葉、そしてこの森で昔に記されたいくつかの行。止めてと言われたら止まる。開きも閉じも、主の言葉だけで。そして一番下に少女の行――私は昨日の匂いを手放す。


僕はその片をルシに渡す。ルシは一度読み、少女へ手渡した。少女は両手でそれを受けとる。指先はもう冷たくなかった。


「あなたが守りな」ルシが言う。「あなたの言葉だから」


少女はゆっくり頷いた。「はい」


女は背を向け、森を一望する。木々が古い息を吐き、鳥が枝から枝へ移って、やがて静かに落ち着いた。昼だというのに、月がひとときくっきりしたかと思うと、すぐに薄れた。時間がゆっくり正位へ戻っていく。


「私たちは何を支払い、何を取り戻した?」僕が女に問う。

「代価は言葉で払い、言葉が守る夜を取り戻したの」女はほとんど分からない笑みを浮かべた。「今夜はもう巻き戻らない。少なくとも、今日の夜は」


女が去る支度をすると、狼が道を開くみたいに身を引いた。彼女は歩き出す前に、もう一度だけ振り返る。


「次の辻でまた会うかもしれません」女は言った。「そこでは海がもう一度、凍る。氷じゃなく、負債で」


言い残し、女は木々の間へ消えた。足跡は道のど真ん中だけを踏み、いつの間にか完全に絶えた。森は相変わらず森だった。ただ、空気が――昼らしく軽かった。


家へ戻る道すがら、僕らはほとんど話さなかった。言葉は今日使うぶんを使った。代わりに足で書いた。分岐を通ると、昨日の各行が陽の中でほんの刹那温み、消えた。道が僕らの文を読み、記憶し、払い落としたのだ。


縁側にいた祖母が手だけで中を示す。やかんが再び小さく沸く。少女は月光の片を両手にのせて上がった。


「どこに置けばいい?」

「あなたが触れる場所」祖母。「触れやすい所。忘れないために」


少女は少し考え、部屋の窓辺に小瓶を置き、その隣に片を斜めに立てかけた。陽が触れると、文字がかすかに光る。一日だけの光だ。


遅い昼食のあと、風が一度向きを変えた。窓が微かに震える。遠い海から潮の匂いが細く運ばれてくる。ルシが顔を上げた。


「聞いた?」

「ブイの鐘」ロウェルが応じる。「遠いけど、確かだった」


僕は少し遅れて音を追う。はるか沖で、どこの港にも属さない浮標が揺れるときの音。どこかで誰かが座標を開けたのだ。負債の海、あるいは負債のせいで凍る海。女の言葉がただの前振りではないと、耳が先に悟った。


「今夜は巻き戻らない」ルシが囁く。「でもその代わり、別の場所で一度、巻かれているものがある」


僕は頷いた。「そっちへ行こう」


狼が縁の下であくびをする。狼にとっても、今夜は一度きりになるらしい。妙に嬉しくなって、頭をひとなで。狼は一瞬目を閉じてから開き、僕の手の甲に鼻先を当て、匂いを一度嗅ぐ。尾を短く振った。


夜が来ても、この家の時計は巻き戻らなかった。窓の外の暗さはただ降り、戻らない。僕らはそれぞれ寝床で身じろぎし、ほとんど同時に体を起こした。慣れない正常というものが、かえって目を覚まさせる。


その時、トンと軽く戸が叩かれた。誰も返事をする前に、祖母が立ち上がる。戸を開けると、昼の女ではなかった。代わりに小さな封筒が敷居に置かれている。封の角に細い紅い糸が一筋。閲覧可――夜明けに。


僕は封筒を明るいところへ持っていく。重さはほとんどない。中身が何であれ、この家の敷居は明日に開けと言っていた。


灯を落として目を閉じる。夜は一度きり、明日は転売できない。そうして瞼を閉じた刹那、ずっと遠くで再びブイの鐘が鳴った。昼に聞いた音より半音低い。負債の海はたいてい、二度目の鳴りから始まる。


その直後、窓枠に掛かった月光が、ごく薄くふるえた。ふるえはすぐに消える。ループは終わった。だが道は――次の道をもう、開けて待っているように見えた。

反応が低調なため、アーカイブ スパインは休載します。

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