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第23話「月光の森のループ」— 六日目・森の署名

朝の空気がひときわ澄んでいた。夜通し窓枠にもたれて眠っていたルシが伸びをしながら言った。


「喉、今日はあまり痛くない。昨日の言葉を長持ちさせるなら、今日は身体で書くべきだ」


祖母は何も言わずに茶釜をすすぎ、水を張った。刷毛を当てなくても、水面には金砂のような光が散った。縁側の端で狼が欠伸をする。この家の敷居は彼にとって依然として黄金だ。彼が内へ足を入れないかぎり、ここに平穏が保たれる――そんな古い約束が働いているらしい。


「身体で書く、ね」ジョラが盾紐を締め直し、祖母を見る。「どう書けばいい?」


「森道に沿って署名しな」祖母は蓋を載せて言う。「言葉は空の仕事、けれど道は地の仕事だ。地は手より足を信じる。おまえたちが昨夜言ったことを、今日は一行ずつ、歩いて書きな」


ロウェルが窓を開け風を入れた。「分岐から始めよう。森全体がそこを基準に息をしている」


少女が僕の隣で両手を固く握った。指先はまだ冷たい。「私も書きたい。私が台無しにした道だから」


僕は頷く。「一緒に歩き、一緒に止まる。昨日そう約束した」


遅い朝、僕らは道へ出た。木洩れ日が薄く降りる。足下の土は柔らかく、昨日まで覆っていた薄氷の殻は消えている。ジョラが速度を落として路面を読む。踏み出すたび、土がきわめて淡い光を残した。祖母の言ったとおり、この森は足跡を記憶する側だ。


分岐に着くと、僕らは短く立ち止まった。四方へ伸びる道は色も匂いも違う。ある道は樹脂の匂い、別の道は濡れた草の匂い。ルシが二度ほど息を整え、低く言う。


「一行ずつ、間隔を置いて。道の書き出しは私が読む」


彼女は一歩踏み出し、極短く言う。「止めてと言われたら止まる」

僕が続く。「問い、答えを待つ」

少女が囁く。「売らない、借りたものは返す」

ジョラは盾を肩から外し腰へ。「越えない線は互いに守る」

ロウェルが息で結ぶ。「誤っていたら直す――今ここで」


一行ずつ伸びた僕らの歩幅は、それぞれの道に細い光として残る。陽が強ければ消え、葉影が掠めればまた浮く。狼は分岐の外の影をなぞって大きく周回した。道の中央には入らない。代わりに短く一声、方角を知らせる。


「あそこはまだ押されている」狼が首を返す。「昨夜の商人の足跡が残ってる」


指した北の道の端に、ガラス片のような煌めき。近づくと薄いラベルが土に半ば埋まっていた。表面には流麗な二語――免責、凍結。


「まだ未練が残ってる」ルシが低く言う。「言葉は退いたのに、モノは踏みとどまる。いつか誰かがまた拾い上げる」


僕は膝をつき、ラベルを掬い上げた。鋭くはないが冷たい。光が掠めると文字は一瞬消え、また戻る。捨てず、拾わずが答えのときもある。僕はラベルを抜き取り、そっと脇へ――道ではない場所の落葉に寝かせた。


「道の上では効力がない」ロウェル。「ここでは今日僕らが書いた文が先に読まれる」


再び歩く。分岐から南に伸びる道は、昨日の広場へ続く方角。昼なのに月光がうっすら混じって見えた。不思議だ。陽の中で月光が蘇るのか、と訝しんだが、森とは時にそうした矛盾を平気で成立させる場所だ。


「止まって」ジョラが突然言う。耳を立て、風を裂く音を読む。「前方に水音。ここに泉はないはず」


僕らは同時に速度を落とす。森の匂いが一度入れ替わり、草と土のあいだから濡れた石の匂いが混じる。数歩で低い土手の向こうにきらめき。新しい湧水かと思えば、よく見ると水ではなく――ガラス。


土手の裏に浅い鉢が置かれていた。透明な壁、きれいに仕上げられた口縁。中にあるのは水ではなく月光で、表面には鳳仙花の染みみたいな薄い膜。そして側面には細い刻印。


開くな。まだ時ではない。


少女が息を呑む。「箱……みたい。でも蓋がないのに、『開くな』って?」


ルシが近づき、口縁の上に掌を滑らせる。指先に極薄い抵抗が触れた気配。「蓋のない蓋。開けたら――こぼれる。ここに**溜めてある〈時〉**が」


ロウェルが目を細め、曲率を追う。「今の月の作じゃない。古い約束の技法。開いていて、閉じている鉢だ」


僕は祖母の封筒を思い出す。夜を巻き戻していたあの文、昨夜僕らが上書きした言葉。鉢はおそらくそれより古い。誰の約束を抱えているかは分からないが、確かにまだ有効だ。


「中には何が?」少女。瞳に鉢の表が揺れる。


「期日だ」僕。「返すべき〈時〉の欠片。誰かが前もって詰めておいた明日」


「じゃあ……開けたら、明日が溢れるの?」半分のときめきと半分の怯え。


「溢れるか、消えるか」狼が土手に上がり言う。「時を弄れば、いつだって代価がある」


僕は頷く。「昨夜、僕らはもう少し払った。今日さらに払うか、それとも――待つか」


ジョラが盾を下ろし、鉢のそばに立てた。影が表を掠めると、薄膜は一瞬濃くなり、元へ。「狙う者はいる。ラベル商じゃなくても、〈時〉を奪って自分の懐に入れたい輩は多い」


「じゃあ隠そう」少女がすばやく言う。「これを――」言葉を選ぶ。「別の場所へ運べば、誰にも見つからない」


「隠すには別の約束が要る」ルシが静かに言う。「誰が、誰のために、どれくらいのあいだ? それを誰が守るの?」


そのとき、森の向こうから足音。ひとり分。急がない歩調、けれど道を知る者の歩幅。間もなく女が現れた。黒い外套に銀糸の小星。見た目は旅人。彼女は立ち止まり、僕らと鉢を見比べた。


「遅れましたね」女が言う。口調は落ち着いている。「この鉢は夜ごと元の場所へ戻るのに、今日は昼に見える」


「あなたが置いた?」僕。

女は首を振る。「私は守る側。二つだけ訊くわ。ひとつ、これを開けたことがある? もうひとつ、ここに新しく何かを収めたい?」


少女が僕の背後に半歩隠れる。ジョラとルシが同時に前へ出て隙を埋め、ロウェルは女の靴跡の軌跡を目で辿る。足跡は道を避けも侮りもせず、正確に中央を踏んで来た。


「なぜ尋ねるかを先に」僕。

「〈時〉を盗む者はいつも嘘をつくから」女は小さく笑う。「私は嘘発見器じゃなく、道の記録を読む。今日はここから嘘の匂いがしなかった」


狼が低く唸る。敵意ではなく警戒。女は狼に頭を下げ、狼も小さく受ける。短い挨拶――それがこの森の手続きらしい。


「僕らは開けていない。開けるべきかもまだ分からない」

「いいわ」女は縁を指先で軽く叩く。音がする。ガラスではなく、薄く凍った水の音。「なら二択。そのまま夜まで守るか、ここで今日の言葉を重ねる――つまり鉢の文を書き換えるか」


ルシが問う。「文を変えれば、ループはまた動く?」

「動くでしょう」女の眉がわずかに上がる。「でもどちらへ動くかは分からない。文は方角を作り、方角は代価を作るから」


少女がそっと前へ。「じゃあ、私の言葉も載せられる?」

女はゆっくり見て、頷く。「奪われたものがあるなら、取り返す言葉もあるはず」


僕は長く息を吸う。森の匂いがもう一度入れ替わる。陽の中の月光がわずかに輪郭を増す。昨夜、僕らは言葉で夜を止めないようにし、今日は足で署名を書いた。残るはこの鉢――開いていて閉じている鉢――の前で、もう一行を選ぶこと。


「開けずに言葉は置ける?」

「できるわ」女が目に見えない膜を押す。微細な波紋。「ここ。表面に残る言葉がある。夜が来れば月が読む」


ジョラが僕に視線。決めよう――そういう眼差し。ロウェルは風向きを確かめ、ルシは喉を整え、少女は僕の手の甲をそっと掴む。狼は土手の上で動かない。各々が位置に就いた。


僕は縁へ一歩。手の甲に薄く月光が乗る。言葉は石の重さで――祖母の声が静かに沈む。今必要なのは、短く、重く、ここで有効な一文。


「いい」僕は言う。「開けない。代わりに――今日の言葉を残す」


ちょうどその時、森の南から低い口笛。広場で追い払ったあの男の音。今度はひとりではない。二、三の影が木々のあいだから滑る。手にはまたガラスラベル。昨日とは違う文字――代行、委任。


女は僕らと彼らを見比べる。「選んで。夜になれば鉢は元へ戻る。文を残すなら今。戦うなら――それも今」


少女の手が僕の手に力を込める。僕は息を吸い、鉢へ身を傾けた。僕らの言葉は道と同じく順序を持つ。誰が最初を言い、誰が止まれと言い、誰が誤りを告げ直すか。


「ルシ」僕は囁く。「最初の一行を」


彼女は頷く。声は低く澄んでいた。「私たちの明日は、転売できない」


その言葉が表面でさざ波のように広がる。月光が文を写し取りはじめたその瞬間――ラベルの影の一人が身を折り、石を拾った。誰かが飛び込めば、鉢は割れるかもしれない。そうなれば森の時間はまたもつれる。


僕は身を返し、彼らを見る。ジョラが盾を上げる音が短く響き、狼が低く長く唸る。女はまだこちらを見ていた。その眼差しは語るように静かだ。


開けるか、守るか。あるいは――

守りながら書くか。


月はまだ高い。そして僕らには、もう一行ぶんの喉が残っている。

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