第22話「月光の森のループ」— 五日目・月の返納書
部屋の空気はあたたかかった。壁には陽だまりの跡が残り、窓辺のガラス瓶には乾いた花。僕らが上がるやいなや、祖母はまずやかんを火にかけた。沸き立つまで誰も急かない。立ちのぼる湯気がゆっくり部屋を満たすあいだ、外の狼は敷居を越えず、影の中からこちらを見守っていた。
「寒さには言葉よりお茶だよ」祖母が茶碗を差し出す。手の甲の皺ひと筋ひと筋に、森の年輪が重なっている。少女は両手で受け取り、ふいに茶碗を置いて深く頭を下げた。
「道を売りました。あの時はあたたかいコートに目が眩んで……もう二度としません」
「もう帰って来ただろう」祖母はきっぱり言う。「帰って来る子は、道を守る側に育つ。森ってのはそういうふうにできてる」
壁の古いカレンダー――月の相だけが刷られた薄紙に目をやる。毎月の最後の枠に細い切れ目があり、そこから銀の粉がほんの少しこぼれていた。
「巻き戻しは、この家から始まるんですか?」僕がたずねる。
「この家で始まって、この家で終わるよ」祖母は箪笥の引き出しから薄い封筒を出した。紙のようで、触ると冷たく湿っている。月光が固まったみたいに。封蝋の上に手書きの短い文。
――夜が安全だという証明が得られるまで、時間を巻き戻す。
ルシが封の表面を眺める。「証明……誰に見せる証明です?」
「空さ」祖母は空っぽの空を指す。「昔、あたしが書いた。子どもを守るために。真夜中ごとに月へ塗り込める約束さね」
ロウェルが手を伸ばしかけ、止めた。「じゃあ今のループは、この文がまだ破棄されていないせいで続いている。『安全の証明』を、誰も適切な言葉で提出できなかったから」
「言葉はいつだって石の重さであれと教わったよ」祖母の声は柔らかくも確かだ。「軽い言葉は、月は聞いたふりもしない」
ジョラは壁から壁までの幅を目で測り、僕に首を傾ける。「敷居は開いてる。けどこの封筒が戸枠だね。私たちに変えられる?」
「私たちに変えられるのは、いつだって言葉と位置」と僕。「誰が語り、どこに立って語るかだ」
ルシが喉に触れた。「今日は喉、節約する。その代わり呼吸は分け合おう。私が熱を持つ前に、誰か**『止めて』**って言って」
「じゃあ場所から」ロウェルが窓を開ける。冷たい風が入った。「巻き戻しは月光から始まる。いちばん月が溜まる場所で私たちが言わなきゃ。森の中央の広場、あの岩の上。昨日、蝋燭がいちばん早く消えた」
祖母は封筒を僕に渡した。「これを持っておいで。そこに書かれた約束を返しな。月に『もういい』ってね」
少女が手を上げる。「私が持ってもいい? 私のせいだから」
「一緒に持つ」ジョラは少女の手首を自分の盾紐に軽く結んだ。「転びそうなら引き上げられるように。引きずられないように」
僕らが外へ出ると、狼は小さく頷いた。やはり敷居は越えない。月光が森道に薄く流れ、木々のあいだから白い粉がこぼれるようにも見えた。ロウェルが光の向きを読む。
「今は西から東へ」
「昨日は逆だった」僕が小声で。「巻き戻しの向きが変わったってことは、ちょっとは解けた。たぶん扉の前の告白のおかげ」
広場に着くと、すでに人影があった。黒い外套、闇より光る靴、手には薄いガラスラベル。僕らが近づくと、彼らは笑みを崩さない。
「ここはギルド登録区画です」先頭の男が言う。丁寧な声に、語の一つひとつ勘定が付く。「夜の安全を、金の代わりに証書で売買できる許可を得ています。老人と子どものためのやさしい市場ですよ」
「市場ね」ジョラが盾をわずかに傾ける。「ここで道を買う誰かがいれば、どこかで必ず誰かが失う」
男は肩を竦めた。「人間はいつだって失い、いつだって買う。私たちは法を作らずとも、無秩序に秩序をもたらす」
ルシが僕の隣で二度、静かに息を整え、唇を開く。「秩序は十分に見える。でも、誰かの自由を先に縛る時がある。私たちは順番が違う。まず合意の順序を置く。売る前に問う、買う前に『止める権利』を確かめる」
「止める権利?」男が首をかしげる。「夜は冷酷ですよ。止める権利なんて」
「夜が冷酷だから、必要なんだ」僕は封筒を掲げる。銀の封が月光を受け、ひと震え。「この約束を返納しに来た。安全を月に外注しない。僕らは互いに合意し、互いの言葉で保証する」
男の眉がわずかに上がる。僕らの後ろの少女を見ると、桃の皮のような笑み。「ああ、お客様。コートは役立ってますか? 今日は何と交換しましょう。夜のひとかけらは、いつでも良い値になりますよ」
少女が一歩、僕の前に出た。「私は道を売らない。今日から。寒かったら――」彼女は僕を見る。「借りてもいい?」
「いつでも」僕。「嫌なら返せばいい」
少女は男をまっすぐ見た。「だからあなたが私に売るものはない」
広場の空気がわずかに変わる。男が微笑のまま合図すると、背後の連中がラベルをさらに取り出した。ガラス面の文が月の下で光る。免責、委任、凍結。ルシはそれらを読み、唇を噛む。
「免責が先に来ると、被害が道に迷う。その次が委任だなんて。持ち主不在の保護は保護じゃない」
僕は封筒の手書きをもう一度読む。安全の証明があるまで。その下の空白に、指でゆっくり文字を置いた。今度は僕らの文を重ねる番だ。
「安全を転売しない。責任を委託しない。『止めて』と言う権利はいつでも有効。」
僕は封筒をルシへ。彼女が頷き、ロウェルは背後で数は数えず、呼吸だけを数える。ジョラは盾をほんの少し立て、狼は広場の縁でゆっくり動きを止めた。
「月は遠いけど、声は遠くない」ルシがささやく。「最初の一行は私が言う。続けて」
ルシは自分のテンポを選び、喉を酷使しない高さで始める。澄んだ声。「安全を転売しません」彼女が間を置く。僕が継ぐ。「私たちは互いに問い、互いに同意します」
少女が胸を握り、一行を添えた。「今日以降、道を売りません。道を尋ねる人には、私の知るぶんだけ分かちます」
ジョラは盾を岩に立てかけ、両手を空にした。「誰かが止まれと言えば止まる。止まった場所でまた問う」
ロウェルが結びを置く。「誤りが出たら直す。『誤りだ』という言葉は、私たちを倒すためではなく、より良い言葉へ進むためだと互いに保証する」
封の割れ目が小さな粒が弾けるみたいな音でほどけた。月光が一度だけ揺れ、今度は巻き戻らずに流れた。木の影が西へと傾きはじめる。誰かが大きく息を吸った。
男は笑みを消さず、手のラベルをゆっくり下ろす。「口約束は散りがちです。紙に残さなければ。あなた方のやり方が長持ちするか、見物させてもらいましょう」
彼が背を向けると、人々も静かに消えた。足跡は残らない。僕は封筒をそっと折り、祖母へ返そうとした。そのとき、狼が広場の端で言った。
「今夜、月は後ろへは行かない」乾いた声に、安堵が混じる。「ただし、お前たちの約束が日の出の後も残るか――明日の夜、もう一度見る」
祖母は封筒を受け取り、頭を垂れた。「この紙は、むかしのあたしの怖れで作った。今日はお前たちの言葉で覆われた。怖れは言葉で覆ってこそ消える」
少女が僕の手を握る。指先はまだ冷たい。「あのコート……要らなくなったら返します」
「返さなくていい」僕は笑う。「要る時に着て、もっと暖かいのができたら誰かに貸して。ただ、売らないで」
僕らは広場を後にした。道は今度、僕らを押し返さなかった。葉のあいだから、夜の間に隠れていた星がいくつかまだ残っている。森は静かで、その静けさが初めて脅しではなく安らぎに思えた。
家に戻ると、扉は開いたまま、部屋の温もりもそのまま。祖母がランプを落とす。風は染みたが、火はつかなかった。ルシは窓辺に身を預け、低い喉でそっと笑う。
「今日は喉をあまり使わなかった」
「明日もそうできるようルーティンにしよう」ジョラが盾を壁に掛ける。「敷居番は独り仕事じゃない」
ロウェルは窓を閉める前に空をもう一度見た。「月の色が変わりました。さっきより冷たくない」
僕はしばし立ち、手に残る封筒の冷たさを思い出す。さっき皆で紡いだ文を、心の中で順に読み返した。巻き戻しではなく、読み戻し。今夜はそれで終えていいと思えた。
外で、狼がゆっくり歩を移す音。彼の足が、雪ではなく乾いた葉を踏む音だった。僕らは誰も振り返らなかった。振り返らなくていいほどに、森がしばし僕らの側にいる夜だった。




