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第19話「月光の森のループ」— 三日目・箱のそばを歩く方法

夕日が傾くころ、森の空気が薄くなった。昼の匂いは葉脈の奥へ潜り、月が昇る席を空けているようだった。昼に交わしたとおり、ばらけていた速度を再びそろえる。まずジョラが盾を立てて歩く幅を定め、ロウェルが灯を低く掲げる。まだあかりはともっていないのに、炎の影だけが先に道へ横たわるのが見えた。


赤いフードの子が約束の場所に先に来ていた。掌ほどの紙をぎゅっと握っている。昨日渡してくれた招待状だ。子はそれを慎重に、背丈の高さで差し出した。


「夕方になると、この紙の文字がもう一度折れるって。ギルドのおとなが言ってました。今日はあなたたちが先に折る番だそうです」


ルシがこちらを見る。今日も互いを長く見ない約束だったが、その短い視線だけで何を言うべきか分かった。僕は紙の縁を一度押し、受け取る。紙は呼吸するようにかすかに脈打ち、インクは月が昇る前だというのに水面のようにきらめいた。


「折るのは私たちが決める」ジョラがうなずく。「止める時も、始める時も」


子の瞳に小さな期待の灯がともる。「今日はどんな話をしてくれます? 約束どおり、ぼくの話を聞いてくれるんですよね」


「そうしよう」ルシが子と同じ高さに腰を落とす。「君が先に話して。私たちは聞いて、必要なだけたずねる」


子の声は、森の木目を伝うように流れた。「うちの町には月小屋があるんです。枝と白い布で作った小さな部屋みたいなもの。初雪が来るまで開けちゃいけないって、いつもお母さんが言ってました。『待つことには形がある』って。なのにある木こりが、ドアノブをちょっと揺らしたんです。開けてはいないのに、揺れた。その夜から道が巻き戻るようになった。人は同じ話を二度ずつするし、喝采が起きても森は酒を飲まなかった」


「ノブに触れたということは、触っていないという意味でもある」ロウェルが低くつぶやく。「でも扉はそれだけで覚えるんだ。――『ここが入口だ』って」


僕は紙に指を添え、ゆっくり一折、二折。紙は僕らの指先の湿りを見定め、自分で向きを選んでいるみたいだった。三折目で、紙の裏から細いふみが浮かぶ。月光がないと読めないはずの文字なのに、月はまだ枝の間で息を整えているところだ。


「読んであげようか?」ルシが子にたずねる。


「いいえ」子は首を振る。「読むと消えるから。今日は目だけで見てください」


紙の内側には、秘密の手紙みたいな細い線が編まれていた。森の輪、僕らの足跡の伸び、そして――いちばん最後に小さな斜線が一本。**『叩く場所』**の印。僕は折った紙をそのままジョラへ渡す。


「叩いたら?」ジョラ。


「開けずに知らせる」僕。「箱のそばを歩き、箱にこちらから名乗らない。名前を借金にしないために」


ルシがリングをコツと鳴らす。喉の青い光がひときわ、すぐ消えた。「じゃあ今日の代価を決めよう。昨日みたいに軽く、でも怖がらずに、正確に」


「私は――」ネレイアが指先の水気をふっと吹き上げる。「雨の日の窓に最初に宿る水滴の向き。今日はそれを忘れる。上から下か、横に広がるか。水の道を少し読まない」


「僕は数字を一つ」ロウェルが灯芯を切るみたいに指を立てる。「階段を降りる時、いつも三段目に力をかける癖。今日は二段目」


「私は左手」ジョラが盾の縁をトンと叩く。「いつも先に上げる手だけど、今日は右手が先」


ルシは少し考えて微笑む。「私は曲の“ラ”の直前の半呼吸。その半呼吸を遅らせる」思わず喉に触れ、手を離す。「大丈夫。今日だけだから」


「僕は――」子を一度見て、紙をさらに小さな三角に折る。「冬の初日のためらい。今日はそれを置いていこう」


子の眉が不思議そうに動く。「ためらいを?」


「うん。押し間違えると凍り付くボタンみたいなものだから」僕は笑う。「今、氷の家の周りを歩いてるだろう?」


子を先に立て、森の円い道へ入る。道は昨日と同じでも、足裏の感触が違う。苔のあいだの土は柔らかく、樹皮の凹凸は浅い。灯を点す前なのに、明るいところと暗いところがはっきりしている。月を迎える準備を、森が終えたのだ。


紙が示した**『叩く場所』で足を止める。箱は見えないのに、空気が四角に感じられる。温度がほんの少し下がり、音がわずかに遠のく**。ジョラが盾の縁で空気を軽く叩く。カン――薄い音。木ではない。グラスの脇腹を弾いたような音。


森がひと息吸い込む。僕らは口を閉じた。誰も先に名前を呼ばない。箱も僕らを呼ばない。そのあいだで風が言った――「ここまではあなたたちが決めた。次はわたしの番」。


「引いて放す呼吸」ルシがささやく。「そう。私たちが半呼吸を遅らせたから、今度は森が先に半呼吸をする」


「ここからは質問は一度きり」ロウェルが指で一本の線を描く。「答えは二つ。一度は私たちへ、一度は森へ」


「質問」僕は空気に言う。「箱に触れずに、箱と合意を結べるか?」


月光が枝の隙間から落ちはじめる。一度にではなく、小さな足取りのように間欠的に。最初の足取りが僕らの足もとをかすめたとき、箱の輪郭が一瞬だけ現れた。箱というには軽く、石というには息をしていた。


ルシがゆっくりうなずく。「可能だって。答えが**“感知”**で届いた」


「じゃあ二つ目の答え」ネレイアが受ける。「代価は要る?」


風が向きを変えた。匂いがいっとき海へ傾き、また森へ戻る。全員がそれを感じた。――**『はい』**の意味。


「何を払う?」ジョラが盾を少し伏せる。「名前は禁止。記憶は少量。感覚は分散」


「分散」僕は子を見る。「君も少し出せるかい? よければ」


子はたじろぎ、勇気を出してうなずく。「ぼくは……赤いフードの内側に残った塩の匂いを一度。お母さんが海風を干してって言ったときに残った匂い」


「いいね」ルシが微笑む。「じゃあ私は似たもの。雨の夜、窓に鼻をつけたときガラスが出す金属めいた匂い」


「僕は木目の向きの感覚」ロウェル。「今夜一度だけ、目に逆らっても痛まないように」


「私は足の重さ」ジョラが盾を床に触れさせる。「下ろす時より持ち上げる時が少し重かった癖。今日は同じに」


ネレイアは掌をひらく。砂漠の人のように、一口の水を想像する顔。「私は、水を集める音を起こさせた耳。今日は目撃だけ」


僕は唇を閉じ、ひらく。舌先からラ――が自然に滑り出ようとした瞬間、空白が軽く引っかいた。まだ残っているスクラッチ。「僕は……名前の代わりに、呼ばない方法を一つ」声を置くと、空気がわずかに冷えた。


僕らが代価を言葉で置くあいだ、箱は動かない。代わりに、周囲の木の影が少しずつ向きを変える。箱へ集まっていた影が輪を作り、その輪の内側へ人ひとり分の幅で近づけるよう開いた。


「そばを歩く方法」ルシ。「接近権より弱く、非観察より説得的で、妨害よりやわらかい」


「入口を探そう」ジョラが間合いを整える。「一人ずつ。互いを見ず、同じ速度で」


輪の縁に沿って歩く。歩みの合間に月光が入り、抜ける。足裏の温度差は、目よりも速い。ネレイアが一瞬足を止め、低くささやく。


「ここ。空気が閉じて開く」


僕は手を上げ、何もない空をそっと払う。何の手触りもない――が、次の瞬間、手の甲が粟立った。指先が自然と向きを替えるほどの微かな気流。ロウェルが角度を測るように目を細める。


「四十五度じゃない。もう少し浅い」ロウェル。「人が来る角度じゃない。月が来る角度だ」


ジョラが盾の先でその方角をもう一度叩く。またカン。今度は音が長く延びた。グラスの脇腹ではなく、縁。音は輪を巡って、僕らの足の後ろで消えた。


「停止」――澄んだ女の声が梢の上から落ちる。一語が、森の温度を変えた。停止。その禁句が冷たさを背中に置く。


ルシが反射的に僕の手首をつかむ。「その言葉、ここでは――」


「知ってるわ」枝の上の声が笑う。ときどき影が先に笑うことがある。「だから一度だけ返納しようと思って。あなたたちがその言葉で転ばないかの確認。悪意はない。安全のための点検。キュレーターはいつだって安全を口にするから」


ジョラはわずかに顔を上げ、上を見る。「安全のために誰かの速度を奪うなら、それは安全じゃなくて拘束だ」


「拘束は嫌い」声が軽く揺れる。「だから提案。――今夜は箱に触れないという契約、一行だけ。署名は月光で。そうしたら道をもう一本開ける」


ルシが僕のほうへ体を傾ける。「応じないで」声は小さいが、言葉の長さは長い。「今夜は私たちがルールを決める夜」


「拒絶」僕は上を見ずに答える。「私たちはもう今夜の“停止”を折った。あなたたちの印じゃなく、私たちの折りで」


しばしの沈黙。そのあと、かすかな――ほとんど聞こえない拍手。「いいですね。じゃあ提案はなかったことに」声は遠のきながら軽く一言を残す。「夜は長い。巻き戻しはもっと長い」


その存在が消えると、森の温度がほんの少し上がった。僕らはぶれずに輪をもう一周。ネレイアが再び止まった位置に、月光が僕らにだけ読めるふみを置く。紙に浮かんだ斜線と同じ形。入口の擦れ。


「ここだ」ジョラ。


「開けない」ルシが続ける。「今日はそばを歩くだけ」


最後にもう一度叩く。今度の音は短く、正確に――句点のように。音とともに、箱の空気が少しだけゆるんだ。空気がほどけると匂いが変わる。塩と乳白、古い木材。浦島の海とかぐやの月、異なる家の匂いが重なった。


「記録」ロウェルが灯をともす。炎の立ち上がりさえ慎重に。「今日の道/今日の入口/今日の拒絶」


子の掌にはまだ緊張が残っていた。僕は子に紙を返す。紙はもう折れず、代わりに折り目が光を食べて吐き出すように、ほのかに発光した。


「ぼく、何かあげましたか?」子。


「私たちが受け取ったの」ルシがやわらかく答える。「君の話は道を歩かせる。明日も君が先に話して」


戻り道、僕らは少し長めに話を伸ばした。今日は非観察の約束を破らず、互いを長く見ないでいたが、言葉は長くできた。言葉は、相手の体を見なくても届くから。


「今夜のいちばんの収穫は?」ジョラ。


「拒絶が道を閉ざさない証拠」ロウェルは即答する。「拒絶は方向を変える印であって、終わりの宣言じゃない」


「それと――『停止』って言葉に速度を奪われなかったことを、身体が覚えた」ルシが足す。「あの言い方が嫌い。安全を言い訳に人を止めるやり方が嫌い」


ネレイアが静かに笑う。「止めるのはこっちが折った時だけ止まるの。誰かの口から落ちた停止は、ただの祈り。私たちが**『いいえ』と言えば散る**」


森を抜け、灯台の近くの空地に腰を下ろす。ひと息の整え。僕らは杯の代わりに掌を合わせ、海茶の代わりに月茶をまねる。熱い湯の代わりに夜気を吸い、舌の裏へ落とした。妙に甘かった。子はフードを脱がずにあくびをする。


「明日は?」子が目をこすりながら。


「三つ数える」僕。「歩いて、止まって、聞く。三つの円/三度の折り。四度目には、箱の方から先に声がかかる」


「そうなるかな」


「今日の君の話が、箱に届いた」ルシは子を見ずに言う。「だから――そうなるよ」


子をギルドへ戻し、僕らは遅い夜気をもう一巡味わう。月は高く、巻き戻しはまだこちらへ届いていない。巻き戻しが来る時刻は僕らに決められないが、用意の速度だけは僕らが決められる。


振り返る途中、掌のワックス膜がまた感じられた。昨日の残滓は今日の標になり、今日の標は明日の罠にもなりうる。だから僕らはさらに薄く折り、さらにやわらかく歩くことにした。箱のそばを歩く法は、結局自分たちに適用する法なのだから。


「明日、同じ時刻」ジョラが短く。


「明日、同じ速度」ロウェル。


「明日は、もう少し“待つ”」ネレイアが微笑む。


「明日――」ルシはわざと語尾を空ける。「こちらから問わなくても、答えが来るか、試そう」


僕はうなずく。舌先にひっかかっていた空白が、少しだけ痛まなくなっていた。近づいたということか。あるいは、もっと上手に歩けているということか。――どちらでもいい。夜は長く、巻き戻しはもっと長い。それでも僕らは今夜の速度を失わなかった。


そして、それが僕らのチームの契約だった。

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