第18話「月光の森のループ」— 二日目・月光の巻き戻し
朝ではなく、暁と朝のあいだの薄い隙間が先に戻ってきた。森は毎回、同じ順序で息をする。トネリコの葉が一枚、らせんを描いて落ち、そのあとカラスが二度ほど鳴く。鳴き止むと、道標が苔の上で光の色を替える。昨日も、きっと一昨日も――僕らの知らない「一昨日」を含めて。
昨日挿した蝋燭の場所へ行く。蝋燭は消えていた。代わりに土に薄いワックスの膜が押しつぶされて残っている。指先でこすると、塩に似た手触りが残った。火の殻だ。
「消えたんじゃなくて、巻き戻ったの」ルシが低く言う。「火は時間を食べ、この森は満腹として火を記憶するってこと」
ジョラは場をぐるりと撫でるように探った。足跡は見当たらず、とうとう膝をついて苔を二度撫でる。「踏み入れた跡がない。私たちが歩いた道なのに、歩かなかった扱いになってる」
ロウェルは角に吊られた小さな鈴をそっと鳴らした。音は一度だけ響いて、すぐ死ぬ。「振動が逃げる。残響が固定されない。誰かが森を揺らすと、森はあらかじめ自分の位置を記憶して元へ戻るんだ」
「誰が?」ネレイア。息は乱れていないのに、昨日より慎重に呼吸している。「人か、月か」
「両方かもしれない」僕は言う。「それから……その二つの間に挟まる名前がもう一つあるのかも」
僕らはまた灯りを点けた。昨日と同じ道、同じ位置を避けて、半歩ずれて火を入れる。――「昨日の標が今日の罠にならないように」。ルシが火口を運びながら囁く。
「じゃあ今日の規則は簡単に」彼女は掌で一度だけ炎を覆い、離す。「自分で残せるものだけ残す。森のものを動かさない。森の言葉に応じない。私たちの言葉だけで話す。そして――今日は“互いを見ない時間”も混ぜる」
「非観察条項だね」僕は確認する。
「うん」ルシが頷く。「鶴の部屋を思い出して。隠すためじゃなく、私たちの速度を失わないために戸を閉めるの」
ジョラは盾を立て、道と道のあいだに小さな隙を作る。「じゃあ順番は私が取る。私が先頭、ネレイアが殿、真ん中に君とルシ、ロウェルは灯。誰も一度に二人を見ない。質問は持ち回り。誰が答えても、代価は全員で払う」
「代価を決めよう」ロウェル。「小さいものを一つずつ。忘れても痛まないが、二度は失えないもの」
僕は少し考えた。昨日は砂糖ガラスの鳴る音を置いてきた。今日はもう少し甘くないものがいい。「雨の日に歩いていて、コートのポケットから偶然出てくる紙幣一枚の気分」と書く。「その**『思いがけなさ』**を一度」
ルシが笑う。「私は音階と音階のあいだに挟まった“半呼吸”。音でも沈黙でもない薄い隙間」リングをコツと弾く。「一日だけ」
ジョラは盾にぱしんと掌を置く。「私はいつも半歩先に出る癖。今日は半歩あとに」彼は笑わないが、目は少し警戒を解いた。
ロウェルは灯の芯を少しだけ短く。「計算が終わってからもう一度計算する癖。今日は一度きり」
ネレイアは風をすぼめて掌にすくい、放つ。「私は……水の表情を読む癖。今日は少しだけ読まない」
声に出して確かめ、声なく頷く。灯が小さく揺れた。僕とルシのあいだを風が通る。何も言わない風は、だからこそ信じられた。
道を巡り、また最初へ。森が描いた円が僕らの足首をことりと叩く。昨日との違いは、僕らの内側で手順が少し入れ替わっていることだ。常に一人だけが先へ出て、他はその人の影だけを踏む。僕らは影の指す先にだけ質問を投げた。
「ここは誰が守る?」ジョラ。
「狼ギルド」背後から見知らぬ声が返る。赤いフードの子が茂みから現れた。初日に会った道標のそば、僕らが蝋燭を挿した場所の反対側だ。目元は昨日のまま、昨日より怯えていない。
「昨日言ってたこと、覚えてる?」僕。
「覚えてます」子はうなずく。「でも昨日は“今日”になるたび消えます」
「じゃあ私たちが残す言葉は?」ルシ。「明日も覚えてる?」
「消える時も、消えない時も」子は僕らの灯を一度見る。「灯が本物なら明日まで残る。道の灯なら今日だけ使える」
「道の灯?」ロウェル。
「道から借りた火」子が説明する。「返せば消える火。その代わり、道が危ない時は火が先に気づく」
ネレイアが灯をそっと子の目線に合わせた。「今日は借り火じゃない」やわらかく言う。「昨日も今日も、私たちが点けた火だよ」
子の視線が僕らを一周する。「じゃあ――」胸から薄い木札を取り出す。「ここには何を書きますか? 通行の理由/同伴の名/停止のしるし。三行だけ」
ルシが僕を見、僕は見ないように努める。非観察条項は少し酷に感じた。けれどその厳しさが、失いたくない速度を守ってくれると、今朝の灯が知っていた。
「通行の理由」僕が先に記す。僕らの字は互いに似ていない。だから混じらない。――『送り返すため』。子が首をかしげる。
「何を?」
「箱と月光」ネレイアが代わりに答える。「ここから出た後の時間を、出た後の場所へ」
「同伴の名」ルシが二行目に記す。――『証人』。名ではなく役割を書いた。それが全員に安全だった。
「停止のしるし」ジョラは盾をわずかに回し、木札の角を小さく折る。「印は“折り”で。開けば続行、折れば停止」
子の顔が明るくなる。「ギルドの符に似てる。でも少し違う」木札を両手で捧げ持つ。「あなたたちの印は、誰からもお金を取らない形ですね」
ロウェルが肩をすくめる。「今日は税を払わない」
「その代わり、払うものは別で支払う」ルシが足す。「背後で」
子の背後の茂みで、ぼんやり影が動いた。狼の耳にも見えたが、端で人の手が一度だけ振られる。誰かが見ている。監視というより確認。――**「今日はこのくらいで十分」**の合図。
「今夜も来ます?」
「たぶん」ネレイア。「でも今夜の私たちは、今日の昼の私たちと少し違う。だから同じ道でも別の道」
子の瞳に一点の光が入る。「そういうの、好き」
僕らは道の半円を巡り、ループのいちばん薄い部分へ。月光が木目を走り、僕らの作る影のわきに長く横たわる。風が変わった。鈴が二度、昨日より間を広く鳴る。昨日の鈴が「巻き戻し」なら、今日は「巻き戻し直前」。僕らがループの輪っかを指でつまんで揺らしている徴。
「ここで止めよう」ジョラ。「折れ」
僕らは木札の耳を一度折る。小さな音がした。署名の最後に句点を打つときのカチリに似た音。折った瞬間、道の色が変わる。苔の緑が半トーン暗く、月光が半トーン温かく。道が僕らに**「停止」を許した**のだ。
「しばらく君を見ない」ルシが炎ではなく風の方へ語りかける。「残りの呼吸を森に預けない。森が先に私たちの足跡を覚えないように」
「森も学ぶ」僕がつぶやく。「そして巻き戻す」
「だから折るの」ルシが笑う。「森が学んでも、私たちが止まれば追いつけない」
ジョラは盾を立て、僕ら二人の視界をそっと遮る。その隙にロウェルが灯を落とす。炎が**『半呼吸』を覚えた。大きく・小さく。今日の半呼吸を誰が先に差し出したのか分からない**ように。
「戻ろう」ネレイア。
僕らは引き返す。同じ道でも、速度と規則が違えば風景は変わる。子はまだいて、僕らを見送った。茂みの影はもう一度手を振る。鈴は鳴らない。鳴らさないと合意したから。
蝋燭の場所へ戻ったとき、暁と朝の隙間はもう過ぎていた。ようやく朝が来る。太陽はループの法の外から昇る術を知っている。だから陽光は巻き戻らない。巻き戻るのは月光だけ。相手取るのは昼ではなく夜だということ。
「今夜」僕は言う。「浦島の箱(玉手箱)には手を触れない。代わりに箱の周りを歩き、月光の入口だけを指先で探る。かぐやの期限はまだ先。こちらから時間に先に手を出せば、時間が先に代価を取りに来る」
「いいね」ルシ。「今日は待つ側」
「待つのに要るのは?」ジョラ。
「同じ速度で歩く足」ロウェル。「そして――同じ所を見続けない目」
ネレイアが最後に灯を吹き消す。煙が一本、まっすぐ立ちのぼる。「煙は巻き戻らない」彼女が言う。「一度上がれば、空の記憶へ散る」
僕らは煙が消えるまで立っていた。その間、森は静かで、風は僕らの脇を通り抜けた。何も言わない風を、今日は少しだけ信じた。
「夕方にまた」僕。皆が頷く。
帰り道、子が駆けてきた。「ちょっと!」木札とは別の小さな紙を差し出す。「これは今日だけの招待状。夜に道が変わったら、これを折って灯に透かしてください。森の文章が変わります」
「代価は要る?」僕。
子の顔が一瞬むずかしくなって、ほぐれる。「代価をもらうとギルドに怒られます。代わりに……明日も私の話を聞いて。赤いフードの話を」
「いいよ」ルシが笑う。「明日、あなたが先に」
僕らは紙を受け取り、そっと折る。さっきの木札と同じカチという音。今日の合意は消えない。消えたように見えても、折り目だけは残る。折り目は巻き戻らない。人の指先が作る皺は、森の法より長持ちする。
日が昇ると、僕らはひと息、呼吸を合わせた。一日目の蝋燭はなく、二日目の木札は折れ、三日目の灯はまだ来ない。秩序が均された。その上に置く次の一歩は――夜がくれたら受け取る。
「夜に会おう」ジョラ。
「夜に」僕ら。
そしてそれぞれの速度で散った。誰かは昼を整え、誰かは夜を稽古した。僕は掌のワックス膜をもう一度こすった。鱗みたいな感触が残る。巻き戻しと停止のあいだの触感。今日、僕らが学んだこと。




