第17話「月光の森のループ」— 初日・蝋燭の標
日の出より先に、灯台の室内が青く冷えた。コアを一晩冷ましたおかげか、ガラス板の亀裂はもう脈打たない。僕らは箱を閉じてポート・インターフェイスに載せた。針のように細い線が引かれ、灯台の窓越しに海がひと呼吸、息を吐く。
「今回の門は森だ」ロウェルが針の角度を合わせる。「光は銀、風向きは内陸。そして――月」
「月ってことは、時間がおとなしくないね」ルシが喉のリングをコツと弾く。青い点滅が短く灯って消えた。「今日は先に聞く。返事は遅く」
ジョラが盾紐をもう一段きつく締めた。「敷居は私が見る。ネレイア、許しはあなたが」
ネレイアは頷くだけにとどめる。「所有じゃなくて許し。署名はあとで」
門は静かに開いた。塩の匂いはすぐ消え、代わりに竹と針葉の匂いが部屋を満たす。足裏へ土の匂いがのぼる道に落ちた。頭上の月は、浅い皿のように低く懸かっている。おかしい。太陽が昇る刻なのに、月影のほうが濃い。
道端の道標には冷たい文句が刻まれていた――「目ではなく足で記憶せよ」。文字のあいだには**白い樹脂(松脂)**が乾いている。誰かが急いで塗りつけたように。
「足で記憶……」ルシが低く反芻する。「目で見ると消えるって意味かも」
「あるいは、見たと思い込ませるって意味」ロウェルが竹の影を見やる。「錯視・反射・誘導」
最初の角を曲がると、赤い頭巾が見えた。籠を抱えた少女だ。湿り気を帯びた赤い布が月光を受けてゆらぐ。肩つきはしっかりしているのに、目元はまだ幼い。
「道を伺ってもいいですか?」少女がすっと寄ってくる。声は澄んでいた。「おばあちゃんの家への道です。招待状もあります。今夜ひらかれる――」
ルシが掌を軽く上げて制した。「招待状はあと。まず、あなたの足」
少女は戸惑いながらも、籠をそっと下ろして足を揃える。薄く土のついたブーツ。つま先は、僕らが来た道=後ろを向いていた。
「後ろを見てるね」ジョラが低く言うと、少女はびくりとする。
「後ろは……あ、はい。つい振り返っちゃうんです」少女は自分で驚いたように言う。「ここでは後ろを見ちゃだめって聞いたのに。それでも、つい」
「名前は?」僕が問う。
「ミオです」少女が答える。「よそ者じゃありません。でもよそ者みたいって言われます。同じ道を何度も歩くって」
「ここは月光の森だ」ルシがやわらかく言う。「ここでは、道が君の足を覚えてからようやく君の名を思い出す。だから足で最初の挨拶を」
ミオは足をそろえ、左、静止、右。足首に巻いた紐が一瞬だけ震えて、すっと収まった。彼女は安堵の息をつく。
「敷居通過」ジョラがうなずく。「でも森の問いはまだだよ」
森はすぐに問いかけてきた。道ばたの竹の葉がいっせいに裏返り、樹脂の匂いが濃くなる。地面に落ちた白い蝋の欠片が月光を受けて光った。誰かが道印に置いていったのだろう。木ごとに蝋燭が一本、地に押しつぶされたまま残っている。火は消えているのに、蝋の流れはどれも月のほうへ固まっていた。
「ループに囚われた誰かが**標**を残した」ロウェルが蝋に触れず、角度を測るように見つめる。「この標が残るかぎり、巻き戻る」
「巻き戻る前に、私たちは何を残す?」ネレイアが問うと、ルシが籠へ視線をやる。ミオが慌てて籠を持ち上げる。中には瓶入りのヨーグルトのような白い液体、パイの切れ端、小瓶がいくつか。小瓶のラベルには**「ラベルシロップ」**とあった。
「ラベルシロップは誰が?」僕。
「戸口に置いていくんです」ミオが首をかしげる。「毎晩、瓶が新しく増えてて。これを戸枠に塗ると道が滑らかになるって――」
ルシが静かに笑う。「滑らかな道はすべる。君にははっきり見えても、森には消える。次からはシロップじゃなく蝋を使って。火は最後まで点けなくていい。溶かした蝋で『今日』を埋めるの」
彼女は僕に目で合図する。「今日は私たちが一緒にやろう」
最初の分かれ道の石に蝋燭を立てる。ネレイアが指で芯をそっと揉む。乾いた蝋が微かに解け、また固まりながら細い線を残した。――「ここで右」。文字ではなく線。森がより長く覚えられる形。
「言葉の代わりに行為」ジョラがつぶやく。
道はさらに深くなる。竹の間を白い靄が低く流れ、なぜか海の匂いがごく薄く混じった。三つめの分岐を過ぎるころ、遠くで狼の遠吠えがした。素っ気ないが、数字みたいに規則的。三、二、一。そして空白。
「関税みたいだ」ロウェルが囁く。「遠吠えの隙は質問タイム。通行権を売る合図」
遠吠えが止むと、灰色の外套の男が道に現れた。肩にはギルドのバッジ。ここいらの狼ギルドの“道の弁護人”だろう、声がくっきりしている。
「文を売りに来たわけではありません」彼は手を見せる。空の手だ。「今日は証人を探しています。鏡の調停が今夜、月畑の空き地でひらかれます。誰かが“おばあさんの同意”を盗んだという申告。証人になれる方、あるいは証人をご存じの方を探しています」
ミオが籠をぎゅっと握った。指先が白い瓶のラベルを押し、震える。
「おばあちゃんは……」彼女は少し掠れた声で言う。「昨夜も『大丈夫』って言ってた。でも朝になると、その言葉が消えてる。まるで――」
「まるで、誰かが毎晩、文書を上から被せてる」ルシがやわらかく継ぐ。「被せて、書き換えて、跡だけ残す。ラベルシロップみたいに」
狼ギルドの男は僕らを順に見やった。僕の足、ジョラの盾、ルシのリング、ネレイアの濡れ髪、ロウェルの“角度を見る目”。うなずく。
「あなた方はよそ者。よそ者は、時に森の質問に長く耐える。――娘、君は証人ではなく当事者の可能性がある。今夜、空き地で祖母のそばに立ちなさい。代わりに――」
「後ろを見ないこと」ジョラが挟む。
男は驚かない。「その通り。後ろを見れば“その時”が戻ってくる」
僕らは約束した。夜までに空き地へ。それまでに家へ寄って、祖母の敷居を足で記憶しておくこと。男は短く礼をして消えた。遠吠えも残さず。
ミオの家は森道と森道の狭間にあった。屋根には樹脂が一層、戸枠にはシロップがてらりと光る。ルシがハンカチで戸枠を拭う。甘い匂いが、拭えば拭うほど空気から抜け、澄んでいく。
「この戸は古い」ネレイアが手のひらで枠を包む。「澱が残ってる。今日拭いても明日にはまた塗られる。だから毎日、拭くしかない」
「毎日が……やり直しになるから」ミオが言う。「私は毎日塞ごうとして、森は毎日はじめから」
僕らはおばあさんに会った。目ははっきり、手の甲の血管はつよい。一人ずつ順に見て、最後にミオを長く見つめる。
「説得しようとしないで」おばあさん。「私だってわかってる。『大丈夫』が毎朝、消えること。でも誰かを憎む術を、私は忘れた」
ルシが椅子のそばに座る。「『大丈夫』を今日は保存しましょう。紙は森に持っていかれる。だから足に預ける。今夜、空き地であなたが一歩踏み出せば、それが証言になります」
「一歩で足りるの?」おばあさん。「長くは歩けない」
「一歩で十分です」ジョラがきっぱり。「その一歩を守るのが私たちの仕事」
日が沈むのか、それとも月が大きくなるのか、光はだんだん銀へ深くなった。僕らはまた道へ。立てた蝋燭の標が生きているか確かめながら。幸い、一つ目は無事。二つ目も。三つ目も。
空き地に着くと、鏡が立っていた。うっすらと残雪のような靄が鏡面に張り、同じ月をそれぞれ違う形に映す。中央には低い石台。その前に立つ者が番を開く規則らしい。
狼ギルドの男と何人かの証人、そして黒外套の調停人。調停人は声を惜しむ。「当事者、証人、外来者。順に述べよ」
おばあさんが僕らの間を抜け、石台へ。一歩。つま先は震えながらも、確かに触れた。空き地の風向きが変わる。森が**『記録』**に入った。
「私は」おばあさんが言う。「昨夜『大丈夫』と言った。今朝、その言葉は無かった。それをもう一度問うなら――私は今夜も言う。大丈夫」
調停人の外套が、かすかに揺れる。悪い気配ではない。続いて証人。ミオが籠を置き、石台の前へ。唇を開きかけた瞬間、ルシがとても静かに手を上げた。“ゆっくり”の合図。ミオはうなずき、代わりに足を動かす。左、静止、右。空き地の地面に細い光の線が生まれた。
「言葉はあと」ミオが息を呑む。「おばあちゃんが先だから」
外来者の番が来た。僕が一歩出る。何を言うべきか一瞬迷い、足に任せることにした。一歩。それから言葉。
「僕らはラベルをどけ、条件を残しに来ました。今夜の『大丈夫』を明朝にも残すために。だから――後ろは見ません」
その瞬間だった。空き地を囲む鏡が同時に息を吐くみたいに白い靄を噴く。月光がガラスの中へ吸い込まれ、森がほんの少し後ろへ引かれた。誰かが『後ろ』を思った。ほんの、少しだけ。
「誰が見た?」ジョラが短く問い、ロウェルが鏡の角度を走査する。三番目の鏡、右下。ミオの視線が掠めた場所に、微かな灰。風に飛ぶ寸前だ。
「ミオ」ルシは名を呼ぶ代わりに、とても低いラ音を流した。ラ—。その音は月光にぶつかって、すぐ擦れるみたいに消えた。スクラッチ。ミオの肩がびくんとする。
「ごめんなさい」ミオが囁く。「つい後ろが、“あの時”が――」
「いいのよ」おばあさんが先に言った。「大丈夫」彼女の一歩は揺れずに固まる。その言葉が蝋みたいに地面へ沁みた。
僕らは呼吸を整え、もう一度立つ。調停人が外套を翻し、裁きを閉じようとする。おそらく今日はここまで――その時、月が一度、瞬いた。本当に。目ではなく、森が。
空き地の真ん中の石台に細い亀裂が走る。月影が揺れ、鏡面の靄が一気に晴れた。周りの音が巻き戻されるみたいに後ろへ吸い込まれる。僕が覚えていた分岐の位置が、心の中から順番に消える。
「ループだ」ロウェル。
僕らが立てた最初の蝋燭の標が、風もないのに消えた。二つ目も。三つ目も。蝋はそのままなのに火だけが消えたみたいに、行為だけ残り、証言の温度が拭い取られる。
「後ろを見たんじゃない」ルシが低く言い、唇を噛む。「『後ろを考えた』のね。森は考えも後ろに数える」
調停人は外套を寄せ、頭を垂れた。「今日はここまで。明日、同時刻・同じ場所」礼儀を外さない声で、さらに告げる。「外来の方々、長居は森の法に反します」
僕らは空き地から退いた。森はまた、初めのように静かだ。道に戻る前に、ジョラが僕らを集める。
「標は死んだ。代わりに身体に残す。角ごとに小さな傷を」
彼女は短剣の先で、僕のコートのボタン裏の布をほんの少し掻いて傷をつけた。ロウェルの手袋の掌にも、ルシのリングの内側にも、ネレイアの袖の裏地にも同じ傷。ミオの籠の取っ手には、ごく小さな溝を。
「明日の朝、この傷が残ってたら」ジョラ。「私たちが“昨日”を覚えてるってこと」
「残るよ」僕はミオへ頷く。「だってこれはラベルじゃなく繊維だから。森が拭い落とせない目」
僕らはミオを家まで送り、戸枠をもう一度拭う。今度は蝋を内側の蝶番にごく薄く塗った。言葉の代わりに残す今日の行為。おばあさんは戸口で手を振り、ふたたび中へ。
「明日も来る?」ミオ。
「明日が来たら」ルシが笑う。「私たちは必ず“昨日より遅く”答える。そしたら**“今日”がもう少し長持ち**するから」
月は同じ高さにあった。森の外れ、石橋でひと息つく。風が変わり、聞こえなかった水音が立ち上がる。おそらくループの“朝”が近い。僕は舌先を湿らせる。ラ—が擦れるように消えた。けれど今日は、その音が脅しには思えない。スクラッチは時に溝になる。溝は次の角度を覚える。
「明日」ジョラが短く。
「明日」僕らも順に。
森は答えなかった。けれど、僕らが残した小さな傷たちが、銀の空気の中で波紋のように互いを覚え合っていた。




