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第16話「コア回収、次のポートログ」

ラベル印刷所の扉は、風が先にノックした。赤い糸が看板のように垂れ、ガラスの内側には薄いラベルのロールが冬の鱗みたいに幾重にも積まれている。ジョラは盾を低く立てて敷居を押さえ、ロウェルはガラス越しに照明の角度を一度さらった。ネレイアはコートを脱いで僕に渡し、囁く。


「中は乾いてる。水が長く留まらないようにしてある。その代わり、息は残る」


「息で十分」ルシが喉のリングをコツンと弾く。「今日は名前は問わず、方法だけを問おう」


鐘みたいな呼び鈴は鳴らさない。敷居は足が訊く場所だから、静かに足で証言した。左、静止、右。

印刷所の中は石炭の匂いではなく、油と糊の匂い。床を震わせているのは印刷機ではなく、壁に立てかけられた鏡だった。枠ごとに小さなパンチ穴が巡り、縁には「資格尋問」という言葉が擦り減っている。


「鏡で資格を問い、ラベルで資格を買う」ロウェルが低く言う。「そりゃ関税表はひっくり返る」


カウンターの向こうで小さな咳。やせた印刷工がこちらを見る。眼差しは疲れて、手には乾いたインク。彼は僕のつま先、ジョラの盾、ネレイアの濡れた髪先を順に見て、うなずいた。


「今日は静かですよ。注文はもう締め切りました」


「注文はいりません」ルシがやわらかく笑う。「ただ、質問があるだけ。鏡を尋問に使い始めたのは、いつから?」


印刷工の瞳が鏡をかすめる。答えはない。けれど沈黙が真実のとき、証言になることをこの街は知っている。僕はカウンターに薄いガラスのコインを置いた。縁の目盛りに「記憶1」「声1」――あの文句が視線に引っ掛かる。


「契約をしに来ました」僕は言う。「あなたに負わせるのは責任じゃない。選択肢を渡しに来た」


「選択肢?」印刷工が笑う。くるくる回っていた鏡のパンチが、その笑いを切るみたいに止まる。「資格ラベルなしじゃ、今夜の舞踏会の裏口は開きませんよ。誰もが知ってる。私もね」


「開けるべきは裏口じゃなく、表口です」ネレイアが僕の隣に立つ。「表口はいつでも開いている。通るには許可が要る。許可は売れても、貸し出せない」


「許可を売るのが私の仕事でしょう」印刷工は肩をすくめる。「同意の署名も取ってます。だから合法だ」


「署名は本物でした」ルシがカウンターに掌を置く。「でもラベルは嘘だった。同意を資格にすり替えたから。同意が招待なら、資格は飾りに過ぎない。飾りで扉を開けないで」


印刷工は無言で鏡を一つ立てた。枠の上に黒いステッカー――「資格検証:回答 はい/いいえ」。彼は鏡を僕の前へ押し出す。


「じゃああなた方から。質問は一つ。資格はありますか?」


鏡の中の自分の顔を少し見る。海と風を長く食べてきた顔。舌先でいつも滑る音節がまた引っかかった。ラ—。喉の奥で短く鳴って消える。代わりに息が残った。僕は首を振る。


「資格はありません」言い終わりを整える。「でも契約はある。だから入ってきた。だからあなたに問う」


鏡の縁がわずかに震え、「いいえ」の隣の小さな点だけが灯る。印刷工が言葉を失う。彼は鏡を回し、ルシの前へ。


「あなたは?」


「私もないよ」ルシが笑う。「私は招かれただけ。声は証人になるために使う。通行権を買うためじゃない」


「いいえ」。今度は瞬きもせず確定。印刷工の目が少し柔らかくなる。


「じゃあ資格が要る人は、誰なんです?」

「誰にも要らない」ネレイアが答える。「今日は資格をいったん市場へ回送した。扉は契約でしか開かないようにしてある。あなたのラベルは、その扉に合わない」


ジョラが盾を壁に預け、鏡のそばへ歩く。

「あなたの仕事は署名を盛ることじゃない。許可を複製させないよう守ること。それが印刷工の倫理だ」


「倫理」印刷工がその語を一度噛む。「ここは寒い港ですよ。倫理より暖房が要る」


「だからラ—を削って火をつけたんでしょ」ルシが静かに添える。「ラベルのラ。その一音で温もりが得られるから」


僕はコートを脱いで、カウンター脇のストーブのそばへ押しやった。

「一つだけ訊きます。ラベル・プレス機の心臓――コアはどこに?」


印刷工はためらう。そのためらいが本当か計算か見極める前に、ルシがうなずいた。


「奪いに来たんじゃない。あなたに責任を積ませにも来ていない。コアを回収すれば、今夜この街の帳簿が真っ直ぐ立つ。あなたは罰金の代わりに証人でいられる」


「証人になったら……明日もこの仕事を続けられますか?」

「ラベルじゃなく、印章でね」ネレイアが微笑む。「資格の代わりに条件を刻む印。偽りを複製しない判。あなたの手は十分に繊細だから」


彼はゆっくり鏡を伏せ、カウンターの下から鉄の箱を出した。錠は古く、鍵は針みたいに細い。箱が開くと、薄いガラス板が子どもみたいに仰向けに眠っていた。中央に糸のような亀裂。上辺に小さく「Seat-0: Core Lens」。


「ラキナに持ってこいと言われました」印刷工。「競売の展示品の一部。Seat-0を実物化するには心臓がいるんだと。人が笑う席じゃなく、売る席。私は……ただの製作者で」


「これはあなたの手から離れるわけじゃない」僕は箱に手を置く。「僕らの手からも離さない。コアはただ、席ではなく場所へ戻る。座席じゃなくくら。腰掛けるに足る場所に据えれば、競売場じゃなく舞台になる」


印刷工は箱を押し出した。「それで――証人の署名はどこに?」


ルシが喉のリングを押し、ごく低い音を立てる。「ここ。今日は私の声をインクにする。ほんの少しだけ」

彼女は箱のガラス板の隅へ薄く息を吹きかけた。白い靄がきらりと光り、『沈黙も証言になりうる』という文を一瞬だけ見せ、染み込むように消える。


「十分」ロウェルが爪ほどの鏡片を取り出し、ガラス板に斜めに立てる。「角度二分。一度だけ光を転がせば、プレス機はこのコアを読めない。代わりにポートが読む」


ジョラは盾を持ち上げ、敷居を広げた。「出る時も足で。質問は終わりだ」


僕らは印刷所を静かに出た。印刷工は敷居に立ち、僕らの背を長く見送った。外の空気は海の茶の温もりが少しほどけたみたいにあたたかい。灯台へ歩を返すと、ブイの鐘が一度だけ鳴る。道を開ける音だ。


灯台の階段を上りながら、僕は箱に掌をのせた。薄いガラス板の亀裂が脈のように感じられる。ルシが箱を受け取り、僕を見る。


「さっきの言葉。座席と座(場所)」

「座席はラベル、座は約束だから」

「約束は誰のもの?」さらに問われ、僕は笑う。

「今はみんなの。明日は――その場所の主が選べばいい」


ミレユが扉を開ける。「来ると思ってた」彼女は海の茶を注いだ。「今日はどんな記録を残す?」


「海の茶じゃなく、鏡の靄で」ルシは箱をそっとテーブルに置く。「それから条件を一つ。このコアは灯台で一晩『冷ます』。夜明け前に港へ戻す」


「なぜ冷ます?」ジョラ。ネレイアが窓外の海を指す。

「過熱した許可は凍結に変わる。今日は少し暖かかった。今冷ましておけば、明日は解ける」


僕らは箱のそばで静かに息を分け合った。ロウェルがレンズをほんの少しだけ傾け、灯台の光をコアに当てて、また退ける。角度二分、それ以上はしない。ミレユは海の茶の塩をひとつまみ減らし、針のように鋭い味に整えた。眠れない夜に似合う味。


「ラキナは?」ジョラが最後に問う。「競売人の手はどこで縛る?」

「鏡の法廷で」僕。「次のポートで」

「もう次?」ルシが笑う。「今日も扉を一つ開けたら、また扉ね」

「敷居は低く、線は明瞭に」ジョラは盾のストラップをまた締める。声には疲れが混じるが、灯台の火のように揺れない。


僕らはコアのそばで夜を分け合った。海のリズムが灯台の内側をやさしく揺らし、その拍に合わせて箱のガラス板の亀裂がとてもゆっくり冷えていく。明け方近く、コーデックスの内側がコトンと鳴った。〈次のポート:月光の森――鏡の調停 予定〉。僕は一行だけ読んで閉じる。数字は記さない。今日は文だけで足りる。


「少し眠ろ」ルシが言う。「明日、これを元の場所へ」


「うん」僕は箱に手を置いたまま目を閉じる。舌先のどこかでまだラ—が擦れるけれど、夜がその音をやわらかく呑み込んだ。傷は次の扉を開ける溝になる。溝は新しい角度を生む。


僕らはそれぞれの息を少し残し、灯台の灯の下で軽く眠りについた。

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