第15話「儀式補正とチーム合同行」
階段のガラス欄干は、まだかすかに震えていた。踊りが終わって残るのは呼吸と温度、そして足跡だけ――さっき舞踏会のホールで聞いた言葉が耳に残っている。「合格。今日は氷より息が多いわ」。雪の女はそれ以上を語らなかった。名を問わないのがこの街の作法だから。
「今が固定のタイミング」僕が囁くと、ジョラが盾の内側ストラップをさらに締めた。
「敷居はここ。この線を越えたら全部検問」
「検問は足がやる」ロウェルがつぶやく。舞踏会の照明角をもう身体が覚えているらしい。「欄干上の反射角をそのまま再現すれば、港の信号に噛み合う」
ネレイアがこちらを見る。髪先がまだ濡れていた。「海は聴いてる。今は『所有』じゃなく『選択』を語るとき」
ルシが喉のリングを軽く押した。青の点滅。
「本式じゃなく補正だけ。分担して。今日は私一人で擦り減らすには喉が軽くない」
僕らは階段から港へ降りた。ホールの音楽が遠のき、ブイの鐘がまた聞こえはじめる。波は三度同じ形で砕け、その合間の無音一拍に扉が生まれる――いつもそうだ。
ラフ・マーケットの方からマリアンが駆けてくる。コートを裏返しに羽織り、護符みたいな領収束を握らせた。
「関税表がおかしいの。『資格』加算は下がるはずなのに、帳簿では上がってる。誰かが税の穴に触ってる」
「黒真珠ラインだ」僕は束を素早く繰る。『同伴権』『座席』の欄が不自然に太っていた。
「競売ラベルが関税表へ割り込み。こっちのキーは『契約』、向こうは『資格』。同じ招待状に別の鍵を挿せば、帳簿は狂う」
マリアンが苦笑した。「だから向こうは客が途切れない」
「今日はこっちが小切手を切る」ジョラが盾を掲げ、灯台の方へ進路を切る。「道は俺が開く」
灯台が見えた。ミレユが扉を開け、大きく手を振る。鍋から海の茶がむくむくと湯気を上げる。風は冷えていた。真冬の吐息のような冷気が港の石欄干を伝って降りてくる。雪の女の気配は見えない。だが、残していった温度は確かだった。
「中へ」ミレユが僕らを入れる。「灯台は音と光しか通さない。言葉はゆっくり」
ルシが頷く。「灯台なら良い。反射率が低い。喉をあまり使わずに済む」
小さな丸テーブル。ガラスの杯が五つ、それから空の杯が一つ。同意トークンの箱を開けると、薄いコインが光を返した。縁の目盛りにはいつもの文――記憶1/声1/時間1ティック/体温1ティック。今日は時間を少し余分に切り出す必要がありそうだ。ホールの「自尊」と港の「嫉妬」が絡み合っている間だけは、波長をわずかに遅らせる。
「分散でいく」僕が言う。「各自ミニマム。ルシは声をほんの少し。代わりに僕とネレイアが呼吸を肩代わり。ロウェルは角度、ジョラは敷居。マリアンは外部帳簿のロック」
「ロック? できるわ」マリアンが印を取り出す。「ギルド権限で**『資格』だけを凍結**。その間にあなたたちが『契約』で関税表を再整列すれば――」
「すぐ終わらせる」僕は頷いた。
杯を合わせる。四、二。呼吸が合う。
「契約」
「招待」ルシの声は低く短い。リングが一度だけ光る。
――対価。
僕は最初のひと口の温度を忘れ、代わりにレモン皮の微かな苦みを杯に落とす。ネレイアは喉先の短い逡巡、ロウェルは綱の粗い手触りを一本、ジョラは盾革の匂いを細く。ルシはラよりさらに低い、ほとんど息の点をひとつだけ。
薄いコインが杯の中で軽く触れ合う。灯台の内側の空気がわずかに冷えた。塩の華の模様がガラス壁を静かに流れ、止まる。
「いい」ルシが目を開け閉じして言った。「補正が入る」
合同行は単純だった。僕らが難しく呼ぶそれを、この街の人はただの**「いっしょの息」と呼ぶ。灯台頂部のレンズがゆっくり回り、海へ光を放つ。ルシは蝋燭を点けては消す**。サイランが持ち込んだ貝のドラムが低く鳴る。テンポは遅く、間隔は長い。僕らの息もそれに合わす。
「左の防波堤に真水の手洗い列が長い」ジョラが窓の外を見る。「そこから検問。足で」
「中央ブイはネレイア」ロウェルが示す。「水面下の圧が揺れてる。剣じゃなく、角度を取って」
「水門は僕とロウェル」僕が添える。「角度を**二分**だけ。開けすぎると逆流」
ネレイアが笑う。「今日は切るんじゃなく、解くのね?」
「うん」僕も笑う。「所有を割る剣じゃなく、選択を開く角度」
ルシが軽く咳をした。その音だけで灯台の空気が揺れる。
「大丈夫?」
「大丈夫。今日は消耗じゃなく分配って言ったでしょう」彼女は僕を見る。「分けるの、あなたは上手」
マリアンが帳簿へ印を落とす。コトン、と明瞭な音。
「資格項目ロック。30分」
「その間に終わらせよう」僕。ロウェルが頷く。
「灯台を出れば風が変わる。信号は僕が捕まえる」
僕らは灯台を降りた。海の匂いが濃くなる。雪の女が残した冷気が港の石床を滑らかにした。滑らないよう重心を低く。足で証言する街の規則から外れてはいない。僕らは足で語る。左、静止、右。
検問線にはすでに列。足首バンドの人たち。踏むたび薄い光の線が残る。
「今日は言葉の代わりに息で問います」管理官がこちらを見る。「街の温が氷より多ければ通過」
「今日はそうなる」ネレイアが答える。「少し分けたから」
先頭の男が検問線に足を載せる。光の線が揺れてすぐ立つ。通過。次の少女はポケットから薄いラベルを取り出す。『同伴権—資格確認』。彼女は僕の見えない面を先に見た。瞬間、光の線がもつれる。
「こっち」ネレイアがやわらかく手招き。「そのラベルは『資格』の鍵。今日の門は『契約』。同じ招待状でも裏面が違うでしょ?」
少女が小さく頷く。「ごめんなさい、私には資格がなくて……」
「資格はここでは売らない」ネレイアが微笑む。「条件を話すの。あなたが望むこと、私たちが守れること。それが契約」
少女の足の光が整う。通過。
片側で欠片が流れた。ガラス片のように見えたが、実際は薄いラベルの束。検問線の内へ滑り込ませようとする手。ジョラが一歩出る。低い盾が手首だけをぴたりと塞いだ。
「ラベルは向こうの市」ジョラの声は乾いている。「敷居を越すのは足だけ」
そのとき、防波堤の向こうでブイが三度、速く鳴る。ロウェルが水門レバーを引く。角度二分。水勢が一瞬反発し、すぐ首を垂れた。灯台の光の筋が水面で道になる。ネレイアがその上を歩く。水の剣を抜かず、掌だけを開いて角度を微調整。指先から、波は刃でなくリボンへ。
「いい」ロウェルが叫ぶ。「信号、入った! 反射角一致!」
「今」僕は長く息を吐く。ルシは灯台を見て唇を閉じた。もう彼女の声は要らない。分け合った息が街の帳簿を上書きしているから。
検問線が安定すると、ラフ・マーケットの騒ぎが静まった。マリアンが大きく手を上げる。遠目でも分かる合図。
「ロック維持! 関税表の再整列、入る!」
僕らは最後の点検へ。ジョラは盾を立て敷居を固定、ロウェルは水門の角度を分刻みで調整。ネレイアは裾に風を掛け、ホールの不規則な拍が港へ漏れないよう塞ぐ。僕はコーデックスを開いた。数値はあえて読まない。数字で語れば、今日の息が軽くなってしまう。今日は息で語る。
「スパイン」灯台からミレユの声が風に乗る。「印がもう一つあるでしょ? 灯台記録に証言を添えて」
「ある」僕は短く記す。今日の敷居、今日の息、今日の拒否と今日の通過。
ルシが僕の肩をコツンと叩く。「じゃ、私も息しよ」
僕らが最後に振り返ると、雪の女が立っていた場所には誰もいなかった。代わりに欄干に霜のように薄い文が残っている。僕が掌で撫でると、すぐ消えるあたたかい文。
――氷は止まった水じゃなく、待っている水。
「ありがとう」僕は小さく言った。
「誰に?」ネレイア。
「今日の冬に」僕は肩を回す。「温もりが証明されたから」
検問線が終わり、帳簿の絡みもほぐれた。マリアンが駆け寄り叫ぶ。
「再整列完了! 『資格』は市場へ、『契約』は港へ!」
「よし」僕はチームを見渡した。「内側へ入れる。ラベルを売る手は市場で縛る。本丸はホール裏の倉庫群だ。複合ラベル・プレス機はおそらくそこ」
「そこでコアの影を見つける?」ロウェル。
「今日は影だけ」僕は頷く。「現物は明日。補正の次は回収。儀式は一度で決める」
ネレイアが手を差し出す。掌に少しの塩。「じゃ、明日は剣を取る」
「剣じゃなく、選択の角度」僕が笑うと、ネレイアも笑った。
「そうね。選択の角度」
灯台の扉を閉めて外へ出ると、海はもうリボンのように解けていた。ホールから溢れた音楽は港までは来ない。代わりに人々の息が触れ合って離れ、作るリズムが街を満たす。そのリズムに合わせ、検問線の最後の足跡が光を残して消えた。
夜が降りるころ、僕らはラベル市の暗い路地へ向かった。小さな印刷所の前に赤い糸が下がっている。見覚えのある縫い目。座席0のラベル・スロットを縫い合わせていたあの糸。
「見つけた」ルシが低く言う。「言葉も、品も、約束も縫っていた手」
「明日」僕は言った。「今日は息を救い、明日は心臓に触れる」
海は一瞬、僕らの言葉を聞いたように静かになった。その静けさの中で、コーデックスの内側が短く鳴る。名を呼ばない街の作法の中でも、舌先のどこかにまだ欠けた音節が擦れる。ラ—。傷はまだ残っている。
――大丈夫。傷は、次の扉を開ける溝になるから。




