第13話「資格宣言文」
陽が細かく砕けて港の欄干に貼りついていた。昼に一度掃き払った光の波が、ホールの天井に薄い残光としてまだ凍っている。夕べの音楽がゆっくりと身体を伸ばすと、人々の靴から塩気が少しずつ乾いた。今夜は舞踏会と港が一体になる夜。僕らはその間にある敷居を低くする役目だ。
管理官はまた名ではなく足を見た。彼は片足を持ち上げて笑う。
「今日も三歩で十分です。二歩目で心変わりしたなら、そのまま引き返してください。引き返す足も署名として認めます」
「いい序文だね」ルシが低く言う。彼女は鏡を畳んで腰に差し、ひらいた掌を僕に見せた。静かな掌紋のあいだに鉛筆で一行。「止める権利を最上段に」。
「文の息を長く」僕が応える。「みんなが追って読めるように」
「息はあなたが合わせて」ルシは頷く。「私は向きをつける」
ロウェルはシャンデリアの角度をもう一度微調整した。昼に覚え込んだ値を、手が先に思い出す。
「残光を十分に残す。人が上を見て、互いを押さないように」
ネレイアは水門の標をゆっくり撫でた。
「水の拍を落としたわ。今夜は舞台が人の足の上にある。海は拍手だけにしておく」
ジョラは階段の一段目を掌で二度掃き、盾を横に立てた。
「敷居は明瞭に。署名線は広く」
夜がホールへ入ってくる。音楽は踊りを勧めるが、まだ誰も一歩目を踏み出さない。欄干の向こうで黒いヴェールが一度揺れた。ラクイナが灯りを廊のように使い、影を連れて降りてくる。
「取引の夜です」彼女は軽く礼をした。「委任状と招待状、それから『可能な資格』を担保にした小さな競り。資格がなければ愛だって発酵しません。今夜は速断をお勧めします」
言葉が終わるより早く、客の間を薄い硝子ラベルが数枚すべっていった。昼に拾ったあの手触りのまま。角に閉じ込められた気泡が、今夜も区切りをつくる。
僕はラクイナに顔を上げる。
「今夜は僕らも文書を開く。競りではなく宣言。委任でなく同行。読み、足で署名する種類の文書を」
彼女は笑みを変えない。
「文書が開くのは歓迎です。ただ、市場は速く、夜は短い」
「署名は三歩でいい」ジョラが一歩前に出る。「一歩目は聴く、二歩目は追唱、三歩目は各自の選択」
管理官がすぐに受ける。
「足こそ記録になります」
ルシが階段の中心に立つ。彼女が息を集めると、鏡が薄く光った。肩に落ちる残光が、彼女の文を支える。
「私たちは今日、互いの“資格”を代わりに売りません」
彼女の声が壁づたいに流れる。
「誰も誰かの代わりになりません。私たちは同伴でのみ動きます」
二つ目の呼吸がつながる。
「止めたくなったら止められる権利が最上段にあります。止まった足は尊重されます」
三つ目、人に渡す長さの文。
「では、各自の足で署名しましょう。右へ一歩――あるいはそのまま背を返して一歩」
一段目でざわめきが細くなり、二段目で何人かが追って読んだ。「止めたくなったら止められる権利……」。言の終わりがやわらかく続くと、階段の中ほどにいた女が靴紐を結び直し、その場で小さく頷いた。彼女は引き返す。管理官がその足を見て小さな標を残す。引き返す人も記録になる夜だ。
ジョラが盾を斜めに傾け、署名線は広がる。人々は互いを見はじめ、視線は文に従って動いた。ロウェルがシャンデリアを一度だけ揺らして残光を固定。外へ流れるはずだった破片のような視線が、穏やかに内へ集まっていく。
ラクイナは笑った。ヴェールが絹のように光る。
「背を返しても署名だなんて、ずいぶん慈愛深い規則ですね。でも委任状だって慈愛深い。忙しい方のために『代わりにできる権利』を売っているだけ」
合図で白手袋の従者たちが硝子円盤を掲げて出てくる。代替盤だ。昼に僕らが抜いた場所の双子。縁の気泡は今夜も視線から逃げたがる。
僕は円盤を見て言う。
「それは刻みを真似ただけ。煌めきはあるが、意味がない」
「意味を買いにいらっしゃる方がいるのですよ」ラクイナはヴェール越しに目で笑う。「意味には常に署名が必要だと信じ、代わりに署名する人へ対価を払う方々」
「代筆という言葉が矛盾だってこと、今日は足で見せよう」ルシが一歩進む。「宣言文をもう一度。今度は私が先、あなたたちが後。そして――あなた自身の足」
一行目を彼女が掲げると、追唱はさっきより増えた。声がホールの曲線を滑って右へ流れる。ネレイアが水の拍を下げてその声を受ける。塩の軽い風が半径のように階段を包む。管理官は二段目で手振りを添え、背を返す足と進む足を同じ深さで記録していった。
ラクイナは突然速度を上げる。従者が円盤を高く掲げた。
「第一入札者――代筆権を含み、落札後ただちに効力」
その瞬間、昨夜僕らの前を横切って走ったステップ・テスターが、人だかりの中で手を上げた。彼は仮面を外し、実に簡素な顔で言う。
「私は委任を拒みます」
言葉は短いが、足は長かった。左・停止・右。そして階段の中心で一度止まる。止まった場所の沈黙が証言になる。周囲で誰かが小さく息を吐き、すぐ同じ拍で続いた。止まる足が増える。止まってからまた歩く足もあった。
ルシが顔を上げ、ラクイナを見る。
「代わりでないなら、競りは何を売るの?」
「可能性を」ラクイナはヴェールを少し折る。「夜通しでも手に握っていたい、あの曖昧さを」
「可能性は売れない」僕は階段を一段上がる。「可能性は呼吸のように各人へ戻る。僕らにできるのは、その呼吸が傷まない空白を用意することだけ。――それが、今夜僕らが開く宣言だ」
言い終えるのと同時に、ロウェルが残光を一度瞬かせ、ジョラが盾を下げて署名線に小さな空白をつくる。人々の足はためらわずその空白を踏んだ。空白はたちまち無名の署名となり、署名は鏡より速かった。
円盤を持つ従者の手が揺れた。彼の手はひどく用心深くなり、その用心はついに円盤を置かせる。代替盤が布に触れた瞬間、縁の気泡が光を解き散らす。ラクイナはそこでほんの短く――本当に短く――眉間を寄せた。
「ゆっくり負ける術を知っているのね」彼女は言う。「でも夜は長い。文字が書き上がる前に次の頁を繰る方法もあるわ」
「次の頁はこちらが繰る」ネレイアが欄干から手を上げ、海へ信号を送る。「水が序文を読み、風が返事を届けた」
管理官が最後に一行を添える。
「宣言は記録されました。いま引き返したい方は、向きを変えてください。戻った場所には空の椅子を残し、その背に小さな灯を付けておきます。また戻るなら、その灯がここを示すでしょう」
階段の上下からゆっくりと拍手が生まれた。強いられたリズムではない。各人の掌が自分の速度で拍を刻む。ラクイナは拍手の隙間をさらい、ヴェールを整えながら最後の言葉を置いた。
「三拍目で会いましょう。音はまだ私の側にあるから」
彼女が消えると、ホールはひととき澄みわたった。僕は舌先で傷んでいた音節をそっと呼んでみる。ラー。まだ完全ではないが、掻かれた場所に肌が再生する感覚があった。取り戻さない選択が、代わりに別のものを掴ませたのだろう。足で残した署名、止まる記録、背を返す人々の小さな灯。
ルシは宣言文の最終行を折ってポケットにしまう。
「今夜を通過させた。明朝の烙印を一つ止めたわ」
「競りも延びた」ロウェルがシャンデリアの索を緩める。「代替盤に意味を貼れないから」
「敷居は覚えたか?」ジョラが僕の肩を軽く小突く。「次も同じ高さで引ける」
ネレイアは水門をひと呼吸だけ開けて閉じ、微笑む。
「水も今夜の合意を知ってる。夜が明けたら、港の温度がほんの少し上がる」
管理官は椅子を二脚、欄干に寄せて立てた。背板には小さなラベルスロットがあり、そこへ**『帰ってくる灯り』という手書きを差し込む。彼は僕に目配せした。
「署名は今夜で十分。明日の仕事は明日の足**で」
音楽がまた低くなり、人々は席を立つか、階段に腰を下ろして互いの足を休めた。ステップ・テスターだった青年が僕らから半歩離れた場所で立ち止まり、遠慮がちに言う。
「ありがとうございます。私は自分の足で帰りたい」
「それで全部だよ」僕は笑う。「また来たくなったら、同じ拍を思い出せばいい」
彼は頭を下げ、階段を降りた。背を返す足がもう一つの灯りを残す。スロットに差した手書きが風を受けて細く揺れた。
夜が港にぴたりと貼りつくと、僕らは短い息を見つけた。ルシはポットに湯を注ぎ、乾いた海藻を二つまみ落とす。塩ひとつまみは盃の縁で一瞬だけとどまり、水へ溶けた。香りの残ったレモン皮が硝子の縁を長くひと撫でした。
「一口目は舌の下へ」彼女が言う。
海の茶はいつも通りゆっくり肌を温める。僕は今夜の文を心の中でなぞり直した。止める権利は最上段。代わらない。各自の足。
遠くで、ラーの空白が狭まる音を聴いた。まだ完成ではないが、今夜だけはこの空白も署名の一部だ。僕らは空白を承認し、街も空白を道のように受け入れた。そしてその道の上で、舞踏会と港は互いの肩を借りて立っていた。
「明日は踊りだ」ルシが盃を置く。「自尊の踊り」
「踊るには」ジョラが盾を壁に立てかける。「足が痛くないことだ」
「足を労わる時間なら十分ある」ネレイアが海に手を振る。
ロウェルは最後の火を落としながら呟いた。
「角度は踊りにも使える」
管理官は扉を半分閉じ、こちらへ短く会釈した。
「良い夜でした」
僕らは盃を空け、敷居をまたいで外港の夜へ歩き出す。塩の匂いがゆっくり軽くなった。背後で小さな拍手がもう一度。強要でも合唱でもない。ただ、今夜の文への礼のようなもの。その音が消えると、波が次の一文を書きとめた。




