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第12話「階段の光雨、津波同時対応」

朝は硝子の匂いがいくらか薄れていた。夜のあいだに掃き集められた破片が砂のように隅へ寄せられ、舞踏会場の空中にはまだ微かな塵が漂っている。僕らは階段の下で指先の拍をもう一度合わせた。今日は防御ではなく転換。光の向きを変え、水の筋を入れ替える。誰かが群衆の足を煽って物を盗むつもりなら――群衆の足でその盗みを止める。


「倉庫Cは一旦保留」ルシが鏡を拭きながら言う。「今夜が本番なら、昼には必ずリハがある。その時に角度値を差し替えよう。人が乗っても割れないように」


「角度は二つ替えれば足りる」ロウェルがシャンデリアの図面に細い線を足す。「上部反射角を2度ダウン、階段前の誘導板を1度アップ。破片は縁へ流れ、足は階段の外へ」


「私は水門へ行くわ」ネレイアがコートを正して笑む。「下水が海へ出る筋は四つ。二つは半開、ひとつは閉、ひとつは空――うねりは揺れるだけで砕けない。水だって時には合意を欲しがるの」


ジョラは盾紐を締め直す。「俺は階段。敷居は低く、線は明瞭に。誰かが押しても足並みを整えりゃいい。ネイサン、お前の呼吸を俺の呼吸に結べ」


僕は頷いた。言葉の代わりに、舌先から音節を引き出そうとする。ラ—。相変わらず最後の画が掠れていく。声を盗んだ者が近くにいるという印だ。


管理官がホールの奥から現れた。昨夜と同じ正直な目。彼は今日も名を問わない。代わりに足を見下ろし、ごく薄く微笑んだ。


「三歩で充分です。今日は人出が多い。検問は足で、案内は手で。そして――沈黙の合意は今日も証言として認められます」


「誰かの沈黙は今日も守る」ルシが笑う。「その代わり、音の向きは変える」


正午が近づくころ、音楽が変わった。クリスタルの音に紙やすりが擦れるような薄い音が混じる。『資格委任』の偽招待状がばら撒かれた合図だ。階段の一段目で光が一度痙攣する。シャンデリアのひとつがわずかに傾ぎ、ワイヤが息を吐くみたいに長さを変えた。


「入る」ジョラが盾を上げ、一段目の角を覆う。人々の足がその角度を見て向きを変えた。「左へ流せ」


僕は二段目に上がる。ルシが鏡で僕の目を受け止める。彼女はいつも通り小さく頷いてから、長く言った。


「あなたが階段の中央で息を長く吐いて。私はその終わりを掴んで上へ放る。空気が一度で動けば、シャンデリアの振動は均等になる。光はこっちへ身を傾ける」


「上から仮設反射板を挿す」ロウェルがロープを握る。「合図は二回。一閃目は待機、二閃目で角度固定」


「水門一枚、上がる」ネレイアの声が塩笛とともに下水から昇る。「一波目は軽く。二波目は床石を越えない線で」


シャンデリアが揺れる刹那、上から低く澄んだ笑いが降った。人を不安にする種類じゃない。用意された公演の一拍目を押す監督みたいな笑い。僕は顔を上げず足だけ替える。この街は足を読む。上の手すりの向こう、黒いヴェールがかすめる。ラクイナだ。


彼女の声が暗がりから流れる。「あなたたちはいつも人に**『責任』**を言う。だから美しく、だから遅い。市場は速く動き、オークションはもっと速く落ちる。今日はどちらが速いか、見せてちょうだい」


「俺たちは速さの代わりに正確な足を使う」僕は答える。「速いことを理由に、誰かを突き落とさないために」


第一の光が降った。僕らが差し替えた角度は予定通り働く。破片は中心でなく縁を滑り、手すりの外へ流れ落ちた。ジョラが盾でその流れを受け床へと導く。足跡は驚いたぶんだけ揺れ、すぐに鎮まる。


第二のうねりが港から上がった。ネレイアが言った通り、「揺れても砕けない」水。低い波動がホール床下の排水路を抜けるとき、腰高の椅子の脚がかすかに震えたが、それだけだ。足は揺れても、崩れはしない。


ラクイナは落胆したのか、笑いが少し低くなる。彼女はすぐ言い換えた。


「倉庫を諦めましょうか? それとも人をひとりいただきましょう? あなたの舌先に貼りついたラ—が、実はうちの出品物だって、まだ気づかない?」


彼女は僕をよく見ているようだった。僕は腹の底へ長い息を引き込む。ラ—。音はやはり端で削れる。その音を無理に取り戻す瞬間、人は僕の方へ集まる。今日はそれを使わない。僕は周囲を見てから、ごく短く――しかし完全に――首を横に振った。


その合図をルシが読む。彼女は鏡を立てては畳み、観客に語りかけるみたいに、ほどよく大きな声で言った。


「競売人は規則が好き。じゃあ規則に合意を足す。いまからこの階段の中心に“停止”はありません。誰も止め置かれない。代わりに、足は右へ一歩ずつ。いち、に。あなた自身の選択で」


その言葉に、人々は反射的に手を取り合った。互いを知らない者同士でも、「止め置かれない」という文が彼らを軽く結ぶ。階段中央の流れが右へ移動。その空白へ第二の光が落ち、誰にも刺さらない。


「水門二波目」ネレイアの呼吸が深くなる。「今度は一度閉じて、一度開く。海の拍も合意で動かす」


波のリズムが変わる。港の手すりにもたれた人々が波を見ていっせいに一歩後ろへ。驚く足が安全線を思い出す。ラクイナは口をつぐんだが、きわ薄い溜息が聞こえた。


その時だった。倉庫Cの方から早足が上がり、仮面の誰かが僕らの前の階段の中段を横切ろうとした。昨夜のステップテスターだ。彼は恐怖ではなく決意で走っている。背後には二人の男。


「止まるな」ジョラが彼に叫ぶ。「止まれば掴まれる。自分の足で三歩」


彼は僕の方を見る。仮面の下で唇は震えていたが、足は拍を守る。左・停止・右。最後の一歩がよろめいた瞬間、僕は彼の前をかすめた。盾の側縁で追手の足首をかすり、彼らが反射的に上体を立てる間に、ステップテスターは手すりの外側、安全帯へ抜けた。


彼がすれ違いざま、薄い硝子板を僕の掌へ押し込む。印ではない、帳簿のインデックスだ。「C—原盤保管—代替材」。彼はほとんど聞こえない声で囁く。


「原盤は囮です。本物は下。冷却水タンクの横。ラクイナが鏡の競売に出すのは代替材。目線だけ集めればいい」


「いい」ロウェルが素早く算段を終える。「じゃあこっちも“視線”を使う番だ」


僕らは同時に顔を上げ、シャンデリアを見る。最後の光が落ちる番だ。ラクイナがこれ以上時間を与えるはずがない。僕はルシの方へ身をひねる。


「長い一文だけ」僕。「人が“追って読める”くらいの長さで。終わりは読点で」


ルシは目を閉じ、ごく柔らかく詠んだ。彼女の声はホールの曲線に合っていた。


「わたしたちはいま、互いを安全にするために右へ流れ、階段の中心に停止を置かず、足を傷つけないように空白**を作り――」


彼女が息を継ぐ間、ジョラが盾でもう一度、縁を掃く。破片が空白へ流れ、人々はその空白を見て少し笑った。


「――そして、望まないなら今ここで止まっていい」


その文に頷く顔がいくつか見えた。選択権を渡された人の表情。シャンデリアが最後に震え、大きな破片が手すりの外へ落ちる。音は大きかったが、傷つく者はいない。


ラクイナがようやく言い換えた。「見事ね。あなたたちは今日も一拍目をかわした。その代わり……二拍目で会いましょう。水面下はあなたたちの鏡が届かない」


彼女の影が消える。ほぼ同時に港側で低い太鼓が鳴り始めた。水門の近く、冷却水タンクのある区画だ。ネレイアが即座に反応する。


「下。水が冷えてる。鏡印の代替盤はあそこ。水温が少し下がると硝子は持つから」


「ロウェル、冷却ラインの図」僕が手を伸ばす。彼はもう広げていた。


「ここ」図を折り開きながら手早く説明する。「水門3番の脇に別配管。末端に小部屋。それが代替材の冷却室」


「私は水門」ネレイアが駆ける。「水の中身を借りて先着する」


「俺は上」ジョラが階段を下りながら言う。「群衆は管理官と一緒に。空白維持」


「俺は角度維持」ロウェルがロープを結ぶ。「光は終わったが反射は残る。視線が港側へ寄り過ぎないよう、天井に残照を」


ルシが僕の腕を掴む。瞳が一瞬だけ震えた。「舌先、いまは使わないで。ラクイナは、あなたの声が観客を集めるって知ってる。今日は観客を散らす」


「わかってる」僕は笑みで返し、走った。


水門区画は思ったより静かだ。水音だけが一定の間隔で壁を叩いている。ネレイアが先に着いて水脈を割り、僕は指示された方へ身を潜らせる。冷却室の扉は半ば開いていた。中には確かに代替材。印の原盤を模した硝子円盤。縁々に微細な気泡が閉じ込められ、本物との見分けは易い。


「これを持ち出せばラクイナは競売を開けない」ネレイアが囁く。「代わりに、私たちが競売を開こう。規則で。『資格』の委任じゃなく『責任』の委任で」


僕は頷く。硝子円盤を三枚取り、薄布に包みながら言った。


「今夜、ホールの真ん中で『資格宣言文』を読む。委任ではなく同伴を前提に。誰かが誰かの代わりになるんじゃない、各自の足で署名する文で」


「管理官が喜ぶわ」ネレイアが微笑む。「足で署名する宣言文なんて」


僕らは冷却室を出て、水門を抜け、ホールへ戻る。階段はもう穏やかだった。管理官とジョラが人の流れを細いリボンのように保ち、ロウェルは天井の残照を調整して視線を分散。ルシは鏡を畳んで胸に収め、僕らに小さく頷いた。


「今日は壊れたものが少ない」彼女が言う。「その代わり、手に入れたものがある」


僕は布ごと持ち上げる。軽いが、中身は重い。これで今夜、僕らは別種の舞台を開ける。競売ではなく、宣言。委任ではなく、同行。


ホールの空気が少し温かくなった。誰かが塩の棒を子どもに手渡し、子はそれを掲げて欄干の陽を傾けてみる。光が袋の中でほどけ、小さな虹を作った。誰かが拍手し、その拍手は、誰に促されるでもなくもう一度続いた。拍手の合間、僕は遥かでラ—の残響を聴いた。まだ僕のものではないが、近づいている。音にも契約があるなら、その署名は――こんな場面のあとにこそ為されるのだろう。


「夜に会おう」僕は言った。「宣言文を用意しよう。短すぎず、足で追って読めるくらいに」


ルシが頷く。「そしていちばん上には拒否権。いつでも止まれるって文」


「敷居は俺が引く」ジョラが盾を担ぐ。「今日みたいにな」


ロウェルはシャンデリアを見上げ、呟く。「角度は身体が覚えた。次の拍にも使える」


ネレイアは海の方へ手を振る。「水も聞いたわ。今日の合意」


僕らはホールをゆっくり出た。風が文を裏返しては、また正す。昼の硝子が夜を予告し、港の水はしばしすべての音を抱いた。夕べが来れば、僕らは舞台の中央で語るだろう。資格ではなく、同伴を。委任ではなく、責任を。そして――止まる権利が最上段に記された、僕らの契約を。

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