第11話「ポート税偽造を追え」
下水路は思ったより大人しかった。水は膝下だけを撫で、ガラス片は砂のように底へ寝そべる。ネレイアが手の甲で空気の塩分を量り、囁いた。
「海の匂いじゃない……洗浄剤。誰かが毎夜、ガラスを拭いてる」
「作業場だな」ジョラが背を低くして前を行く。「通風口から上がってきた、あの匂いだ」
少年が指した先は地図にもない旧工房区画。鏡みたいに艶の出た壁沿いを進むと、踏み跡の光はすぐ消え、道が後ろへ折り畳まれていくようだった。ロウェルが低く言う。
「灯りが生きてます。反射板の角度は……人の背丈より少し上」
「目を暗くする高さだ」俺は答えた。
扉に鍵はない。代わりに敷居が、足でしかわからないほど薄く盛り上がっていた。この街はいつだってそうだ。手より足に問う。名より足跡で答える。
中は古いガラスやすりの匂いで満ちていた。作業台には半透明の板と小さな印がずらり。壁には舞踏会の招待状が物干しのように吊られ、揺れる。光がかすめるたび、裏の文字が一瞬だけ浮く。──〈資格委任〉。反転印刷。鏡に映して読ませる仕掛け。
「鏡工房で間違いない」ルシが手鏡を傾け、文字を正像に戻す。低く澄んだ声。「一晩で最低百枚。昼は痕跡を洗う」
「だから洗浄剤の匂い」ネレイアが窓枠に触れる。「水の道に乗って拡がる」
作業台の奥、小部屋を見つける。半ば隠されたそこに、薄いガラス板に紙を挟んだ帳簿があった。頁の隅には小さな靴印。ポート税の印鑑と似たパターンだが、線が震えている。
ロウェルが頁を繰る。「日付、枚数、納入先。ほとんど匿名……ここ、**『階段』**って行が反復してます」
「階段」ジョラが俺を見る。「舞踏会の、あれか?」
「ああ」指で帳簿を押さえると、紙の下のガラスが薄く鳴った。「光の豪雨で人を階段へ追い込み、偽招待で列を太らせる。**〈資格委任〉**なら、なお易い」
「それにポート税」ルシが添える。「入場印に〈資格〉を刻んでおけば、事故のとき責任が拡散する。Pallorの好む図ね。代価を群衆に分散」
言葉が終わる前、奥の扉が静かに開いた。マスクの男が一人。年は俺たちと同じくらい、手にはビニール手袋。俺たちを見るなり、踵を返す——
ジョラは走らない。敷居の前に足を置き、低声で言った。「三歩。嘘は問わない」
男がためらって、踏み出す。ガラスの床が足音を大きくした。左――停止――右。三歩目の前で、長く息を吐く。
「この仕事をやめたい」マスクの奥の声は飾りがない。「でも手を引くと、上から**〈停止〉**をかけられる。生きてる間ずっとだ」
「上は誰だ」俺。
逡巡のあと、彼は顔を上げた。「名前は呼ばない。代わりに……足を見せる」
靴を脱いだ足裏に、薄いガラス・フィルム。縁には0|0|0に似て、途中に補助線のある点列。〈停止〉の痕。Nullの言語。
ルシの瞼が細くなる。「停止フィルムを貼れば、帳簿はいつも正確。足跡の速度が常に一定だから」
「それが……俺の役」男はマスクを外した。緊張で唇が乾いている。「俺はステップ・テスター。反射率と歩行速度を合わせて、偽招待と印が検問を通るか試す。実験用階段は……舞踏会の下層に」
「実験だけか?」ジョラ。
首を横に振る。「今夜が本番だ。上から一度光を落として、港側から二度****揺らす。人は片側に寄り、ポート税の検問は**〈資格〉レーン**で伸びる。その隙に……倉庫を空に。倉庫C。ガラス印鑑の原版」
俺たちは同時にマリアンの顔を思い浮かべた。彼女が渡した印。検問を通してくれた、あの冷たい円盤。その原本を丸ごと——。
「ここから抜けたいなら」俺はゆっくり言う。「俺たちが引きずるんじゃない。お前の足で出る。その方法を契約に書く」
男は俺たちを見る。怯え、逡巡、そして何より疲労の色。
「条件は?」と彼。
「一、強要なしで話す。二、望むとき停止権を最上に。三、証言したら名前は呼ばない。足跡署名のみ。四、望むならここに残る**〈停止〉フィルムを剥がす**」
彼は静かに頷く。「代わりに……妹を安全な場所へ。今夜」
ネレイアが先に答える。「任せて。水路なら、私が一番知ってる」
作業台のガラス板をひっくり返し、契約書にした。文字でなく足跡で署名。男は震える足で一度、二度。ルシは指先で水滴を作り、その足跡へ応える。
「よし」ジョラが息を吐く。「逆追跡だ」
男の案内で、俺たちの知らなかった扉を抜け、背後の通路へ。狭い階段は下へ続き、壁ごとに反射板。角度が微妙に異なる。ロウェルが目で角を測りながら呟く。
「光の豪雨の練習場。反射角を僅かにずらし、同一点に光を重ねる。常温破壊なら、これくらいの応力が必要です」
「潮騒も使う」ネレイア。「下水の河口水門を合わせて開けば、二度の揺れが作れる。港は風だけでも揺れるのに」
「二つを同時に使えば、人は階段へ」俺は結論を置く。「〈資格〉列はさらに伸びる」
通路の突き当たりで足を止める。鉄扉の向こうで水音。男が手を上げて囁く。「ここから警備。代わりに……別の道」
隣の反射板をコツと叩く。鏡面が水紋のように揺れ、掌大のプレートが現れる。──『配送』
「配達孔」ルシが笑み、それから真顔。「子どもが出入りできる道」
身を縮め、ひとりずつ狭い孔へ。抜けた先は舞踏会の下階、備品倉庫の壁際。倉庫C──原版の保管庫の真隣。
「時間がない」ジョラが低く。「光の豪雨が始まれば、ここにも破片が降る」
「だから今」ネレイアが俺の手首を掴む。「ネイサン、舌先……まだ空のまま?」
「ラ—」自分で出してみる。風が喉を撫でるだけで、音節は端で裁ち落とされる。すぐ近く、同じ目の細かさで空気が震えた。俺のラ—は、あっちで笑っていた。
「ラクィナ」ルシが口だけで名を作る。「競売は人を集めるのが上手。階段は装置、港は舞台」
「じゃあ俺たちは舞台を割る」俺は言う。「光は上から流し、水は下で受ける。人を追い立てない」
ロウェルが図面を広げる。マリアンがくれた写し。彼は速く、しかし丁寧に新しい角度を描き込む。
「階段の上端に仮設反射板を追加、水門は二門中片方だけ半開。波で逆にバランスを作ります」
「要るのは?」ジョラ。
「二人と、正確なタイミング」ロウェルは俺とジョラを見、そして短く付け足す。「それと……足」
足。この街が理解する言語。俺は頷く。
「ネレイア、子は頼む。ルシ、信号。光の転換点で俺の呼吸を合わせて」
「了解」ルシが鏡を握る。手背に筋が浮く。「息は一緒に使う」
男は扉の傍に立ち、最後に頭を下げた。「証言は明日。今夜は……俺の足でここを出たい」
「ああ」ジョラが印を渡す。同伴権の印だ。「出たいときに出ろ。誰かに掴まれても、これを見せろ」
俺たちは再び分かれる。ジョラと俺は階段上へ。ロウェルは反射板倉へ。ルシとネレイアは港の水門へ。マリアンへ送る塩の笛をポケットにねじ込む。
──曲が変わる。天井のシャンデリアが一度震え、粉塵が雪のように降る。顔が上を向き、足が階段へ動く。そこへルシの鏡が閃いた。呼吸が俺の肺に入る。俺はその息に乗って、中央へ駆け上がる。
「左へ!」ロウェルの信号が走る。仮設反射板が開く。ジョラの盾が縁を覆う。破片は俺たちの背後で滑り降り、床へ流れた。悲鳴は少ない。人は躊躇し、向きを変える。階段ではなく、外周へ。
海風が目を掠める。港からの一波が来て、半分で力を落とす。ネレイアが水門を半開に留め、マリアンの人たちが塩袋を投げる。水は重さを帯び、揺れても崩れない。
二度目の光が落ちる直前、背後で誰かが笑った。俺のラ—を持ち去った、あの笑い。振り向かない。代わりに足を変える。この街に通じるやり方で。
「ここは**〈資格〉列じゃない」大声じゃない。でも石階が声を延ばす**。「俺たちは**〈責任〉を分かち**合う。足跡で」
人の歩度が少しずつ変わる。幾人かは退き、幾人かは散る。階段の群れはほぐれ、シャンデリアのガラスは音だけを残し、床で砕けた。悲鳴の代わりに息が聞こえ、その隙間から音楽が戻る。
二波は弱まる。片方の水門が完全に閉じる。ルシの鏡が最後に瞬いた。彼女の瞳に俺の顔が薄く映り、その隣を──ほんの刹那──黒い幕が横切る。ラクィナの影だ。
顔を上げる。天井近くの影が、階段の果てへ滑る。その下で、『倉庫C』の扉が微かに震えた。まだ誰かが開けたい。だが俺たちはすでに方向を変えた。光と水、そして足で。
「仕留めてはいない」ジョラが盾を下げる。「でも道を変えた」
「十分だ」ロウェルが汗を拭う。「原版はまだ中。明日、帳簿ごと抜こう」
ルシが鏡を畳む。声は低いが、澄んでいた。「今夜はここまで。次の拍は、私たちの番」
ネレイアが戻り、少年の妹を託す。子は眠っており、手にはガラス片の代わりに塩の棒。
俺は階段の手摺りに触れる。ガラスの肌は冷たく、その下を微かな声が流れる。──ラ—。まだ届かない。けれど向きは掴めた。階段の裏、倉庫の裏、鏡と印の裏――裏面。いつだって答えは、裏にある。
「明日だ」俺は言う。「倉庫C、帳簿、そして……あの笑いの座まで」
夜は再び整列した。ガラスの鐘が一度だけ鳴り、止む。足跡は揺れたが、ラインは失わない。俺たちは互いの足を確かめ、同じ拍で階段を下りた。




