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第9話「硝子片警報」

朝の灯台は、焼きたてのパンの匂いで目を覚ました。窓枠の上の黒真珠は一晩で海の光をもう一層まとい、封印紙の墨は滲みひとつなく乾いている。ミレイユがカーテンを半分開けると、港の水面は段々のようにやわらかく連なっていた。昨夜の文の末尾に、ちゃんと句点が打てたような気分だ。海茶を一口、しょっぱさが喉を下る頃――欄干の外で、カチン、とガラスが当たる音。ひとつ、ふたつ、みっつ。すぐに幾つも。


風に乗ってきたのは鳥ではない。薄いガラス片だ。日を受けてきらめき、低い音で空気をひっかく。ジョラが即座に盾を掲げて窓前を覆う。やがて音はしずまり、数片が窓枠に引っかかった。拾い上げる。肌は切れないが、〈嫌だ〉と心がよぎるたび、縁がわずかに刃を立てた。


「……〈資格〉の残り香だね」ルシが覗き込み、低い声で言う。「自分を削るほど、鋭くなる」


「昨日、封じたはずなのに?」ネレイアが肩越しに身を寄せる。髪先から薄い水の匂い。


「昨日は〈嫉妬〉の目を整えた」俺は破片を窓辺に戻す。「今日は〈自尊〉が揺らいでる側から漏れてる」


ちょうどそのとき、灯台の扉が叩かれた。マリアンが、蓋付きの箱を手に階段を上ってくる。いつもの結い上げ、無駄のない足取り。蓋を開けると、中にはガラスの靴の爪先が半分、長いヒビ。


「警報機に使えると思ってね」彼女は欠片を取り出す。「朝市で拾った。品定めしてたご婦人が『私なんて資格ない』って呟いた瞬間、破片が花火みたいに弾けた。手は無事。でも、顔は痛んでたわ」


切断面をなぞる。思ったより軽く、思ったより薄い。気の利かない褒め言葉みたいだ。「港だけの問題じゃないな」


「ええ」マリアンは首を振る。「港から入ってきたけど、元の座標はあっち」窓の外、古い道標を指す。Port / Ballroom / Caravanserai / Forkwood――昨日くぐった標識。そのうち〈Ballroom〉の活字が、やけに艶やかだ。


「舞踏会……」ロウェルが呟く。「噂があります。『今夜は“資格”を尋問しない踊りが開く』。でも招待状に妙な条件――同伴権を求める。事前に定めた一組、互いに合意済みの関係」


ネレイアの眉がすっと上がる。「合意なら、私たちは――」


「待って」ジョラが盾を下ろし、遮った。「規則は向こうが握ってる。同伴権が正確に何を指すか、確かめないと。都合の良い解釈で踏み込めば、また誰かが血を流す」


「血は出ないほうで」ルシが添える。「今回のは――自分を削る側が先に傷つく」


マリアンは箱を閉じ、俺たちを見回した。「ソルト・ギルドは現地支援に入るわ。ドレス&スーツ、招待状の解釈、現場通関。ただし、ギルド名義で公式記録に残して。ギルドは『資格販売』の反対側に立つって」


「記録する」俺はうなずく。「今日の作戦名――ガラスグラス・ハーバー作戦。舞踏会から滲む〈自尊の揺れ〉を逆流させ、港で封じる」


「いい響き」マリアンが笑う。「じゃあ――まずは靴」


取り出されたのはガラスの靴ではない。滑り止めの付いた、ごく普通のダンスシューズ。甲に細い革ベルトが一本。マリアンが俺に微笑む。「舞踏会の床はつるつる。自尊が低いほど、さらに滑る。滑らないためには――まず足を埋める感覚を取り戻すこと」


「足が証言する」昨日の管理官の台詞がよみがえる。名の代わりに足。今日もその規則で入る。


――等間のブリーフィングを灯台で終えた。

ジョラは防波堤側に仮設の敷居。ミレイユは灯台信号を安全な拍に合わせる。ロウェルは水門コントロールと人流導線――「今日は見物人じゃなく客として来てもらう」。ネレイアは儀礼円の外周、ルシは同伴権の本義の解読。


「同伴権は、ただ手をつないで入る権利じゃない」ルシが芯を整えながら言う。「門を開ける権限が傍にあるか。その権限が両者に許されているか。同意が片側だけなら――ガラス床は裂ける」


「じゃあ、誰が入る?」俺は四人を順に見る。「今日、ホールへ足を入れる一組」


「私とスパイン」ネレイアが最初に手を挙げる。澄んだ眼差し、確信の音色。「ホールは慣れてる。それに今日は宣言が必要。所有じゃない、選択の」


ルシは一度目を伏せ、俺を見る。「わたしが入ると、声が早く減る。でも中へ入る前に招待状の文を読まないと。外から訳すより、中で見るほうが正確」


ジョラは二人の間に盾を縦に立てる。「俺は警護と人流制御。内側が必要なら代替可。でも外には俺が要る」


ロウェルは何も言わず、滑車のロープを一度引いて戻した。「今日は俺が外から門を開ける」


分断する気はない。二人の視線が俺に重なり、それぞれの理由が柔らかく触れ合う。短く息を整えた。


「同伴権は一組」俺は告げる。「だから――内へ入るのはネレイアと俺。ルシは入口で招待状の判読。俺たちが中で文を差し替えたら、君は外で代価の分散。声は惜しめ」


ルシが静かに笑う。「なら今日は……君がたくさん話して」


「話す」俺はネレイアを見る。差し出された手の甲は温かい。「ただ約束を。中で誰かが滑ったら――互いに起こさない。手を伸ばせば、それは救助じゃなく介入になる」


「わかった」彼女はぎゅっと一度、手を握って離す。「起こさず、横を守る」


簡易の通行トークンを分け合う。昨日みたいにUIを出しはしない。杯に海茶を一滴落とし、各自の〈時間〉と〈息〉を少量。分散支払いに慣れた俺たちは、頷きだけで拍が合う。君が吸えば、俺が吐く。俺が話せば、君が聴く。それで足りる。


――


舞踏会ポート前は、昼なのに星明かりみたいな反射でぬめっていた。階段の大理石に宿る陽が、ガラスのように鋭くきらめき、人は無意識につま先で床を試す。管理官は昨日と同じ顔で、ただし別のリボン。今日はガラス色だ。


「本日はお名前の代わりに――パート」管理官が通行帯を示す。「リードか、フォローか?」


「リード」ネレイア。


「フォロー」俺。


管理官は目だけ動かして俺たちを確かめ、屋外から屋内へ続く細い線を指す。「越えるとき、手を握っても構いません。ただし互いを引っぱらないで。引かれた足は――ガラス床が覚えます」


「証人は?」と訊く。


彼は階段の左右を示す。灯の下に〈招待〉の紋を押した小さな標が等間隔に打たれている。「必要でしょう。外では――判読者が待機」


ルシがそこで目を合わせる。「中へ入ったら、招待状の裏面を先に。表の〈資格〉は覆いにすぎない。今日の文は裏」


「了解」ネレイアが手を差し出す。今度は俺が先に握る。掌が触れた瞬間、床がごく浅く滑った。俺たちは同時に低く踏み出す。左・停止・右。足が証言した。引かない。追わない。間合いを保つ。


――


ホールは匂いから違った。香水でなく、ガラスの匂い。透明の清潔さと、その底に沈む自己卑下の匂いが混じる。音楽は安定していた。弦ではなく、グラスを爪で鳴らす拍。中央にはまだ空のステージ、そこにあるのはガラスの靴じゃない――ガラスの招待状。


近づく。表には金箔で〈あなたには資格があります〉。反射で視界がわずかに揺れる。俺たちは同時に裏返す。裏面は簡潔。


――『同伴権:あなたの足があなたのものであることを、互いに保証すること。』


ネレイアが低く笑う。「これは得意」俺の甲をそっと掠める。「君の足は君のもの。私の手は私のもの」


「ああ」俺は招待状を掲げる。「同伴権、承認申請」


その瞬間、シャンデリアが小さく揺れた。ガラスの旋律が一度長く伸びて、止む。――そして、四方からパリン。壁の鏡は細かいヒビを受けつつ、自重で持ちこたえた。落ちない。代わりに、亀裂が自分を圧してうめく。


「外が揺れてます」ルシの声が回廊から。「〈資格〉売りがスローガンをばら撒いてる――『自分を証明しろ』とか。人の足が早くなってる」


「ジョラ」俺が囁く。


「敷居、上げました」短く硬い返答。「今は越えられない。ただ――言葉は越えてくる」


言葉が先に越えれば、足が後から来る。俺たちは内側で招待状をしっかり掴む。同伴権の文は簡潔だが、簡潔ゆえに重い。相手の保証の前に、各自の保証。自分の足が自分のものである、とまず自分で確かめろ。


「リード」ネレイアが目を見る。「私だけがついていく。いい?」


「今日は君がリード、俺がフォロー」微笑む。「俺の足は俺のもので、俺の手は君を引かない」


彼女が小さくターン。水のドレスが光を抱いて広がり、また集まる。俺はちょうど一拍遅れで追う。乱れはない。音楽はひとつの文のまま続く。その瞬間、シャンデリアの亀裂が少し退いた。壁の鏡も、ヒビを内側へ巻き入れるように引き戻す。


「外も――少し和らいだ」今度のルシの声は軽い。「『証明』から『招待』へ、文が少し変わってる。招待には拒否権も含まれるって、みんな思い出し始めた」


ロウェルが外から合図。「水門の拍、ホールと同期。港へ漏れる破片は減った」


上々。だが終わりじゃない。俺たちは招待状を丁寧に戻し、周囲を視る。舞台裏、カーテンの影が不規則。隙間から誰かが見ている。顔は見えず、反射の角だけが光る。商魂の匂いと儀式の匂いが同時にする。


「いらっしゃいませ」その声は柔らかい。「同伴権の承認、確認しました。ただし今夜のラストは――『自尊の舞』。リードとフォローが交互に前へ。できなければ、床はまた――」


「滑る」ネレイアが先に答える。「私たちが転んだら、互いには起こさない。それぞれ、自分の足で」


「それが保てているか――私が証人」カーテンから現れたのは、生身であり同時に**しるし**のような女。ルビーのリボン、ガラスのヘアピン、笑う口元。アンナ。昨夜の薄く鋭い笑み、そのまま。


「ここでも尋問?」俺。


「いいえ」肩をすくめる。「今夜は自尊の夜。尋問は鏡がやる。私は……曲をかける。あとで議論しましょう。〈資格〉と〈自尊〉の違いについて」


彼女は背を向ける。ガラスの床が足下でやわらかく鳴る。俺はネレイアを見る。意図を読んだ笑み。


「今夜、ラストまで残ろう」耳元で囁く。「リードとフォローを交互に、皆に見せる」


「リハは十分」俺は手を差し出す。「互いを引かず、転んだら各自で立つ。そして――終わったら港へ戻って封印を強化。破片はガラスから始まっても、傷は人に残る」


外でミレイユの灯が瞬いた。陽が傾く。昼の反射が苛立ちを生まないように――夜の文を、先に決めておく必要がある。


「始めよう」俺は言った。


音楽はまだ鳴っていない。だが、拍はもう知っている。足が先に知り、息があとからついてくる。今日の始まりは――ガラスの床に置く、最初の一歩だ。

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