第8話「修復の儀、そして記憶ひとつ」
夜の風は、昼よりおとなしかった。波は角を丸めて寄せ、港の灯は水面で静かに揺れる。昼に震えていたシャンデリアはもう掃き清められ、階段手すりのクリスタルも質問をやめて、所定の位置で息を整えていた。
俺たちは防波堤の端――「椅子」札の前に立つ。札の裏の赤い糸が、切れそうで切れないほどに風で揺れた。ラキナは糸から二歩はなれた場所に立ち、古い手袋のままポケットの金槌を転がし、笑みとも諦めともつかない顔をしていた。
「競りは明日に回そう」彼が先に口を開く。「今日は……君の言うとおりライブでやる。ただし、証人が要る」
「証言は、もう集まってる」俺は欄干下の夜市を示した。最初に“合い言葉”を急いで口走ってしまった、あの少女が薄いガラスのラベルを手に上がってくる。表には〈資格〉の文字が繰り返し刻印されていた。少女は無言でラベルを手渡し、一歩さがる。足首の布バンドが風の中で軽く揺れた。
「沈黙も真実なら証言です」昼に俺たちを通した管理官が、音もなく現れて簡潔にうなずく。
ラキナは短く息を吐き、手を上げた。「じゃあ手順どおりだ。座席確認 → 文の宣言 → 代価支払い → 回収 → 封印。それでいいな?」
「その順番で」俺は四人を見渡す。ジョラは盾を水平に伏せ、椅子の前へ低い敷居を作った。ネレイアは水の剣で風を裂き、ルシは燭台を欄干の端へ。ロウェルは水門につながるロープと滑車を点検し、こちらへうなずく。
札に手を置くと、金箔の下の数字0が微かに震えた。座る場所がひとつ、誰かの物語がひとつ――まだ未決のまま残っているという合図。俺は札を軽く押す。金属が低く一度、鳴った。
「座席0番、確認」俺は告げる。「今日この席は展示ではなく、儀礼の場になる。証人は四名と、この街全体」
ラキナは一歩さがって軽く腰を折る。「競売人の役目はここまで。この先は……規則の手じゃなく、あなたたちの手だ」
俺は少女を見る。「そのラベル、俺たちに使わせてくれるか」
彼女はこくりと頷く。俺はラベルを裏返し、〈資格〉の文を内側に隠した。ネレイアが掌を差し出すと、ガラスが微かな光を返す。彼女は息を吸って――とてもゆっくり、吐いた。
「文の宣言」ルシが低く言う。声の端は少し掠れている。「今日のキーワードは――契約」
「契約」ネレイアが続ける。「愛は所有じゃない。選択の尊重」
「契約」ジョラが盾をわずかに持ち上げる。「敷居は低く、線は明確」
「契約」ロウェルが滑車をいったん止め、こちらを見る。「恐れは各自で持ち、責任は分け合う」
彼らの言葉が波のように重なり、夜気に沈む。最後に、俺は自分の一文を置いた。
「契約。行為が先、言葉は後。――代価は今、俺たちが払う」
ルシが芯に火を点ける。風が炎をほどよく揺らす。彼女は呼吸を整え、低い調子で祈りを始めた。音節は長く伸びるが、昨日よりは震えが少ない。俺たちは彼女の呼吸に合わせ、うなずきで拍を取る。彼女が顔を上げ、俺の視線を掴んだ。
「分ける?」彼女が囁く。
「分けよう」俺は彼女の手首を掴まず、ただ同じ長さで息をする。彼女が俺の呼吸に寄せ、俺は彼女の拍に合わせて速度を落とす。引き上げすぎれば喉を痛める。今日は長く、低く。
ネレイアが水の剣で椅子のまわりに円を描く。細い水筋が床に触れて、塩を置いていく。円が閉じた瞬間、床の紋がほんのわずか別の拍に変わった。街の心拍が、新しいテンポに馴染むみたいに。
ジョラが盾を立て、円の北を覆う。「ここは通行止め。今日は越えないでください」口調は硬いが、その言葉にはお願いの繊維があった。人々は一斉に一歩さがる。
ロウェルは滑車を緩めて締め、水門が低く一度うなる。港内の流れが少しだけ向きを変えた。――君が門を開けると言ったね、という彼の低い決意が、夜気の手すりを伝っていくみたいだった。
そして、代価。
俺は手首のコデックスをトンと叩き、画面を起こしかけて――自分で消した。今日は数字で確かめない。代わりに、何を差し出すかを思い浮かべる。記憶はいつだって「最初」から大きい音を出す。最初の家、最初の雨、最初の名前、最初の歌。
舌先が、無意識に古い空白をなぞる。ラ――。プロローグで擦れた、あの空席。いつか取り戻すと決めていたけれど、今日ここに持ってくるのがふさわしい気がした。言い換えれば、この街の沈黙をまず俺が引き受ける、ということだ。
「俺は――最初の歌の、最初の音節を支払う」静かに告げる。「擦り傷だけ残っていたその欠片を、今夜、完全に手放す」
ルシの目が大きくなる。「ほんとに?」
「誰かが始まりを失えば、誰かが終わりを取り戻せる」俺は笑う。「その代わり、次の始まりは俺たちで作ろう」
ネレイアが俺の肩に掌を置く。水温の手だ。「君が失う分は、今夜は私たちが守る」
俺はうなずき、少女にラベルを返した。「そのラベル――文を、ひっくり返して」
彼女は一瞬ためらい、〈資格〉の面を内側へ折る。ガラスの縁が指をかすめたが、血は出ない。文が消えると、空気のなかに隠れていた文が浮かぶ。〈招待〉。
ルシが最後の音を添える。「招待 ― 契約 ― 証言」
炎が一度、大きく揺れて――ふっと静まる。円の内側で椅子札が薄く息を吐き、金箔を持ち上げた。下から、黒真珠が、小さな黒い星のように艶めく。〈黒真珠コア〉――感情が一点に集まると、いつもこれになる。嫉妬が真珠の塩目を緻密に織り上げた塊。
ラキナが本能的に一歩近づいて――自分で止まる。「触らないよ」商人の抑揚を一瞬だけ落とした声。「今夜は――君が持って行け」
俺は手袋をはめ、黒真珠を持ち上げる。熱くはない。むしろ水中の砂みたいに、掌で形を保つ温度。ネレイアがうなずき、ジョラは盾で円の隙を最後に塞ぐ。ルシは燭台を吹き消した。
その瞬間、舌先から何かがはらりと剥がれ落ちた。ラ――。ずっと昔の笑い声みたいに、耳の中の音が一つ消える。俺は手を下ろした。空席は不思議と静かだった。痛いと思っていたが、その場所はただ空になった。海から一杯、掬い取った跡に、水面がすぐ満ちるみたいに。
同時に、街のどこかで〈資格〉の文字が数行消えたのが分かった。足首に絡んでいた見えない紐がほどけ、夜気に酸素が少し増える。シャンデリアはもう質問せず、ガラス手すりは反射だけをした。――街は、自分で止まるやり方を覚えつつある。それを、互いの目で確かめた。
「封印しよう」俺が言う。
ラキナは腰の封印革袋を出して渡す。「競売人にも、この程度の信心はある」彼は笑う。「明日の売り目録から〈資格〉は外そう。代わりに〈証言〉を上げてみる。人が何を買っているつもりなのか、俺も見たくなった」
「恩に着る」俺は封印紙を黒真珠にそっと当てた。墨が静かに滲み、真珠の目へと染み込む。明るくも暗くもならない。ただ――収まる。
ロウェルが近寄り、覗き込む。「これ……どこに置きます?」
「金庫だ」俺は答える。「でも今夜は――灯台に一晩。人の目に見える場所に。俺たちが何を支払い、何を取り戻したかを」
ルシは燭台をもう一度持ち上げた。声は囁きに近いが、芯がある。「私は今日……音をひとつ減らさずに済んだ。あなたが始まりを預かってくれたから」
「次の始まりは、みんなで」ネレイアが黒真珠を見つめながら言う。「明朝、この街はもっと多くの選択をする」
ジョラは盾を畳んで肩に掛けた。「敷居は、このまま?」
「夜通し残して」俺は言う。「線が見えれば、足はつまずかない」
人々がぽつりぽつり集まり、椅子札と封印、そして俺たちの円を静かに眺めた。歓声はない。大振りなジェスチャーもない。代わりに、それぞれの息を一度、長く整えた。港の夜は、長い文の句点みたいに、だんだん落ち着いた。
灯台へ黒真珠を運ぶ途中、ロウェルが横で訊く。「スパイン」
「うん」
「その音節を失うのって……すごく痛いですか」
少し考えてから答える。「痛いと思ってたけど、意外と静かだ。ラが抜けた場所に――新しい音が座りそうだ」
ルシが小さく笑う。「じゃあ明日はレを貸す。低い音だから、喉も痛くない」
「いいね」ネレイアが前で灯台の扉を押し上げる。「明後日は、みんなで和音」
灯台の中は、パンの匂いと海茶の香りであたたかい。ミレイユは俺たちを見ると、無言で大皿を窓辺に置いた。塩キャラメルはすでに固まり、灯りを返している。俺たちは黒真珠を窓枠の上、海がいちばん広く見える場所に据えた。窓に当たる風が少し変わる。黒真珠の角をかすめた流れが、外の波の呼吸を室内へ導いた。
ラキナは敷居で立ち止まり、帽子を取る。「競売人は、今日は何も売れなかったな」
「その代わり、命が売られなかった」俺が返す。
彼は笑って帽子をかぶり直す。「明日、秤を据え直すさ」
夜はさらに深くなる。街の質問は今日の分を終え、今は答えだけがゆっくり固まる番。俺たちはパンを少しずつちぎり、海茶を少しずつ飲んだ。言葉は少ないが、各自の呼吸が遅いリズムでそろう。
外で小さな足音。窓の外を見ると、あの少女がラベルを持って立っていた。彼女はラベルの空白の面を風にかざし、そっと折って自分のポケットへ。〈資格〉の文字はもう見えない。代わりに、折り目のあいだから〈招待〉の刻みが、うっすら光った。
「招待状は明日も有効だ」俺は窓を少し開けて言う。「今日の証言を覚えている限り」
少女は頷き、つま先で一度、小さな円を描いた。――足は線を覚えている。その一動作で、彼女はそれを示し、闇の中へ消えた。
灯台の下で波が砕ける。今日、三度繰り返していた波の文が、四度目で変わった。あいだにあった無音の一拍は、もう呼吸の長さに変わっている。始まりを失った場所から――次の始まりが芽を出す。
俺はしばらく外を眺め、黒真珠をもう一度確かめた。封印はよく付いている。そこに映る俺たちの顔は、少しだけ角が取れていた。舌先の空席も、ずっと前から空いていたみたいに、静かだ。
「記録」低く呟く。「座席0番、ライブ開放/契約の発語/代価=最初の歌の最初の音節/回収=黒真珠コア/封印=灯台に暫置展示/街=呼吸安定/明日=行為で確認」
ルシがカップを掲げ、俺の杯にこつんと当てる。「明日、また」
「明日」ネレイア、ロウェル、ジョラも順に杯を上げた。
今夜、俺たちはひとつの文を書き直した。明日はもうひとつを書き直す。そのあいだ、俺たちは息を集め、誰かの足が転ばないよう線を残す。そして必要なとき――もう一度、自分のものを支払う。そうして世界は、つづいていく。




