白狐さまと恋の話③
「なぜおぬしが泣くのだ」
困惑に満ちた声に、「泣いてません」と否定して、熱いものを呑み込む。泣いていない。泣くべきはあたしではない。
「神の前で嘘を吐くと、ろくなことにならぬぞ」
「……泣きかけましたけど、泣いてません」
「素直だな」
ぎくりとして訂正すると、神様は喉を鳴らした。
「いつまでも素直なままでおれぬのが、人間という生き物の性らしい。そういう意味では、おまえは珍しい手合いなのだろうな」
そう言って神様は視線を巡らせた。「あれと一緒だな」
「先輩と、ですか?」
首を傾げて、あたしは神様の視線を追った。あたしたちの話し声は聞こえているだろうに、先輩は我関せずを貫いて草むしりを続けている。草の山は、いつのまにか八個にまで増えていた。
「あれも昔から変わらない素直な子どもだ。まぁ、ひねくれてはいるがな」
「はは、たしかに」
「だが、珍しいくらい純粋でまっすぐな男だ。おぬしたちの世では生きにくいのではないかと案ずることもあったが」
保護者のような言葉を不思議に思いながら、あたしは頷いた。もしかすると、先輩が市役所に入る前からの知り合いなのかもしれない。
「案外と、そうでもなさそうだ」
優しい声音がじんわりと広がっていく。やはり神様なのだと思った。
自分自身の寂しさよりもあたしたちを優先する、とても優しい神様。
ふと守り神という言葉が胸に浮かんだ。彼女の優しさのなかで、あたしたちは守られ生きているのかもしれない。
「ところで、おぬし」
「はい?」
「よいものを持っているな」
白い指先を胸元に向けられる。そこにあるのは、おばあちゃんに貰ったお守り袋だ。
「ありがとうございます。祖母がつくってくれたものなんです」
「そうか」
「はい。宝物なんです」
「なるほどな。言うまでもないと思うが、これからも大事にするといい」
ほかでもない神様に褒めてもらえたことがうれしくて、しっかり「はい」と返事をする。
これは、あたしの宝物だ。いつでもあたしらしく、そうして、優しくあれるよう。おばあちゃんの祈りがこもったもの。
近づいてくる足音に、あたしは神様に視線を合わせて囁いた。
「また来ますね」
あたしでは寂しさを紛らわすことはできないだろうけれど、せめてお祭りまでのあいだは何度でも会いに来たい。だって、約束したのだ。
決意を込めてにこりと笑うと、紅い瞳がゆるりと笑みをかたちどる。
「待っておるぞ」
「……あ、あの!」
「今度はなんだ。騒々しい娘だな」
神様の顔に浮かんだのは、はっきりとした苦笑だった。先ほどの笑顔が儚く見えて不安になったのだとは、さすがに言えない。
けれど、その代わりにあたしは思い切った。
「あの、ゆうたくんの苗字とかってわからないですか。それとか、年齢とか……」
「勘違いするでない。探させようと目論んで、おまえたちを呼んだわけではないのだ」
「それは、その、わかってます」
幼い顔は静かだった。わかっている。これは、あたしの勝手な我儘だ。だから、あたしは力強く主張した。
「あたしの我儘です。あたしが知りたいと思ったから聞きました」
今度はすぐに答えは返ってこなかった。ただ紅い瞳がじっとあたしを見据えている。透明なようでいて底なし沼のように深い瞳。その色に覚えたのは恐れだった。けれど、当然の感情だったのかもしれない。
彼女は子どもではないし、対等な相手でもない。敬うべき存在なのだ。
無意識に唾を呑み込む。ただ、取り消そうとは思わなかった。彼女は神様だ。あたしがどうのこうのと言える相手じゃない。けれど、それでも力になれることがあるならなりたいと思った。それが本心だった。
永遠のようにも思えた時間は、彼女の静かな声で終わりを告げた。
「とんだ変わり者だ」
「……たまに言われます」
主に、先輩とか、先輩とか。白状すると、神様は小さく肩を揺らして笑った。そして、「そうだな」と言葉を紡ぐ。
「苗字は知らん。聞いておらんからな。だが、だいたいの年齢ならわかる。おまえたちとさほど変わらん年ごろだろう」
「変わらない年……」
「もう少し上かもしれんが、こちらからすれば小さすぎる誤差だ。それ以上の正確なことはわからん」
「そうですか」
唸ったあたしに、神様は思い出したように付け加える。
「あとは、そうだな。人懐こい子どもでな、優しい顔をしておった。笑うといかにも人が好さそうで……うん、そうだな。愛嬌のある顔をしておったわ。その顔を見ておるうちに笑えてくるような」
くすくすと楽しそうな笑みがこぼれる。その優しい表情を見つめながら、あたしは思考を巡らせた。
人懐っこい、優しそうな男の子。
毎年お祭りに参加していたことを考えると、この集落に住んでいた可能性が高い。あるいは祖父母の家があって遊びに来ていた可能性もある。
けれどどちらにせよ世帯数は多くない。少し調べれば見つけることはできるかもしれない。
「最後に来たのは、中学生になったころだったか。白い学生シャツを着ておったわ。だが、そのときには、すでに我の姿はおぼろげにしか見えていなかったのかもしれん」
あまり話もできなかったのだと神様は言った。
その男の子は、年に一度お祭りの夜にだけ会うことができる成長しない女の子のことをどう思っていたのだろう。
それとも、そういったことに不信を覚えないうちだけ、彼女を瞳に映すことができていたのだろうか。
悩むあたしを見かねたのか、神様がそっと囁く。
「あの坊主が言ったとおりだ。我らとは時の流れが違う。だから、しかたのないことだと理解している」
それはいつか聞いたものと同じ台詞だった。
「おぬしのすることを止めはせん。だが、そのことはよく覚えておけ」




