稲荷神社の白狐さま③
「あ、あの!」
呼び止めたのは、ただの衝動だった。ぎょっとした視線は先輩だ。間違いなく差し出がましい真似をしている。わかっていたけれど、止めることはできなかった。
振り向いた紅い瞳は、幼い子どものように澄んでいた。吸い寄せられるように、あたしは問いかける。
「本当に、それでいいんですか?」
「おい、おまえ……」
「だって、先輩。そんなの、そんなこと」
悲しいじゃないですかとは、さすがに言うことはできなかった。
でも、誰かに忘れられるということは、とても悲しいことだ。いくら生きる時間が違ったって、神様だからって、慣れていいものじゃない。
あたしには想像しかできない。けれど、何度経験をしても、そのたびに変わらない悲しさを覚えるのではないだろうか。
あたしと一緒にするのは失礼な話だと思う。
でも、あたしは、誰かひとりにだって、あたしがいたことを忘れられたら、悲しいし、寂しい。交流のあった誰かに覚えていてもらいたいと思うのは、当然の願望で欲求だ。
言葉になり切らないぐちゃぐちゃとした感情が身体中に渦巻いている。黙ってしまったあたしを見て、神様がふっと笑った。
子どもの顔には似合わない、すべてを悟った大人の微笑。
「ならば、祭りまでの暇つぶしに付き合うがいい」
「え?」
「また会いに来い」
返事を待つことなく、ふわりと姿が消える。白い光が残り火のように、あたしたちの周りをふわふわと漂っていた。
目を瞬かせていると、先輩が「おまえなぁ」と困惑を隠さない声を出す。
「いまさらっちゃいまさらだけど。おまえに怖いものはねぇの、マジで」
「怖いものって……、神様ですよね?」
「……」
「え? もしかして、祟られるとかそういう話ですか? あたし罰当たりなこと言ってました?」
無言の先輩が恐ろしくなり、自分の言動を振り返る。やっぱり失礼だったのだろうか。
もしかして、あたしがいきなり話しかけた時点で無礼だったとか。いや、でも、それなら先輩の喋り方のほうがずっと不敬だった気もするのだけど。
ぐるぐると悩んでいると、「まぁいいけどな」といかにもおざなりに先輩が話を終わらせた。
投げ捨てられた気分で、歩き出そうとした先輩のつなぎを引っ張る。
「なんだよ」
「えぇと、あの、なにか罰当たりなことをしてたなら、教えてもらえたらうれしいなと」
「べつに」
面倒くさそうに溜息を吐いた先輩が、背後の祠にちらりと視線を向けた。
「ただ、なんだ。善良な神様ばかりじゃねぇって話だ。ついでに言えば、どんなに善良な神様だろうと、それは人間じゃねぇ。その時点で、おまえがしたような、……なんつうのかな、同じ場所に立っているような接し方をするのはよろしくないっつう話」
「はぁ」
「どうせ、俺も似たような態度だったって思ってるんだろ」
「いえ! べつに、そんなことは」
思っていたけれど。焦ったあたしを無視して、先輩は足を進める。
「そもそもな、化け狸や河童と神を一緒にするな。寂しいからでやらかすことに、天と地ほどの差があるんだぞ」
「……はい」
「まぁ、祭りまでのあいだくらいなら、付き合ってやれよ。あと二週間だ。そのくらいの短期間の約束くらい守ってやれば?」
突き放したような言い草なのに、その裏側には神様へのやさしさが潜んでいるように思えてしかたがなかった。
「はい」
約束という言葉に重みがあるのは、果たされるべきであると双方が願っているからだ。
「わかってます」
待ち惚けになんて、させられるはずがない。あたしまでそんなことをすれば、あの神様は本当にひとりぼっちになってしまうのかもしれない。
先輩に言われたことをすっかり忘れ、あたしはそんなことを考えていた。
――もっとほかにもできることって、ないのかな。
「ねぇ、先輩」
「だから、なんだよ。しつこいやつだな」
「地域再建計画とかって、あたしたちにできないもんですかね」
たとえばもっと地域の人たちが神社のお祭りに協力してくれるような。川の掃除や、忘れ去られてしまった山の祠にも率先してお供えをしてくれるような。
河童のおばあさんや狸のおばあさんが寂しいと思わないような、そんな関係を地域の人たちと築くことはできないのだろうか。
あたしたちが電話をもらって駆けつけるよりも、地域の方と触れ合えるほうが彼らもうれしいのではないだろうか。
思い付きではあったけれど、良い考えに思えて、あたしはうんと頷いた。返事を期待して見上げると、先輩は呆れ切った顔をしていた。そして一言。
「どう考えても、そりゃ地域振興課の仕事だろ」




