河童の川探し⑦
あたしたち以外に誰もいない河川敷を歩く。前を向いたまま、先輩が言った。
「おまえ、うちに来る前、国保だったんだろ」
「え? はい、そうですけど」
「ろくでもねぇ窓口、多かっただろ」
「はは、まぁ、癖の強い方もいらっしゃいましたねぇ」
配属された当初は、すわクレームかと電話が鳴るたびにビクついたものだ。あたしだって、最初から強心臓だったわけではないし、怒鳴られると心のどこかがすり減る。
それが自分の仕事だとわかっていても、理不尽なことで罵声を浴び続けることはつらい。
「嫌にならなかったのか、人間」
「そのくらいで嫌になんてなりませんよ。それに、仲良くなれないなって感じる人がいたとしても、その人とあたしにご縁がなかったというだけの話です。その人と親しくできる人も当然いるんでしょうし。ひとくくりに人間を嫌いになったりだとか、窓口対応が嫌になったりはしないですよ」
怒鳴られることはつらいけれど、仕事のうちだ。いつしかそう思うことができるようになった。
心身を削られてしまう対応もあるものの、窓口でとびきりの笑顔をいただくこともある。心からのありがとうをもらえることがある。
嫌だったことが帳消しにはならなくても、心のHPは回復する。その繰り返しで強くなった。
課内の人間関係にも恵まれていたし、なによりあたしは人と接する仕事が好きだった。
だから、どんな悪質なクレーマーにあたっても、窓口業務はごめんだと思ったことはない。
そういったところが、心臓が強いと評される所以なのかもしれない。でも、この町に携わる仕事が天職だと信じて頑張ってきたのだ。
――そのはずだったのに、いつのまにか夢守市のためにっていうのが抜け落ちかけてたんだから駄目だよなぁ。
そのことを思い出させてくれた人の背中を見つめる。まっすぐに伸びた背が、なんだか眩しかった。
「たまにいるんだよ、おまえみたいな鈍感な人間が」
「え?」
「鈍感すぎて見えないのに見えるというか、見えるのに見えないというか」
「ちょっと意味がわからないです、先輩」
かろうじて理解することができたのは、先輩はその逆なのだろうなということだけ。
つまり、先輩は、繊細すぎて人間性をこじらせているのだ。最初に七海さんが言った言葉を、最近になってあたしはしみじみと噛み締めている。
「だから、褒めてんだよ、馬鹿」
絶対に褒めていないと言いたくなったものの、あたしは言わなかった。
意味がわからないし不器用な人だけど、悪い人ではないと思うようになったからだ。素直に人を褒めた瞬間に死ぬと思っている可能性も捨てきれないけれど。
「おまえみたいに、境界の薄い人間はふつう危ねぇんだけど。なんというか、おまえはものすごい無害なんだよな。人間からも、向こうからも」
「はぁ」
妖怪と人間の境界が薄いということなのだろうか。
やっぱり先輩の言うことはよくわからない。でも、徐々にわかるようになっていくのかもしれない。
しばらくは真晴くんの仕事を見ていたらいいよ。そう言ってくれたのは七海さんだ。だから、そういうことなのかもしれない。
あたしはここで仕事をしていく。そのなかで、きっと、いろいろな大切なことを学んでいく。
「だから、どっちにも寄り添える」
前を向いている先輩がどんな顔をしているのかは、わからない。けれど、その声は、今までに聞いた先輩の声のなかで一番優しかった。
「おまえはうちに向いてるよ」
その言葉は、胸のまんなかにすとんと落ちてきた。
行政の隙間から零れ落ちてしまう、あやかしたちの相談を受ける唯一の課。なんでも屋。面倒な要件の押し付け先の雑用係。問題児ばかりが集まった掃き溜め。
そんなふうに馬鹿にされても、この人は、この仕事が好きなんだ。
「帰るぞ」
「っ、はい!」
知らず声が大きくなる。帰る。よろず相談課に。そこが今のあたしの帰る場所なんだ。そう思うと、心がほっとあたたかくなった気がした。
あたしたちの歩いたあとには、水たまりができあがっている。なんだかそれが、妖怪と人間を繋ぐ道しるべみたいに思えた。




