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こちら夢守市役所あやかしよろず相談課  作者: 木原あざみ
第一章:ようこそ「あやかしよろず相談課」
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河童の川探し⑤

「おい」


 積極的に止める気はない調子の声だった。

 それをいいことに、あたしはズボンの裾をまくり上げた。ついでにと羽織っていたカーディガンと職員証を先輩に押し付ける。

 ぴくりと眉を上げた先輩は、押し付けられた荷物とあたしを見て、また溜息をひとつ吐き出した。


「あのな。おまえひとりで見つけれねぇだろ」


 この広さを見ろと言わんばかりの台詞は、正論だとわかっている。けれど、なにもやらずに「諦めてください」と言いたくなかったのだ。


「やってみなきゃわからないじゃないですか。先輩に手伝ってくれとは言わないですから、ここで待っててください」


 置いて行かれるとさすがに困るので、頭を下げて頼み込む。返事は待たず、あたしはそのまま川に入った。

 春の水は冷たい。おまけに、くるぶしくらいまでしか水かさはないものの、きれいな水というわけでもない。


 ――昔はあのあたりの川は清流と言っていいほどきれいだったんだけどねぇ。


 いつだったか、おばあちゃんにそう教えてもらったことがある。花見に来たときだっただろうか。昔は蛍がたくさんいたんだけど、いつのまにか汚くなってしまって。悲しいねぇ。

 おばあちゃんはこうも言っていた。

 そうしてしまったのはあたしたち人間ではあるけれど、それを正すことができるのもあたしたち人間だけなのだ、と。


 きれいなもの。おばあさんの言葉を胸中で唱えながら、腰を落として水中に目を凝らす。見たらすぐにわかるきれいなもの。

 宝石だろうか。けれど、そうだとすると高価なものという表現のほうがぴたりとくる気がする。

 では、おばあさんにとってのきれいなものだろうか。川底にきらりと光ったものが見え、あたしは手を伸ばした。


「っ、痛……」


 小さな痛みに、ぱっと指先を引き上げる。確認した人差し指の腹からは、赤い血の玉が膨れ上がっていて。痛みよりも原因に腹が立ち、もう一度水中を探る。割れたビール瓶。


「なんで、こんなものが落ちてるの! 先輩!」


 八つ当たりの勢いを殺せないまま、声をかける。


「すみませんけど、ごみ袋ください。ごみ袋」


 車に入ってますよねと畳みかけると、呆れた声が返ってきた。あたしと違って叫んでいるわけではないのに、先輩の声はよく響く。


「おまえ、今度は川掃除かよ」

「だって、いっぱい落ちてるんですもん。拾ったら回収するしかないじゃないですか!」


 ここにゴミを放棄した輩はバナナの皮で滑って転べばいい。まぁ、そんな古風なことが起こる確率がどのくらいかは知らないんだけど。

 顔も名前も知らない犯人を呪って、あたしはがむしゃらに手を突っ込んだ。じっとあたしを見ていた視線が離れ、足音が遠ざかっていく。

 ゴミ袋を取りに行ってくれたんだとわかって、あたしは「よし」とさらなる気合いを入れた。


 水面がオレンジ色に染まり始めても、ごみ以外のものが見つかることはなかった。誰かが投げ捨てた空き缶、お菓子の袋。カップラーメンの容器。ガラス瓶の欠片。ビニール袋。


 こんなものが、きれいなもののわけがない。


「おい、三崎」


 何度目になるのかわからない呼びかけに、「まだ見つかってません!」と叫ぶ。

 先輩の求めている返事と違うことはわかっていたけれど、それ以外を言葉にできなかったのだ。

 意地になっていることは自覚していても、止めることができない。腹が立って、悲しくて、やるせなかった。


 きれいなもの。きれいなもの。大切なもの。失くしてはいけないもの。あたしたちが失くしてはいけなかったもの。それはいったい、なんなのだろう。


 頬を伝った汗が水面に波紋を広げる。その渦の中心にきらりとしたものが見えて、あたしは今度こそと手を伸ばした。瞬間、ずるりと足が滑る。


「っ、うわ!」


 まくり上げただけのズボンの裾は、すでにその意味がないほど濡れていたけれど。さらに助手席に座りづらくなってしまった。もう全身びしょぬれだ。

 溜息を吐いて立ち上がろうとしたあたしの腕を、誰かの手がぐいと掴んだ。


「先輩」


 暖かい手のひらのぬくもりに、はっとして視線を上げる。

 不満そうな、呆れたような、あるいは、それを通り越して怒っているような。そんな顔で先輩は無言であたしを見下ろしている。その視線がふいと外れ、河川敷に向いた。


「ばあさん、もういいだろ!」


 苛立った声に、ワンテンポ遅れて瞳を瞬かせる。


「え?」

「だいたい、おまえもその頭は飾りか。ちょっとは脳みそ使って考えろ。河童が自分のテリトリー内で失くしたものを自分で見つけられないわけがないだろうが」

「え? だって、おばあさんがこんな川の中を探せるわけないじゃないですか」


 まったく意味がわからなくて、あたしは先輩と河川敷に立っているおばあさんを交互に見やった。


「だから、河童だって言ってるだろ。馬鹿か、おまえは」

「え? え? 河童さんっていう苗字なんです……よ、ね?」


 物わかりの悪い子どもに言い聞かせる調子で先輩が繰り返す。でも、やっぱり意味がわからなくて。あたしはもう一度おばあさんを見た。

 緑色の着物を身にまとった優しそうな小さなおばあさん。その上品な笑顔が、ゆっくりと歪み出す。


「え」


 呟いたきり、あたしは絶句した。濡れた手で目をこする。


「……」

「だから、河童だっつってるだろうが」


 呆れ切った先輩の声は、ほとんど頭に入ってこなかった。

 目をこすっても視界に映るものは変わらない。緑の着物を着たおばあさんだったはずの人影は、緑色のつるつるとした生き物に変わっていった。

 端的に言って、河童。日本昔話に登場するような、いわゆる河童。たぶん、河童と聞いてみんなが想像するような典型的な河童。


 叫ばなかっただけ、あたしを褒めてほしい。叫ぶ余裕がないくらいびっくりしたというほうが正確かもしれないけれど。

 へにゃりと力が抜けたと思った瞬間。あたしは再び川に尻餅をついていた。生まれてはじめて腰が抜けた。

 先輩は助ける気配の片鱗すら見せてくれなかった。

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