カウントダウンは止められない 2
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アルノーはベッドからゆっくりと起き上がった。
今日で3か月程が経ったな、と一人ごちる。
離婚され実家に戻ってから、しばらくはベッドから起き上がることも出来なかった。眠くて眠くて、ひたすら眠り続けた。
医者曰く「ストレスですね。今は休養することです。焦ってはいけません」とのことだった。兄夫婦のパトリスとイザリンはそれをくんで、「良くなるまでゆっくりしなさい」「無理は禁物よ」と言ってくれた。本当にありがたくて、その夜こっそり泣いてしまったことは内緒だ。
ベッドから起き上がれるようになったら好きなことをして良い、と言われたのでそうさせてもらう事にした。本を読んだり、庭を散策したり、絵を描いてみたり。……が、出来上がった絵を兄夫婦に見せたら、「……画伯だな」「こ、個性的で良いんじゃないかしら」と震えながら言われてしまった。自分には芸術方面の才能は無いらしい。
ただこのまま甘え続けて居候では立場が無いため、王宮の文官になるための試験を受けようかと思っている。試験要綱を見たところ問題は無いようだし……と思いながら身支度を整え、朝食の席へと向かう。
「おはよう」
「おはようございます」
兄夫婦と挨拶を交わし、祈りを捧げてカトラリーを取る。
食事が美味しいと感じるのも最近のことだな、としみじみと思いながら食事を進めていると。
「アルノー、調子はどうだ?」
「ええ、だいぶ良くなりました。ありがとうございます」
そう礼を言えば、パトリスはイザリンと顔を見合わせ、安堵したように微笑んだ。
「それで、今後のことなのですが、もう」
「そのことなのだが、アルノー」
文官の試験のことを切り出そうとしたが遮られてしまった。何だろうか、とアルノーは食事の手を止めて、パトリスの言葉を待つ。
「とある方が、領地経営を手伝って欲しい、と仰っているのだが、どうだろうか?」
「え……」
目を見開けば、パトリスは一つ頷いて言葉を続けた。
「お前の手腕を買ってのことだ」
「私の……」
知らず知らずの内に、カトラリーを取る手に力が込められる。それに気付いたのか、パトリスの眉が寄せられた。
「もちろん、お前の体調と気持ちが最優先だ。それは向こうも承知だから心配しなくても良い」
「リハビリには良いかもしれないけど……本調子じゃないのなら、断っても良いのよ?」
イザリンもまた心配そうな顔だ。
暖かい家族がいてくれるのは、こんなにも心強いのか、と改めて思う。それと同時に、何時までも甘えていられないとも思ったアルノーは、頷いて口を開いた。
「分かりました。その話、お受けいたしますと伝えてください」
そして数日後。
静かに馬車が停まり、御者が到着を知らせた。
降りればまず巨大な門が目に入る。
「アルノー・クロード様、お待ちしておりました。ご案内いたします」
控えていた従者の後に続いて門を通り抜ける。
庭はよく手入れされており、優しい緑が目を楽しませてくれた。クロード家の庭は季節の花々が華やかに咲いていたから、こうした緑だけの調和というのも何だか新鮮に感じる。
見上げた屋敷も豪華で上品な造りだった。さすが公爵家のお屋敷だ、と思いながら客間へと通される。
「やあ、よく来てくれたね、クロード殿」
ルパート・ディルーカ公爵は朗らかな笑みを浮かべて出迎えてくれた。
「お声がけいただき、ありがとうございます。私の力でどこまでお役に立てるか分かりませんが、精一杯努力いたします」
深々と頭を下げれば、「力を抜いてくれ」と肩をぽんぽんと叩かれる。
「君の力で出来ることをやってくれればそれで良い。焦る必要はないよ」
その穏やかな笑みに、つられるようにアルノーの口元にも笑みが浮かんだ。
「では来て早々悪いが、早速取りかかってもらえるだろうか?」
「はい」
力強く頷くと、「頼もしいな」とまた肩を叩かれた。
書庫はひんやりとした空気が漂っている。紙は太陽光に弱いため保管は日が差さないところに、というのは常識だ。
まだ暖かい季節だったから良いが、冬だとこうはいかないだろうな、と思いながら、アルノーは古い文書の整理と帳簿の精査を黙々と行っていく。
こういう作業は無心になれるから好きだ。自分のペースで良いからとディルーカ公爵には言われているから、お言葉に甘えることにしよう。
手を動かして年代別に綺麗に整頓し、気になるところがあれば印を付けて訂正を別の紙に書いて挟んでおく。それの繰り返し。
時間が経つのも忘れて黙々と作業をこなしていると。
コンコン
ドアが控えめにノックされた。
「はい」
答えるも、ドアが開く気配はない。
不思議に思いながら立ち上がり、そっとドアを開けてみる。
「……!」
そこにあったのは、ワゴンに乗ったティーセットだった。使用人の誰かが気を利かせてくれたのかな、と思いながら、ワゴンを中に運び入れる。
机にティーセットを置き、カップへと紅茶を注ぎ入れる。カップがちゃんと暖められているところに、細やかな気遣いを感じた。
口を付ければ、ふわりと芳醇な香りが鼻孔を擽り、濃厚な味とコク、ほのかな渋みが心地良く口腔内を満たす。じんわりとしたその暖かさにも、ほう、と息が零れた。
添えられていたクッキーは、可愛らしい花の形をしている。誘われるがままに手を伸ばして口へと運べば、さくさくと軽い食感が心地良く、バターの香りと味が程よく混ざってとても美味しい。
思わず綻ぶ口元を抑えないまま堪能し、ふ、と息をついてカップを置く。
(美味しいクッキーと紅茶だったな。紅茶の栽培も手がけているのは知っていたが……クッキーは手作りのようだったけど、得意な方がいらっしゃるとはさすが公爵家)
アルノーはそんなことを思いながら手帳を取り出して、さらさらとペンを走らせた。
『紅茶とクッキー、ありがとうございました。とても美味しかったです。』
そのページを切り取って折り畳み、ソーサーへと置く。気付いてくれると嬉しいが、と思いながらワゴンを廊下へと戻してドアを閉め、残りの作業へと取りかかった。
「ほう、綺麗に片付けてくれてありがとう。もう2、3日程かかると思っていたが、半日で終わらせてくれるとは」
「勿体ないお言葉です。こちら、確認をお願いいたします」
「ああ、ありがとう。……ほう、このように細かなところまで、いやいや気付かなかった、ああ、本当にありがとう、助かるよ」
ディルーカ公爵はまた朗らかな笑みを浮かべて、肩を軽く叩いてくれた。ふ、とその笑顔が、義理の父だったダレンとほんの少しだけ重なる。もう顔もほとんど覚えていなかったというのに。こんな短期間で薄情なんだろうか、とイアンはぐ、と密かに拳を握り締める。
「この調子で週に3日程で構わないから通ってくれないか? もちろん働きに応じた給料は出す……まずは、このくらいでどうかね?」
提示された給料に、アルノーは目を見開いた。
「こ、こんなに、ですか?」
「半日とはいえ確信した。君の働きぶりならこのくらいが妥当だ」
「……ありがとうございます」
評価されたことが嬉しくて、頬が熱くなるのを感じながら礼を言い、そして。
「その条件でお受けいたします。よろしくお願いします」
「ああ、こちらこそ引き受けてくれてありがとう」
感謝の言葉に、また胸が熱くなる。この方は礼節を重んじている、と深く感じることが出来たからだ。
「では馬車を用意したから……」
「あの、その前に一つよろしいでしょうか?」
「何かね?」
不思議そうな顔をするディルーカ公爵に、アルノーは口を開く。
「差し入れでいただいた紅茶とクッキー、とても美味しかったです。手紙は添えたのですが、言葉でもお伝えしたかったので……」
ディルーカ公爵は少しだけ目を見開き、そして静かに細めた。
「ああ、分かった。『作った者』に必ず伝えておくよ」
やっぱり手作りだったんだな、と思いながら、アルノーは「ありがとうございます」と微笑んで頭を下げた。
この日以来、アルノーはディルーカ公爵家へ通うこととなった。
与えられた仕事を黙々とこなし、誠実に向き合う日々。それはアルノーにとって酷く充実したものとなった。
そうしている内に任される仕事も増え、時には意見を求められることもあった。ディルーカ公爵はそれを全て受け止め実行してくれるのも、嬉しくて仕方がない。もちろんそれら全てが上手くいった訳ではないが、それを責められることはなく、むしろ失敗を元に議論を交わしてくれる。
そして顔を合わせる使用人たちの態度もまた、柔らかく暖かなものに変わっていく。
「丁寧に整頓していただいたおかげで、確認が楽になりました」
「私たちの顔と名前を一度会っただけなのに、すぐに覚えてくださるなんて」
「書類の不備や不足が無くなりました。分かりやすいリストを作ってくださって助かります!」
そんな感謝の言葉を耳にする度に、擽ったく暖かい気持ちになるのを堪え切れなかった。
そしてもう一つ。
(今日はマドレーヌか)
与えられた執務室で、ドアの前に置かれていたワゴンを引き入れながらアルノーはそう一人ごちた。
デスクに置いて紅茶を淹れ、まずは一口。薔薇の芳醇な甘い香りがふわりと広がり、紅茶の味と合わさってまろやかな味わいが口の中へ広がっていく。
しばらくそれを楽しんだ後、マドレーヌを一口。しっとりとした食感に、濃厚なバターの香り。
ああ、美味しい。思わず頬が緩んでしまう。
(これを用意しているのは誰なんだろう?)
直接お礼を言いたいのだが、ディルーカ公爵はも他の使用人も何故か答えてくれない。はぐらかされてしまうので、深く聞かない方がいいのかもと思い、そのままにしているが……。
アルノーは紅茶を飲み終え、メッセージカードを取り出した。メモ帳でお礼を伝えている、と兄夫婦に言ったら、「そういうことはちゃんとしたカードに書くものだ」と注意を受けてしまったため、それもそうだと用意したものだ。
『いつもありがとうございます。ローズティーもマドレーヌも美味しかったです。』
カードを裏返しにしてトレイへ置き、ワゴンを廊下へと持っていく。
いつかお礼を口で言えたらいいけれど、と思いながら。
そうして数ヵ月が経ち、少し涼しくなった頃のこと。
「ああ、そう固くならなくても良い。座ってくれたまえ」
大切な話がある、と言われて呼び出された客間。
そう言われても漂ういつもとは違う空気に、アルノーは少しばかり緊張しながらソファへと座った。向かい側に座ったディルーカ公爵は真剣な顔で口を開く。
「さて、我がディルーカ家領地は、今まで以上の利益を上げることができた。これもクロード殿の助けがあったからこそ。本当にありがとう、当主として深く感謝申し上げる」
深々と頭を下げられ、アルノーは目を見開いた。
「いえ、こちらこそお役にたてたようで嬉しいです。ありがとうございます」
同じように頭を深々と下げる。
そして頭を上げれば、ディルーカ公爵は穏やかな笑みを浮かべていた。
「そこで今後もよろしく……、という提案と共に」
「私の養子になる気はないだろうか?」
「え……?」
唐突ともいえる提案に、アルノーは驚きに目を見開いた。
「君の領地経営、改革の腕は本物だ。我が家としては君を手放したくない」
「その結論が、私を養子として迎え入れる、ということですか……」
「その通りだ。もちろん君の優秀さだけではない、人柄も見込んでのことだ。……我が家の使用人の心を見事掴んでくれたようだな」
「あ、あの、それは……」
「いやいや、責めたり怒っている訳ではない。すっかり馴染んでくれた、と嬉しく思っているよ」
「は、はい」
「もちろん君の意思が最優先だ。家族と相談してからでも良いし、考えてみて欲しい」
兄夫婦に世話になっている身としては有難い提案だ。
しかし引っかかることが一つ。
「確かディルーカ公爵にはお子様がいらっしゃいましたよね?」
そう言うと、ディルーカ公爵は少し顔を曇らせた。
「ああ、そうだ。……娘が一人いる」
「お名前はレイチェル様、ですね? 未だ私はお会いしておりませんが……」
そう、今日に至るまでレイチェルを紹介されていない。不審に思っていなかったといえば嘘になるが、恐らく気を使ってくれたのだと思う。
レイチェルは生来身体が弱かったこともあり、婚約者が年頃になった今でもいないと聞いていたからだ。離婚して間もない自分に引き合わせたら妙なプレッシャーを与えてしまうと、そう思ったのだろう。
「娘は……レイチェルは親のひいき目から見ても可愛い子だが、身体が弱くてな。今はだいぶ改善したのだが、すっかり内向的な性格になってしまった」
「趣味はお菓子作りでな」
その言葉に、ピン、と閃くものがあった。
まさか、あのお菓子を作ったのは。
「ディルーカ公爵」
きゅっ、と膝の上で拳を作ってアルノーは口を開いた。
「レイチェル様に、会わせていただけませんか?」
「言わなければならないことがあります」
ディルーカ公爵の瞳が、ふ、と細められる。
「分かった。……レイチェルを呼んできてくれ」
控えていた執事は「かしこまりました」と頷いて、退室した。
2人の間に言葉は無い。ただ時計の針の音だけが響き渡る。
そうして短い時間にも長い時間にも感じられた頃に、コンコン、とノックの音が聞こえた。ディルーカ公爵が答えると、扉が静かに開かれる。
髪と瞳の色はディルーカ公爵と同じ、金髪と翠色。顔立ちもどことなく似ており、穏やかな印象を受ける。
「初めまして、クロード様。挨拶が遅れて申し訳ありません、レイチェル・ディルーカと申します」
優雅に淑女の礼をしてみせるレイチェル。それにふわりと胸が暖かくなりつつ、アルノーも礼をした。
「初めまして、アルノー・クロードと申します」
自己紹介を済ませ、改めて口を開く。
「先ほど、ディルーカ公爵から貴方の趣味がお菓子作りだと聞きました。もしかして、これまで私に出されていたクッキーやマドレーヌは、貴方が……?」
翠の目が大きく見開かれ、そして恥ずかしそうに伏せられた。
「その通りです。差し出がましい真似とは思ったのですが、少しでもクロード様の御心を癒せればと思い……」
その言葉は、酷く暖かいものに満ちた響きを湛えて。
とくん、と鳴る心臓を反射的に押さえて、アルノーは微笑んだ。
「ずっと言いたかったんです」
「ありがとうございます。貴方の作ったお菓子は、どれも凄く美味しかった」
レイチェルの頬が、ほんのりと赤く染まった。
「こちらこそお手紙をありがとうございます」
執事から受け取った小箱。彼女の手によって静かに開けられたそこには、アルノーが今までに書いた手紙が大切にしまわれていた。
「お礼のメッセージを頂く度に、嬉しくて仕方がなかったんです。クロード様に美味しいと思っていただきたくて、次はどのようなお菓子を作ろうかと考える時間が楽しくて……あ、申し訳ありません、話し過ぎてしまいました」
レイチェルの顔がさらに赤くなる。
アルノーは、その表情が、心遣いが、素直に嬉しいと感じた。胸の内はさらに暖かくなり、溢れ出しそうだ。
(このような感情を女性に抱くことは無いと思っていたのに)
それでも、もう一度くらい。
信じてもいいのだろうか。
「クロード殿」
ディルーカ公爵の目は、優しく細められている。
「『もう一つの選択肢』の方も検討してくれないか? ……どうやら娘は、君のことを憎からず思っているようだからね」
「お、お父様!」
むっ、と顔を真っ赤にしたレイチェルに睨まれて、ディルーカ公爵は「おっと」と笑いながら口を両手で塞いでみせた。
もう一つの選択肢。それはつまり。
(……もう失いたくない。ここは慎重に行動しなければ)
そう決意しつつも、あの美味しいお菓子が毎日食べられるのなら、と思っている自分に気付き、アルノーは困ったように微笑んだ。
そしてさらに数ヶ月後。
「緊張していますの?」
「ええ。このような場に出るのは久々ですから」
そう答えると、レイチェルの手が静かに己の手に重ねられた。
「大丈夫ですよ。……私がいますから」
アルノーは少しだけ目を見開き、そして細める。
「頼もしいですね。ありがとうございます」
レイチェルもまた微笑み、「行きましょう」と促した。それに頷き返し、アルノーは足を進めていく。
シャンデリアの眩しさに、少しだけ目が細められた。豪華で上品な造りの大広間では、着飾った貴族たちがグラスを片手に談笑を繰り広げている。
「まあ、ディルーカ公爵令嬢よ」
「お顔の色がすっかり良くなりましたな」
「ええ、可愛らしさに拍車がかかって……体調はもう安心のようで何よりですわ」
ひそひそと囁き合う声が響き渡った。
「それに幸せそうなあのお顔……あの方ね、婚約者の」
「ああ、アルノー・クロード殿だな。あの方は以前……」
瞬間、己の顔が強張るのをアルノーは感じた。が、レイチェルの手に、そっと力が込められる。
顔を向ければ、レイチェルはふわり、と優しく微笑んでくれた。
(暖かい……)
そう感じながらアルノーは少し息を吐き、同じく微笑んでみせる。
その様子に、ほう、と周りからは感嘆の溜息が零れた。
「お二方とも幸せそうだから大丈夫だろう」
「そうね、信頼関係は大事だもの。それにディルーカ公爵の目は確かだわ」
「ああ、聞いているよ。最近の繁栄ぶりと来たら大したものだ。時に王家の者も打診に来るとか」
「ディルーカ公爵の地位が盤石になる日も近いな」
そんな声を耳に入れながら、二人は足を進めていく。
「おお、よく来てくださった。ディルーカ公爵令嬢殿」
紺色のコートを品良く着こなした壮年の男性が穏やかな笑みを浮かべて、こちらに歩いてきた。
「お久しぶりです、ヘイデン公爵」
レイチェルはこの夜会の主催者である彼に、優雅な礼で答える。
「私の婚約者を紹介いたします」
それを受けて、アルノーは胸に手を当てて礼をした。
「初めまして、アルノー・クロードと申します」
「ああ、初めまして。私はジャメル・ヘイデンだ。よろしく頼むよ」
2人はがっしりと握手を交わした。
「君の領地経営の手腕の凄さは聞いているよ。詳しい話を聞きたいところだが……それはまた改めて。今宵はゆっくりと楽しんでくれたまえ」
「ありがとうございます」
揃って礼をすると、ヘイデン公爵は頷いて「では」と別の貴族の元へと足を進めた。
それを見送り、レイチェルがそっと囁いてくる。
「お加減はいかがですか?」
「大丈夫です。レイチェル様は」
「もう……『様』付けは止めてくださいな」
「貴方は私の『婚約者』であり、将来は『夫婦』になるのでしょう?」
困ったように微笑みながらそう言われ、アルノーは、ふっと力が抜けたのを感じた。
口を開いて自然に滑り落ちた言葉は。
「ありがとう、レイチェル」
心からの感謝の言葉だった。
『お世話になりました。この時を持って、ドルレアン家を辞させていただきます』
机上にあった紙には、それだけが記されていた。
アリスはその場に、へたへたと崩れ落ちる。
「どうしてこんなことに……」
そう呟くも、答える者は誰もいない。無駄に広大な屋敷で働いていた者は、この時を持って彼女以外誰一人いないからだ。
思い出すのは、かつて見下し蔑んでいた元夫であるアルノー。離婚した後、「あんなのに出来ていたのだから」と仕事に取りかかったが3分の1もこなすことが出来なかった。日に日に厳しくなる忠実であった執事、そして使用人の失意に満ちた視線。
それから逃れるように社交に出かけるも、『自身の浪費を棚に上げて白い結婚を強いた高慢な夫人』『有能な夫を切り捨て家をまた傾かせた無能な伯爵夫人』と陰口を叩かれる始末。
よって屋敷にも社交界にもアリスの居場所はなくなり、領地経営も満足にできず……。結果、領民も潮が引くようにいなくなり、領地はならず者たちが我が物顔で居座るようになり、すっかり治安が悪くなってしまった。
「なんで、なんでこの私がこんな目に……!」
ぐしゃぐしゃと自らの髪を掻き回すアリス。
自らの罪を顧みず、反省もしない彼女が救われる道は、もう残されていなかった。
(終)