01運命の日①
ブォオオオ
少し古びたアパートの一室、洗面所にドライヤーの音が響く。
鏡の前にはお尻の下まで伸びた漆黒のストレートヘアを乾かす女性がいる。
彼女の名前は東雲雛菊、22歳の大学生だ。
155㎝程の身長に白い透き通るような肌、はっきりとした二重の黒色の瞳だ。
小柄で着やせして見えるが、服から覗く手足は筋肉質である。
切るタイミングを逃してしまった長い髪を乾かすには骨が折れる…雛菊がそんなことを考えていると、玄関の方から大きな声が響いた。
「姉ちゃーん!もう出発の時間だぞ‼」
弟の葵の声だ。
古いアパートで壁が薄いので声は抑えめにしてほしいと何度も注意してるのに…。
「はいはーい!」
しかし、そう返事をする雛菊の声もそこそこ大きい。
まだ髪が湿っているものの、雛菊はドライヤーを切りタンクトップの上に薄いジャケットを羽織った。下はジーンズの短パンにスニーカーというラフな格好だ。
玄関ドアに鍵を掛け急いで錆びた階段を駆け降りると、そこにはヤンキーのように地面に座る葵の姿があった。
「おっせーよ!いい加減髪切れっての!」
葵はそう言いながら大きな身体を起こし立ち上がる。
20歳の葵の身長は190㎝も有り筋肉質なので大柄で威圧感がある。
母方の祖母がイギリス人であるために隔世遺伝により、葵の髪はブロンドで瞳も緑色だ。一見外国人のような容姿だが、国籍は日本で英語も苦手な生粋の日本人である。
服装はオーバーサイズのものを好み、今日も大き目のパーカーに股下の広いスウェットを着ている。耳には大量にピアスをつけており、元来の容姿に加えてさらに威圧感のある姿だ。
「私も髪が長いのはわかってるけどさー」
そう言いながら歩き出す雛菊。葵もその隣を歩く。
雛菊は両親が中学生の時に亡くなってから髪を切ったことがない。当時ショートカットだった雛菊の髪も随分と伸びてしまった。
両親はよく頭を撫でてくれた。両親が触れた髪を切るのがしのびなくて伸ばしたままでいる。
しかし、来年には就職活動をはじまるし、そろそろ腹を決めて髪を切った方が良いのかもしれない。
ちなみに雛菊は大学在学中に一年休学して生活費を稼ぐためにアルバイトをしていたために、通常より一年遅く大学を卒業する予定だ。
今日は天国にいる父親の誕生日で毎年二人でお墓参りに行く日だ。
雛菊と葵は道中で花やお線香等を買うと電車に乗り込んだ。
午前の早い時間だが、朝ということもあって車内の人はそんなに多くない。
電車を乗り換え、家を出発して1時間程が経った頃車窓から見える景色は田園風景へと変わっていた。
今や都会暮らしの二人にとって、この景色はとても懐かしい。
両親が健在の頃は田舎暮らしだったのが、亡くなってからは親戚の家の近くに住むために今の都内のアパートに引っ越してきた。
まだ子どもだった雛菊と葵はそれぞれ違う親戚の家にお世話になる予定だったのだが、どうしても離れ離れになりたくなかった二人は周りに無理を言って親戚の家の近くで二人暮らしをすることにした。
両親を一度に亡くした幼い二人の心はすぐにでも壊れてしまいそうで、その様子を知っていた親戚たちが二人のために尽力してくれたのだ。
お世話を買って出てくれた親戚の近くのアパートに住み、姉である雛菊が高校を卒業するまでは食事は必ず親戚の家で取ることを条件に二人は一緒に暮らし続けることが出来た。
幸い両親の遺産も少なくはなかったので、今も大学に通ったり希望通りの生活をすることが出来ている。少しお金が足りなくて大学を休学することにはなったが、それでも十分幸せな人生を送らせてもらっている。
突然居なくなってしまった両親だけど、親戚の助けもあってここまで二人で一緒に生活できているのである。
「姉ちゃん、今日部活じゃなかったのかよ?」
葵がふと口を開く。葵は窓の渕に肩肘をついて流れゆく景色を見ていた。
「流石に今日は休むよ。葵だってアルバイト休んでるでしょ?」
「…まぁな。」
葵は雛菊の方を見ずに短い返事をするだけだ。
いつもは口数が少ないわけではない葵だが、今日は特別な日ということもあって色々考えているのかもしれない。
雛菊は父親の影響で剣道と柔道を幼い頃から習っており、大学に入っても部活を続けている。腕前も中々のもので、全国大会の常連でもあった。
周囲は剣道か柔道で世界に出ることを願っていたのだが、雛菊はそれを断り現在は教職の道を目指している。両親が亡くなった際に通っていた中学校の先生にたくさん支えてもらったことをきっかけに、自身も中学校の教師になることを夢見るようになったのだ。
教育大学に通う雛菊は英語と古典の免許取得を目指している真っ最中である。
「葵はダンスの選考会が来週でしょう?調子はどうなの?」
「もちろん上々に決まってんだろ~!」
今度は雛菊の顔を見て返事をした葵。表情はニカッと笑って得意げだ。
葵は高校を卒業した後、勉学の道は選ばずにダンスを学ぶ道を選んだ。学生時代の葵はアーチェリー部に所属し、大学の推薦入学を熱望されていたのだが、葵はダンスを選んだのだ。
今はダンスを学び大会やオーディションに出る傍らアルバイトをして生活している。
雛菊はダンスのことは全くわからないが、楽しそうにダンス漬けの毎日を送っている葵を見るのは楽しい。腕前も中々のようで、来週の最終選考に通過すると有名ダンスバンドグループに入れるらしい。
いつものようにぽつぽつと会話をしながら電車に揺られること20分、やっとのことで目的の駅に到着した。
無人の改札を出ると、幼い頃二人が走り回っていたあぜ道が広がっていた。
「相変わらずここは変わんねぇなぁ~。どこ見ても畑と田んぼばっか!」
そう言いつつも葵の表情は嬉しそうだ。
両親の墓は駅からゆっくりと歩いて30分の位置にある。
二人は自然と会話をしなくなり、それぞれ両親との思い出に浸りながら歩く。
梅雨の明けた今の季節は少し湿気混じりの風が二人の間を吹き抜ける。
季節も暑すぎず心地良い時間だ。
父は整体師で母は薬剤師の仕事をしていたいたって普通の夫婦。雛菊と葵が学校から家に帰ると、いつも夕食の美味しそうな匂いで迎えられた。嘘をついたら叱られ、頑張ったときにはたくさん褒めてくれる…時々喧嘩もするけど仲の良い家族だった。
春にはお花見に行ったり、夏休みには遊園地や旅行に連れて行ってくれた。
……しかし、そんな平凡な家族に突如として悲劇は降りかかった。
それは子どもたち皆が楽しみにしているクリスマスイブの日、雛菊が13歳で葵が11歳の時に起こった。
毎年クリスマスイブの夜は家族でパーティをする。大きなフライドチキンにお寿司等いつもよりたくさんの豪華な食事がテーブルを飾る。クリスマスケーキは少し離れた場所にあるお気に入りの店のものだ。
両親は昼ごはんを食べ終えると、クリスマスケーキやご馳走を買いに行くために車で家を出発した。留守番の雛菊と葵はクリスマスツリーや部屋の飾り付けを担当する。
少し喧嘩をしながらもクリスマスの飾り付けを終えた雛菊と葵はマンガを読んだりゲームをしたりながら時間を潰す。葵はあまりにも楽しみすぎてすでに三角の紙帽子を被っている。
しかし、両親が帰宅すると言っていた夕方の時刻を過ぎても玄関横の駐車場から車のエンジン音はしてこない。さらに奇妙なのはいつも予定時刻をすぎて帰宅するときは家に電話で連絡が入るのにそれもない。
クリスマスパーティの開始時刻が1時間過ぎても相変わらず音沙汰はなかった。母親の携帯電話も父親の携帯電話も繋がらず、次第に不安が募っていく二人。葵は不安からずっと雛菊の服の裾を握っている。
昨日のこの時間は母親が台所で食べ終わった食器を洗っていて、父親はソファに腰掛けてテレビを見ていた。しかし、何故かその光景は遠い日のことのように感じた。
雛菊と葵がお菓子で空腹で紛らわせていると、静かなリビングに電話の鳴る音が聞こえた。雛菊は即座に立ち上がり電話を取る。葵はそんな雛菊の後ろにぴったりとくっついて姉の様子を伺っている。
やっぱり嫌な予感は気のせいだったんだ!
「もう!どこに居たの?心配したんだか…」
「そちら、東雲さんのお宅でしょうか?」
父か母かと思って電話に出た雛菊だったが、電話の先の声は聞いたことのない中年男性の声だった。
両親は飲酒運転の車の事故に巻き込まれ死んでしまったらしい。
そこからの記憶は頭が真っ白になってあまり覚えていない。
初めて世界がモノクロになった日だった。
葵が何日も雛菊にべったりとくっついて離れなくなったこと、顔見知り程度の親戚のおばさんが迎えに来てくれたこと、両親のお葬式に参加したこと、事故の影響で両親の身体の損傷が激しく顔すら見れなかったこと…そんなことを断片的に覚えているだけだ。
何日経っても、何か月経っても頭は真っ白で雛菊と葵の世界は黒く染まってしまった。